「歩くたびに、鋭いナイフで刺されるような、血の出るような思いをするだろう」
魔法使いはそう言って人魚の姫に、しっぽが足になる薬をわたしました。
アンデルセン童話より
「望美。お前……」
「……?」
数瞬、問うように望美を見つめた将臣は、彼女の後頭部に手をまわし、己の顔を寄せた。
それまで望美の話に耳を傾けていた一同は箸を止めて、あっけにとられたように成り行きを見守る。
「お……い」
まさか、と思いつつもヒノエが声を発したのと、九郎の手から落ちた箸が皿にぶつかり音をたてたのは、ほぼ同時のことだった。
時空を渡った先で皆で過ごすようになってから、いくつかの季節が巡った。
朝に夕に食事を共にするうちに、いつのまにか食事時の席というものが定まり、給仕で立つことの多い朔と譲が入り口に近い側に並んで座るようになっていた。その隣にはヒノエ、弁慶、九郎と並び、望美は朔の向かいがいつもの場所だった。望美の隣は白龍の指定席で、その横には敦盛、景時、リズヴァーンと並ぶ。
望美や朔が時折笑い声を交えながらとりとめもなく話す横で、九郎たちが戦の進め方や剣術について語らっているというのもよく見られる光景だった。
京邸では九郎を欠くことも多かったが、熊野に来てからは大抵皆が揃って食事している。宿を異にしている将臣までが、こっちのほうが飯がうまいからな、と今日も当たり前の顔で望美の隣に陣取っていた。
そんないつもの夕餉時。
各々膳を前にして、和やかに話しながら皆が箸を動かしていた。
熊野に来たのは、熊野水軍の助力を乞うためで、それには水軍を統べる熊野別当に会わねばならない。ところが別当のいる本宮への道が川の氾濫で閉ざされ、望美たちは勝浦で足止めされていた。
焦れてみても、自然が相手ではどうしようもない。そもそも、この地を故郷とするヒノエや弁慶が口を揃えて「珍しい」と言う熊野川の氾濫が、そういつまでも続くはずはないだろうと考えた一行は気持ちを切り替えて、各々がはからずも手にした時間を満喫していた。
今日の望美は、朝から譲や景時達と連れ立って市に出かけた。
交易が盛んな港町ならではの市は、異国の装飾品も多く並ぶ。それらは十七歳の少女の目をずいぶんと楽しませたようで、望美は先ほどから市で見聞きしたことを身振りを交えて話したり、弁慶やヒノエに熊野の特産物や交易で手に入る物のことを興味深げに訊いたりしていた。
食べることも忘れて夢中になる様子に、譲が声をかけようとした時のこと。望美に呼びかけた将臣は、箸を置いて彼女に顔を寄せていった。
くちづける──!
誰もがそう思った矢先、けれど触れたのは口唇ではなく、額と額。
「兄さんっ。もう子供じゃないんだから、そういうのやめろよ」
不機嫌も露わに音をたてて茶碗を置いた譲の言葉など少しも意に介さない様子で、将臣は望美から身を離すと、何事もなかったように箸をとり食事を再開した。
「そんなに目くじらたてるほどのことかよ。それより望美。お前、熱あるぞ。とっとと食って寝たほうがいいぜ」
「熱? ……そうかなぁ?」
周囲の動揺をよそに望美もまた普段通りの表情で、箸を手にしていない方の手を自分の額にあてて首を傾げる。
その仕草を見つめていた他の者たちは、ようやく我に返り事態を把握した。
どうやら望美は体調を崩しているらしい──と。
弁慶は、すっと立ち上がり彼女の元まで近づくと、将臣との間に腰をおろした。
望美が額にあてていた手を、失礼しますね、と引き寄せて脈を調べながら、もう片方の手で彼女の前髪をはらい熱を診る。
「確かに。将臣くんに先をこされるなんて、薬師失格ですね」
「こいつはガキん時から熱出すと妙にテンション高くなるからな。飯も食わなくなるし、わかりやすいんだよ」
口の中のものを飲み下した将臣は、眉根を寄せる弁慶を一瞥すると、な? と譲に同意を求めた。
そんな兄の視線をどこか苦い表情で受けた譲は、ついと視線をはずして、ああ、とだけ答えると、望美に向き直った。
「先輩、気分は悪くないですか?」
「平気平気。なんともないよ?」
注目が集まりほんの少し居心地の悪さを覚えながら、望美はからからと笑って顔の前で手を振る。
「神子。今朝も食事を残していたな。食欲がなくとも、もう少し食べなさい」
話してばかりいた望美の膳は、まだあまり手をつけられていない。箸を置いたリズヴァーンは気遣う瞳を向けながら、そう促した。
「はい……」
素直に返事をしたものの、実のところもう食べる気はしない。特に具合が悪いわけではないけれど、ここのところあまり食欲がなく、なんとなく体がだるかった。連日の暑さに加え、熊野までの旅の疲れが出て、夏バテしたのだろうかと思っていたけれど、熱があるなどと言われると、なんだかだんだん病人の気分になってくる。
「もう食べたくないって顔だね。だったらちょっと待ってなよ」
箸を手にしたまま仄かにため息をこぼした望美に、ヒノエはそう言って部屋を出て行った。
ほどなくして戻った彼は、小さな竹籠を携えている。
「これならどうだい? 食後に献上しようと思ってたんだけどね」
籠の中には、真っ赤な実がいっぱいに盛られていた。親指の先ほどの丸いそれらは、果物ならではの甘酸っぱい芳香を放っている。
「わぁ……これ、野苺かなにか?」
「楊梅ようばい、という」
敦盛は、懐かしむように瞳を細めて答えた。
「ようばい?」
「ここのところ姫君は食欲がなさそうだったからね。これなら、お気に召すんじゃないかと思ってさ」
そう言ってヒノエは籠から一粒つまみあげ、望美の口元へと運んだ。
「食べてごらんよ」
そんな風に差し出されてしまえば、拒むのも悪い気がしてしまう。
食べさせてもらうことに気恥ずかしさを感じながらそれを口にすると、瑞々しい甘さに思わず頬が緩む。
「おいしい」
「お前のそんな顔を見られるなら、山まで行った甲斐があるってもんだね」
目を輝かせる望美に、ヒノエは満足げに微笑むと自身も一粒口に放り込んだ。
「山って……。じゃあ今日の用事って、もしかして、これ?」
「まぁね。ふたりきりって誘いなら、断りはしなかったぜ?」
今朝、市に行くのにヒノエにも声をかけたものの、断られてしまった。
いつもの言動からして遊びに行く誘いを断ることなどないだろうと思っていた望美は、彼が同行しなかったのを意外に感じていたが、どうやらこのためだったらしい。
「ありがとう」
「こんなことで花の笑顔を拝めるならお安い御用ってね。ま、暑さにやられて萎れていても、美しい花の色は損なわれやしないみたいだけど」
そう言って望美の頬を撫でようとしたヒノエに、大人の姿となった白龍が子供のような無邪気さで尋ねる。
「ヒノエ。これ、食べてもいい?」
「あ? ああ、いいぜ」
許可を受けて、白龍は嬉々としてそれを口にした。
「おいしい。それに、清浄な気に育まれたんだね。陽の気をたくさん宿している。これは、神子を元気にするよ」
「へぇ、そいつはよかった。だってさ、お前らも食えば?」
ヒノエはそう言って一同に向き直ると、皆の前に籠を置いた。
望美はそこから一粒手にすると、その赤い実をしげしげと見つめる。
「果物屋さんとかでも見たことないな。初めて見たよ」
「初めてって、山桃だぜ? ガキん時、どこだかに行った時に、摘んで食っただろうが」
将臣は呆れたように言いながら、それを二粒同時に口に入れた。
「お、甘いな」
「そんなことあったっけ? 譲くん、覚えてる?」
種を口から出す将臣を見ながら首を傾げた望美は、もうひとりの幼馴染みに話しをふってみたものの、譲もやはり「さぁ」と首を傾げるだけだった。
「譲はともかく、お前も覚えてないのかよ。ポケットに入れてたのがつぶれて大変だったじゃねぇか」
「そういえば」
記憶を手繰ってみれば、そんなこともあったような気がしてくる。しかし、頭の奥がなんとなく重くて思い出せないのは、自覚はあまりないけれど熱のせいなのかもしれない。
「君たちの世界にも、楊梅があるんですね。これは薬にもなるんですよ。実だけではなく木の皮のほうも」
弁慶はそう言いながら、もう一度望美の顔をじっと見つめ、彼女の首筋に手を伸ばす。
なにかを確かめるように触れた指先はすぐに離れ、すっと立ち上がった薬師はいつもの柔和な笑みを浮かべた。
「夜にはもっと熱があがるかもしれません。僕は薬湯を作ってきますね」
「え、薬湯」
「ふふ、なるべく苦くない物を作るよう、努力しますよ」
以前怪我をした望美に薬湯を作ってくれた時にも、彼は同じことを言った。
努力しますよ、と。
望美はその時に、努力はあくまでも努力でしかないことを学んだのだ。
「お願いします」
頬をひきつらせながら発した言葉に頷いて、弁慶は厨へと行ってしまった。
「お風呂に入ったら、今日は早く寝ようかな」
その発言に、朔がぴしりと望美を叱る。
「湯浴みは、ダメよ。望美」
「え、だって汗かいたし、具合は悪くないよ?」
朔だけではない。ここにいる全員が、望美を咎めるように見つめていた。
「熱がある奴が何を言っているんだ。いくら剣の腕があがっても、自己管理もできないようでは、話しにならないぞ」
「熱っていっても多分風邪だし、大丈夫かな、なんて」
いくら少し熱があるといっても、夏の炎天下に外を歩き回った身で、お風呂に入ることもなく寝床に入るなど、素直に頷けようはずもない。風邪程度ならばお風呂に入ってすっきりしてから眠る方が、いいに決まっている。けれど。
「風邪を甘く見るなよ、望美。こっちじゃ風邪でも人が死ぬんだぜ?」
思いのほか真剣な将臣の声音に、望美は渋々ながら従った。