人魚の足跡

目覚めれば、目前には青い海が広がっていた。
船の上にいるということはわかるけれど、自分がなんでこんな場所にいるのか思い出せない。
鈍く痛むお腹に手を当てようとして、腕を動かした途端、こすれた痛みが走った。
後ろ手で手首を縛られているらしい。
「へへっ、お目覚めかい? お姫様」
背後から覗き込んできた髭面の男の顔に、望美は状況を理解した。
自分は、得体の知れない男たちに捕らわれたのだと。

朝早く景時が別当との対面の約束を取り付けてきて以来、望美は落ち着かない気分で過ごしていた。
町では『龍神の神子はおしとやかな姫君』で、そんな龍神の神子に『熊野の別当もご執心らしい』と噂されている。
『おしとやかな姫君』というのが真実からかけ離れているあたり、別当の執心具合も推して知るべしだ。
それでも多少の可能性に賭けるよう皆に諭され、噂に便乗して、今日はそれらしく振る舞うことになっていた。
それにはまず見た目から、ということで、美しい着物が用意されているものの、それらを一人で着ることの出来ない望美は、支度を朔に手伝ってもらうことになっていた。
立ち上がって外の様子を窺うが、まだ朔の来る気配はない。
目の前に掛けられた、鮮やかな若草色の衣。
この世界に来てからはほとんど同じ格好で過ごしていて、おしゃれとは無縁の日々だった。
『おしとやかな姫君』を演じる為とはいえ、着飾るのは久し振りのことで、本当ならもう少し華やいだ気分になってもよさそうなものだけれど、今の望美の頭の中は、別当との対面のことでいっぱいだった。
(今度こそ、熊野水軍に力を借りなくちゃ)
意気込んではみるものの、別当をどう説得したらいいのか、これといった案はいまだ浮かばない。
望美は時空を超える前の夏を思い出し、深いため息を落とした。
あの日対面した、隻眼の──水軍の頭領にして熊野別当だという男。
大きな体躯。日に焼けた肌。そして、威圧感のある声。
低い声で、男はきっとまた問うだろう。
この戦、源氏は勝てるのか? と。
なんと答えれば、熊野水軍は力を貸してくれるのだろう。
今の戦の状況は、前の時空の時とそうは変わらないように思える。
源氏が有利だと言い切れるものがないことくらい、望美にだってわかる。
それでも、勝つのは源氏だと言いきれば、熊野は力を貸してくれるだろうか。
きっと無理だ。
別当は間者を使って、正確に今の戦の状況を把握しているはずだと聞いた。
嘘など通用するはずもないし、そのせいで却って信用をなくすかもしれない。
(どうしたらいいの?)
ここで熊野の助力を得られないなら、もうあの運命を避ける分岐点らしきものは検討もつかない。
失いたくないのに。
皆を守りたいのに。
手がかりも目印もないままに、もがくようにここまできたけれど、どこかで何かを間違えたのかもしれない。
何をすればいいの?
どこからやり直せばいいの?
(ううん。まだわからない。会って、話して、今度こそ──)
「緊張してるのかい? 姫君」
突然声がかかり、望美の体がびくりと揺れた。
振り返れば、知り合いに挨拶してくると言って出かけたはずのヒノエが立っていた。
「そろそろ『お姫様』の支度が済んだ頃かと思って、寄ってみたんだけど?」
「ひとりじゃ着られないから、朔の手が空くのを待ってるの」
どこか上擦った声。
浮かべた笑みが強ばっているのが、自分でもわかる。
けれどヒノエはそんなことには少しも気づかない顔で、そう、と答えた。
「着物、ありがとう。綺麗な色だね」
目の前にかけられた衣に、そっと触れて礼を言う。
滑らかな触り心地と、柔らかな光沢。
きっと上質のものに違いない。
「お気に召したならなによりだ」
「うん、気に入ったよ。着るのが楽しみ」
「ふふ、オレも楽しみにしているよ」
「……も」
「うん?」
「……ううん。なんでもない。朔、遅いね。時間、大丈夫かな?」
部屋の外を窺うフリで、ヒノエの問いを躱す。
別当さんも気に入ってくれるかな、と。
言いかけてやめたのは、不安を口にするのが怖かったからだ。
不安を僅かでも口にしてしまえば、止められずに溢れてしまいそうだ。
だから望美は己に、大丈夫、とただ言い聞かせた。
「オレが手伝おうか?」
悪戯っぽい笑み。明らかに冗談と知れる言葉。
そんな軽口が、とても心地いい。
「またヒノエくんってば」
「ふふ、いい笑顔だね。こんなに可愛い姫君が、更に美しく着飾って訪ねて行くんだ。気に入らない野郎なんて、いるはずないさ」
その言葉に、隠したはずのものを不意に掬われた心地がして、笑顔が剥がれ落ちる。
こんな時に、見透かすような言葉はずるい、と思った。
本当はずるくなんかない。ただ、そんなヒノエに自分が甘えそうになるから、それが怖いだけだ。
甘えて、頼って。
そんな自分が、あの終わりを招いた。
見殺しにして、自分だけが生き延びた。
神子として、もっとちゃんと出来ていたら、違う未来が開けていたかもしれないのに──今探している未来が。
望美は言葉を継げずに黙り込む。
いつもなら、すぐにこんな雰囲気を払拭するように軽口をたたくヒノエも、なぜか少し困ったような表情でこちらを見つめていた。
そんな沈黙を破ったのは、早足でやってきた朔だった。
「望美、待たせてしまってごめんなさいね。きれいな紅が……ヒノエ殿、ここにいたのね。あちらで弁慶殿が探していたわよ?」
手には支度道具が入っているのだろうか、木箱を二つ携えている。
それらを少し慌てた様子で床に下ろすと、遅れを取り戻すように手早く、掛けられた衣や並べられた紐などをざっと確認し始めた。
「ありがと、朔ちゃん。じゃあオレは野暮用を片付けてくるかな。お姫様姿、楽しみにしてるぜ?」
ヒノエは、朔と戸惑いを残したままの望美に声を掛けると、軽く手を振って部屋を出て行った。
 
 
「なに!? 放して!」
「おとなしくしてろこのアマ! 海に放りこまれてぇのか!」
髭面の男は、強引に望美を立たせると、一喝した。
その勢いに思わず首を竦めながら、そっと周囲を窺えば他に男が二人立っている。
(平家?)
咄嗟に、熊野別当との対面を邪魔する為、龍神の神子である望美を攫ったのかと思った。
しかしそれならば、きっととっくに命を奪われているのではないだろうか。
刀を帯びているものの、兵士や武者という様子には見えない。
「わ、私をどうするつもりなのっ!?」
自らを奮い立たせながら男達に言い放つと、ひょろりと背の高い男が刀を抜いて近づいてきた。
「イキがいいこった」
刀を望美の頬に当てる。その冷たい感触に息を呑むと、男は面白そうに目を細めた。
「いったい、どこのお嬢サンだぁ、ん?」
頬に当てられた刀はするりと移動し、彼女の腕を戒めていた縄を切ると、鞘へと収められた。
ワケがわからないままに、ひりひりと痛む手首を撫でながら、相手の出方を窺う。
「とっとと文を書きな。助けてくださいってな」
もう一人の太った男が、筆と紙を差し出してきた。
思わず受け取ってしまったものの、いったいどこに文を書けというのだろうか。
今ひとつ状況がわからず、筆と紙を持ったまま立ちつくす望美に焦れたように髭面の男が再び怒鳴った。
「早く書かねえかっ! 身代金を支払ってくださいってな!」
ようやく状況を理解する。
平家も源氏もなく、これは身代金目当ての誘拐だ。
男三人対女一人。
状況は何一つ変わらないままに、相手が平家ではないとわかっただけで、望美は少しホッとした。ホッとして、やがて徐々に怒りが湧いてきた。
朝から気持ちを張り詰めさせていたのだ。
別当との対面を考えて、それに備えて準備していた。
なのに、こんな風に男達に攫われて、このままでは別当を待たせて怒らせることになりかねない。
湧いてきた怒りは恐れを消し、逆に望美を冷静にさせた。
「身代金なんて誰も払わないよ」
「気が強いお姫様だねぇ。綺麗な顔に傷をつけられる前に、親兄弟に文を書いた方がいいんじゃねぇか? あん?」
長身の男は、再び刀に手をかけた。
けれど、この状況ですぐに斬りかかってくるようにも思えない。
「私、お姫様なんかじゃないってば。親兄弟だっていないし」
(この世界にはね)
心で舌を出しながら、どうにか刀を奪えないものかと考える。
一番隙がありそうなのは、太った男だ。
男達は、まさか望美が剣を振るうとも思っていないだろう。隙をついて刀さえ奪えれば、どうにかできないだろうか。
しかし隙を突くにしても、さすがに男三人相手では無理があるように思える。
ましてや一人は至近距離で、刀に手をかけているのだ。
「じゃぁ、なんでそんなイイおベベ着て、しゃなりしゃなりしてんだよ?」
「いい服を着てたってお姫様とは限らないよ。私をお姫様と間違える方がどうかしてるよ!」
「なんだと! チキショウとんだ無駄足かよ! こうなったら、こいつを海に叩き込んで…」
だから身代金など諦めて、と言葉を続ける前に、髭面の男が望美に掴みかかってきた。
その時。
「待ちな!」
「ヒノエくん!?」
思わずその名前が口をつく。
突然の闖入者に虚をつかれた男達と望美との間に、ヒノエが割って入った。
「ケガはないかい? 姫君」
振り返らないままにヒノエが問う。
「う、うん」
男達同様に驚いている望美は、そう返事するのがやっとだった。
肩越しに少しだけ振り返ったヒノエは、口の端に笑みを浮かべると、再び男達に視線を戻した。
「な、何者だぁてめぇ!?」
「オレを知らない? それでも海の男かよ。見るべきものも見えてねぇ、そんな目ついてる意味ないぜ」
「小僧、言わせておけば!」
長身の男が刀を抜く。それに倣うように、他の二人も次々に刀を抜いた。
「お前らみたいな三下には、名乗ってやらなきゃわかんねぇかな? オレは熊野別当、藤原湛増。オレの姫君に汚ねぇ手で触ったんだ。覚悟はできてんだろ?」
ヒノエはそう言うと、腰のカタールに手をかけた。
(ヒノエくんが、熊野の別当?)
一瞬信じそうになった望美は、すぐにそれを打ち消した。
そんなはずはない。きっといつものハッタリで、相手を脅かしているのだろう。
実際相手は三人共、ヒノエの発言に怯んでいた。
「補陀落渡海としゃれこませてやるよ。ゆっくり後悔するんだね。さて、最初はどいつからだい?」
抜いたカタールが、太陽の光を反射する。
望美も加勢しなければと周囲を見渡すが、武器になりそうなものが見あたらない。
ふと、海原の向こうから続々とやってくる影が目にとまった。男達の背後から来るそれらに、三人はまだ気づいていないだろう。
「お、おい…」
「お前、行けよ」
「何、ビビってんだよ! 相手は一人だろ!」
長身の男が、他の二人を一喝してまっすぐヒノエに刀を向けた。
けれどヒノエの余裕の声音はまったく変わることなく、それどころか面白そうに「一人…ね」と呟くように言った。
「さっきまではそうかもな。だけど、残念ながら…時間切れってね」
「頭領! お待たせしやした!」
口々に叫ぶ水夫衆を乗せた船が、次々とヒノエと望美の乗る船へと寄せられてくる。
乗り移ってきた水夫達は、もみ合いになりながらも、すぐに誘拐犯達を取り押さえた。
それを見届けて、ヒノエはカタールを腰に収めると望美に向き直った。
「待たせたね。姫君」
「ありがとう。私一人じゃ、さすがに手に余ったよ。恩に着るね」
「えっ、お前一人で戦う気だったのか? すごいな、望美は」
ヒノエは赤くなった望美の手首を取り、痛くないかい? と尋ねた。
縄にこすれたせいで、ひりひりとした痛みはあるものの、大したことではない。
望美は自らの手首を撫でながら、大丈夫と微笑んだ。
「別当さんが、力を貸してくれたの?」
「え…?」
十数隻の船が、望美達の周囲を取り囲むようにしている。
水軍というものがどういう仕組みかはわからないけれど、いくらヒノエがその一員とはいえ、勝手にこれだけの船を動かして、別当の名を騙れるはずがない。
「頭領。こいつらは、どうするよ?」
船に飛び乗って来た男は、望美を攫った男たちを指し示した。
その男の姿に、望美は目を瞠った。
「あ? ああ、オレの姫君をこんな目に遭わせたんだ。今すぐ重しをつけて海に放りこんじまえ、と言いたいところだけどね。一応は調べとくか。そのまま縛り上げて連れ帰っときな」
「はいよ」
ヒノエの言葉に頷いた男は、他の水軍衆に取り囲まれて命乞いする男たちを、縄で縛り始めた。
「どういう、こと?」
詰めていた息を吐き、望美はようやくそれだけ口にした。
見間違えるはずはない。たった今、ヒノエを頭領と呼んだ男は、望美があの時空で初めて熊野を訪れた時、頭領として対面した男だった。
確かに、船に現れたヒノエは『熊野別当・藤原湛増』だと名乗った。
でもそれは、望美を攫った男達に対する、はったりだと思っていた。
「ヒノエくんが…頭領?」
まさか、と呟くように言った言葉を、ヒノエは否定しなかった。
「そうだよ。オレが別当。熊野水軍の頭領だよ」
「なん…で?」
あまりにあっさりと肯定され、望美の中で何かが弾けた。
「なんでっ! どうして言ってくれなかったのっ!?」
両腕を掴み、揺さぶって問いただす。けれどヒノエは、何も答えない。
「面白かった? 別当に会うために必死になって、こんな格好までしてっ!」
綺麗に着飾り、紅を塗り、どんな風に振る舞えば気に入って貰えるのだろうかと考えていた。
すべてをすぐ近くにいて見ていたはずなのに、ヒノエは自分の正体を明かすことはなかった。
「私たちが一生懸命だったの知ってて、あんまりだよ!」
「……かもね」
「それだけなの!?」
「お前に隠してたのは確かだからな。言い逃れしたってしょうがないだろ」
まっすぐに見つめ返す眼差し。
望美はその眼差しを見つめながら、言い訳を欲しがっている自分に気づいた。
言えない事情があったのだと、ヒノエの口から聞きたかった。
「言い訳くらい…してよ…」
気付けば頬を涙が伝っていた。
悔しくて、哀しくて、ぐちゃぐちゃの感情があふれかえる。
「望美…」
ヒノエの手が、そっと望美の頬に伸ばされる。
その手を思い切り払いのけると、おろしたての着物の袖で己の涙を拭った。
拭っても、拭っても、それはなかなか止ることはなかった。

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