人魚の足跡

「暑い~」
寝返りを打った望美は、身を起こして息を吐いた。
蔀戸を開け放っていても、風はそよとも吹き込んで来ない。
一昨日熱を出した望美は、昨日は丸一日寝込んでいた。
今朝、目を覚ましてみれば熱は下がり、すっかりよくなったようで、朝餉を口にすることもできた。
本当なら起き出して川べりかどこかに涼みに行きたいくらいなのに、いまだ床に就いているのは、おとなしくしているよう弁慶に釘を刺されたからだ。
「アイスが食べたいなぁ」
叶わぬことを口にして、苦笑する。
クーラーも冷蔵庫もないこの世界では、夏にアイスどころか氷すらあり得ないだろう。
『夏なんだから暑いに決まっている』
暑い暑いと繰り返す望美に呆れたような声音で九郎が言った、あれは初めての夏。
(去年の夏は、風邪なんてひかなかったのになぁ)
そんな風に思ってから、去年じゃないか、と思い直す。
彼女にとっては『去年』のように感じる夏は、実のところ『今年』の夏だ。
時空を越えるということは、自らの時間感覚と本当の時間との間に深い溝を生むものらしい。気を抜くと、まだこの時空の自分が知るはずのないことを知っていると言いそうになったり、誰も知らないはずの想い出を口にしそうになる。
そんなことがある度に、仲間と共有したはずの時間が自分の内にしかないという事実に改めて気付き、望美は取り残されたような寂しさを感じていた。
(運命は、変わっているの?)
冬からなぞり始めた2度目の季節は、あっという間に夏になってしまった。
繰り返した時間の中で、確かに何かが変わっているはずだと思う。
時空を超える前、初めてヒノエに出逢ったのは、この季節だった。
あの時のヒノエはみんなと一緒の宿で寝起きをしておらず、時折姿を現すくらいだった。今の彼は、当たり前のように行動を共にしている。
けれど、そんな風に少し変ったくらいでは駄目なのだ。三草山の戦で、望美はそれを強く感じた。
三草山では平家の策を見破り源氏が勝利したものの、結果として味方に多数の犠牲が出たことに変わりはなかったのだから。
 
炎に包まれた京。
逃げまどう町の人々。
そして──熱風に晒されながら、仲間を見殺しにした自分。
 
(どうしたら、あの運命を辿らずに済むの……?)
 
溜息をついた望美の目に、桶が映る。
桶の水と手ぬぐいに笑みを浮かべた望美は、蔀戸を閉めると、単衣を脱ぎ、自らの体を拭き始めた。
 
 
体を拭いて着替えると、暑いながらも少しはすっきりとした気分になる。
縁に出てみれば風も感じられ、心地よさに目を閉じて望美はひとつ伸びをした。
(考えていてもしょうがないよ。きっと何か出来るはずだもん)
剣を合わせる微かな音と、九郎の掛け声が聞こえて来る。リズヴァーンと稽古をしているのだろう。
庭にまわってみれば、思った通り二人は剣を合わせていた。稽古は実戦さながらの気合いが感じられ、望美はその場にじっと佇み、師匠と兄弟子の動きに見入る。
振り抜く鋭さが、次の構えに移行する早さが、目にする動きすべてが、己の腕はまだまだなのだと教えているようで、知らず両の手をぎゅっと握りしめた。
「もう起きて大丈夫なのか?」
やがて、望美に気付いた二人は剣を下ろした。
刀を鞘に収めた九郎が、気遣うような視線を寄越す。
「はい、すっかりよくなりました。弁慶さんの薬湯が効いたみたいです」
「あいつの薬湯は確かに効く。……味はひどいがな」
九郎も飲んだことがあるのだろう。顔をしかめながらそう言って、汗を拭った。
「ふふ、そうですね。先生、私も稽古をつけてください。今、剣をとってきますから」
無駄な動きがないからか、ほとんど汗をかいていないリズヴァーンに、望美はそう言って踵を返そうとした。
「おい、治ったばかりで何を言っているんだ。しばらくおとなしくしていろ」
「本当に、もう平気ですから」
それまで黙って望美を見つめていたリズヴァーンは、首を横に振る。
「駄目だ」
「大丈夫ですよ。もう熱もないし」
「病み上がりで、そのように動き回るものではない。それに、今のお前がすべきは剣の稽古ではあるまい」
「先生……?」
「神子。お前は未来を拓く者。先を見て歩まねばならない。しかし、己が立つ場所を見極めねば、歩み出すことも叶わぬ」
「どういう、意味ですか?」
心の内すべてを見透かすような眼差しに、目を逸らしそうになる。そんな自分を励ましながら、望美もまたまっすぐにリズヴァーンの目を見つめ返した。
「迷ったままの剣では、何者をも斬れない」
「──っ、迷ってなんか!」
いない、と言いかけて言葉を呑む。
本当は、いつだって迷っている。
これで正しいのか。
この選択で救えるのか。
運命を変えることなど、本当に出来るのか。
それでも、自分が振り下ろした刃の下で断たれた命が──己が断ち切った命が、幾つもあるのは事実だ。
「斬ることは、斬ることはできます。怨霊だって、……人だって。決めつけないでください!」
迷っていても、自信がなくとも、立ち止まってはいられない。
あんな思いを二度としない為に、進まなくてはいけない。──何処かに。
「お前、先生になんて口のきき方だっ」
「だって!」
「ずいぶんと、元気になったようですね。望美さん?」
この場におよそ不似合いな穏やかな声に、望美はギクリとしてそろそろと振り返った。
「僕は2、3日はおとなしく寝ていてください、と言いませんでしたか?」
やわらかな口調と微笑みは、少しの怒気も孕んではいない。
けれど、静かな怒りを感じるその気配に気圧されて、後ずさりしそうになる。
「今朝、言いましたよね? 変だな、僕が言い忘れたのかな」
「は、早かったですね。もう薬草を摘んで来たんですか」
誤魔化すように笑いながら、望美はどうにか口を開いた。
今朝、薬湯を持ってきた彼は、夏にしか摘めない薬草を集めに出掛けると言っていた。もちろん『治ったように思えても、2、3日はおとなしく寝ていてくださいね』と、しっかり言い置いて。
「えぇ。手伝いを連れて行ったので、思ったよりも早く済みました」
「おい、全部厨に置いて来たぜ。へぇ、もう起きて平気なのかい? 姫君」
庭からまわってきたヒノエは、望美を見つけると目を細めた。
「う、うん。もうすっかりすっきり完璧によくなっ」
ヒノエに向かって。しかしその実、弁慶に。
精一杯、もう起き出しても大丈夫になったということを訴えようとしたものの、それを許す相手ではない。
「望美さん」
望美が上目遣いにそっと伺い見ると、弁慶の顔からは先ほどまでの笑みは消えていた。
「はい」
「熱が下がったからと言って、体がきちんと回復しないうちに動き回ればすぐにまた熱が出ますよ。お願いですから、もう何日かはおとなしくしていください。それとも、また熱を出して、あの薬湯を飲みたいですか?」
「いえっ、それは」
匂いだけで吐きそうになった、ひどい味の薬湯を思い浮かべる。
あれをまた口にするくらいなら、おとなしくしているほうが何倍もマシに思えた。
「姫君が好きそうな物を見繕ってきたからさ。部屋に戻ろうぜ?」
ヒノエに促されるまま、望美はその場を後にした。

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