柱にもたれて座るヒノエは、望には少し足りない月を眺めながら杯を傾けた。
極上のはずが少しも旨くはない酒を流し込みながら、昼間見た光景を思い返す。
烏の報告を受け、出掛けた先で見たものは、二度の出会いを偶然という言葉で片づけてさえいなければ、予想できて然るべきものだった。
「ヒノエ、話があるのだろう?」
月見でもしようぜ、と誘ったヒノエに察するものがあったのだろう。目の前の杯に手をつけることもなく、敦盛は口を開いた。
「知盛が、熊野に来てる。平家も源氏も、困った時の権現頼みってね」
「……そうか」
敦盛は、このことを知っていたのだろうか。
知らないはずはないだろう、そう思いながら杯に残るそれをひと息に飲み干したヒノエは、口元をぬぐって切り出した。
「お前相手に、まわりくどいこた言いたくないからね。単刀直入に訊く。将臣が、還内府か?」
平知盛が熊野に来ている。
その報告は、ヒノエにとって驚くほどのことではなく、いずれ近いうちに平家の誰かが熊野にやって来るだろうと思っていた。
平家にしてみれば、今後の戦を有利に進めていく為にも、熊野の水軍は味方にしておきたいはずだ。それが叶わなくとも、せめて源氏に力を貸さない確約が欲しいに違いない。
湛快の息子が現熊野別当であるということは平家の人間なら誰もが知るところで、昔から熊野を幾度も訪れていた彼らには、ヒノエの顔は当然知られている。
知盛が来ているならば、こちらから出向いてやるほうが話が早い。
川の氾濫が収まってからなどと悠長に構えている間に、九郎たちと鉢合わせされて、いらぬ騒ぎを起こされるのは迷惑だったからだ。
熊野は中立だと言い渡すつもりで出掛けて行ったのに、そこで見たもうひとりの人物に、ヒノエは知盛と話すどころか、姿を見せることもなく立ち去った。
── なぜ、将臣が?
将臣は、熊野で再会して以来、共にいる時間こそ長かったが、連れがいると言って宿を異にしていた。その連れが、知盛だったということだ。
なぜ、と思いながら、けれどもう答えは出ていた。
こちらの動きに合わせていたかのような、京と熊野での再会。
せめて熊野で会った時点で、もっと疑っておくべきだった。将臣は、あんなにも重盛に面差しが似ていたのだから。
「将臣殿は、元は平家の客人だった方だ。伯父上が、招かれた」
「へぇ、客人が今では棟梁かい? 平家もずいぶん様変わりしたもんだね」
ヒノエの問いを否定することなく答えた敦盛に、思わず皮肉が口をつく。
「……」
「八葉なのをいいことに、源氏の動向を探りにきてるってことかな。そういう大胆な奴も、嫌いじゃないけどね」
いつもなら、いっそ面白がったに違いない。
しかし、将臣が利用しているのは八葉という役割だけでなく、望美の幼馴染みという立場もだ。
ヒノエは敦盛が手をつけない杯を横目に、自らの杯に酒を注ぐと、それを一気に呷った。
「将臣殿は……知らないと、思う」
「知らない? お前……言ってないのか?」
「私の口から、言えるようなことではない」
源氏に与すると決めた敦盛が、平家方の人間に機密とも言える一行の正体を明らかにできるはずがない。
「知らないって……。あいつは、望美が白龍の神子だと知って」
いや、待てと思う。
巷に伝わっている噂は『伝説の龍神の神子が現れ、源氏の神子となって平家と戦っている』というだけのものではなかったか。その名前も、容姿も、正確な情報が伝わっているわけではない。
もしも将臣が、望美は怨霊を封印してまわっているだけの存在で、源氏の神子とは別人だと思っているのだとしたら。
近すぎるあの二人の距離が、すべてを偶然で片づけさせているのだとしたら。
「すまない」
苦悩を滲ませて、敦盛は詫びた。
彼はどんな思いで、将臣と望美を見ていたのだろうか。
その心情を思いやり、ヒノエは目を伏せて労るように呟いた。
「お前が謝るようなことじゃねえだろ」
敦盛のせいではない。
将臣のせいでもない。
誰かのせいではないけれど、この事実を知った時、あの幼馴染みたちはどうするのだろうか。
「ったく、ろくでもねぇぜ」
吐き捨てるように言ったヒノエは、杯に浪波と酒をつぎ、再び飲み干した。
「飲まないのかよ?」
敦盛が存外酒に強いことを知るヒノエは、相変わらず杯に手を伸ばすことすらしない彼に、ため息をついた。
「神酒じゃなければ、お前も呑めると思ったんだけどね」
息を呑む相手の気配に、つまらないことを口にしたと、苦い思いに駆られながら舌を打つ。
「気付いて……いたのだな」
「一応は、神職だからね」
気付かぬふりで、通すつもりだった。
将臣のことを訊くつもりではいたけれど、ただいつかのように酒を酌み交わしたいという思いもあった。
三草山で再会した時、始めは周囲にたちこめる怨霊の気配が濃過ぎて気付かなかった。京に戻る道すがらでなお消えることのない気配に、疑いは徐々に確信へと変わっていった。
「敦盛。お前、いつ……」
平家の情勢には気を配っていたし、身内から自然と流れ来る話も多々あったが、敦盛が病や怪我に倒れたなどという話は、熊野には届かなかった。
── いつ、怨霊になんてなったのか。
やるせない問いは、口にすることなく胸に止めた。
今ここに確かに存在する相手に、そんな問いをぶつけるのは無粋でしかない。
「いや、……いいのか? このままここにいれば、戦場で身内とやりあうことになるんだぜ? 今なら、知盛と一緒に平家に帰ることだってできる」
平家は、一族の結束がとても固い。その中で、年少の敦盛は皆に可愛がられて育った。幼少の頃熊野に来た敦盛が、経正だけでなく惟盛や知盛たちを兄のように慕っていた姿や、周囲が彼を温かく見守っていた様子が思い出された。
「覚悟なら、できている。それに神子が」
敦盛が、熱を出した望美に付き添っていた時のこと。
熱を看ようと額に手をあてると、彼女は「冷たい」と呟いた。
「すまない」
「あ、ううん。気持ちいいんです。少し、こうしていてもらってもいいですか?」
熱に潤んだ瞳で訴えられて、敦盛は引っ込めた手を再び額に手を添えてやる。
「気持ちいい」
「私のような者でも、神子の役にたてることがあってよかった」
人の体温というものを失った己の手が役に立つなど、敦盛には思いもよらないことだった。微笑んでそう言った敦盛に、望美は心地よさそうに閉じていた目を開くと、まじまじと敦盛の顔を見つめる。
「あのね。役に立つっていう言い方は好きじゃないけど、敦盛さんはいてくれるだけで役に立ってますよ。だって、いてくれるだけで心強いじゃないですか」
「いる、だけで?」
「そうですよ。だって、仲間ってそういうものでしょう?」
望美の言葉は、体温を失って久しい敦盛の心を温めた。
敦盛の話を聞いて、ヒノエは、仲間ね、とひとりごちた。
望美はきっと、敦盛を励まそうとか元気づけようとしたわけではないだろう。思ったことを、そのまま口にしたに違いない。
彼女のことを思い描きながら口にする酒は、少しだけ旨い気がした
「神子が私を必要とするなら、私のような者でもここに在る意味があると思える」
敦盛はそう言って微笑んだ。
「それに……一族の者も、解放してやりたい」
「そっか」
なにから、とは問わなかった。
それは訊くまでもないことだ。
「ふっ、ガキの頃、こっそり権現様の酒を飲んで叱られたよな」
遠い日を思い出しながら、ヒノエは敦盛を見た。
子供の頃。
祭祀が終わった神殿に忍び込み、献上された様々な物の中から神酒を持ち出した。
「あれは、ヒノエが」
「お前も飲んだんだから同罪だろ」
おいしいなんて少しも思わなかったけれど、それだけでいっぱしの大人になった気がした。
すぐに神職に見つかった二人は、湛快の元に連れて行かれ、その場でこっぴどく叱られた。
あの頃は、叱られるようなことばかりをしていて、はたかれたり、庭の木に縛り付けられたりの毎日だった。
けれどそれは、今こうして思い返せば笑い話になる、大人たちに庇護されていた頃の話だ。
怨霊になってしまった幼馴染みを前にしてすら、懐かしむことは出来ても、あの頃の方がよかったとも戻りたいとも思わない。
小さな出来事が一族同士の争いへと発展し、昨日まで親しく言葉を交わしていた者たちが刃を向け斬りかかってきた時の衝撃は、今でもまざまざと思い出せる。
自分の弱さが、人の死を招いたこともある。
あの頃は、早く大人になりたかった。
大人になって、守れる者になりたいと願った。
湛快により熊野三山はひとつにまとめられ、分家も本家も血を見るような争いは、その後起きてはいない。
そして今。この地を守るための力と立場を、自分はようやく手に入れたのだ。
── 守りたいんだよ
望美の強い眼差しを思いながら、ヒノエは月を見上げる。
── 守りたいのはオレも同じだよ、姫君……
「ヒノエ?」
「そういえば、春に京で望美と会ったって? お前も隅に置けないな。オレより先に、神子姫サマと逢瀬とはね」
三草山で聞いた話を思い出して、からかうように目を細める。
「なっ、そのようなものではない。神子に、聞いたのだろう?」
「ああ、三草山でお前を助けた時にな。源氏の軍奉行の邸に逃げ込むだけでもいい度胸だってのに、名まで名乗るとはね」
「……? あの時、私は名乗ってはいないはずだが。神子が、勘違いしているのだろう」
「へぇ」
勘違いのはずはない。
あの時、敦盛は意識がなかったし、譲の話からしても、望美は彼を見つけてすぐに名前を言い当てたのだ。
敦盛の言葉が本当ならば、望美はその名を本人に聞くことなく知っていたということになる。
── ヒノエくんに会いに来たんだよ
六波羅でそう言った望美を思い出す。
龍神の神子という得体の知れない力を持つ少女は、名を言い当てるのも容易いのかと感心するばかりで、あの時はさして疑問にも思わなかった。
龍神の神子。
怨霊を封印する他に、彼女はいったいどんな力を持っているのだろうか。
望美は、時折、先見ができるのではと思えることがあった。
春の京で、鞍馬でリズヴァーンに出会えなかった時、まださして京に詳しくもないはずの彼女が、神泉苑かもしれないと迷いなく口にしていた。リズヴァーンとは、望美が言った通りに神泉苑で会うことができた。
その身に神降ろしをしなくとも、星の一族のように先見の力を有する者はいるし、望美がそうだったとしても不思議ではない。
しかし、それはそれで腑に落ちないこともある。
三草山で平家の策を見破りながら、なぜ火攻めが避けられなかったのか。
敦盛の居場所がわかったのに、敵が潜んでいることに気付けなかったのか。
そもそも、先見の力で名前すら見通す力があるならば、藤原湛増の名前に行き着くことも容易いはずだ。しかし、望美がヒノエの正体を知っているようには、到底見えない。
確かなことは彼女がなにか秘密を抱えているということだけで、それ以外は確信も確証もなにひとつ得ることができずにいる。
敦盛が、笛を吹き始めた。
どこか物悲しい調べは、彼の心を映しているようにも思える。
「また、天女が舞い降りるかもな」
遠い日の出来事を口にすると、敦盛は笛を吹きながら目を和ませて応えた。
ひとしきり、その澄んだ音色に耳を傾けていると、縁をぱたぱたとせわしく歩く足音が近付いてきた。
「ふふ、天女さまのお出ましかな」
「敦盛さん、あ、ヒノエくんもいたんだ」
月明かりを背にして、望美がひょっこり顔を出す。敦盛しかいないと思ったのだろう。ヒノエを見つけると、意外そうに目を丸くした。
「ひどいな、姫君。オレがいちゃいけない?」
「まさか。敦盛さんが笛を吹いてる時って、ひとりでいることが多いから。ヒノエくんもいたならちょうどよかった。譲くんがね、お月見団子を作ったんだよ。みんなでお月見しようよ」
はしゃいだ声音で一息にしゃべる望美は、すっかり体調がいいらしい。
熱が下がってから、丸三日。邸の中で退屈を持てあましていた望美だが、この分ならお抱えの薬師もそろそろ外出を許すに違いない。
「だってさ。行こうぜ、敦盛」
早く早くと先に立って二人を呼びながら、弾むように歩く望美の背中。
望に足りない月を見遣り、ヒノエはそっとため息を落とした。