人魚の足跡

弁慶に薬を貰い、怪我をした望美の元に戻ると、敷き皮に座り込んだ彼女は譲に叱られている最中だった。
先ほどまで、必死で望美を探し回っていた譲だ。怪我をした彼女を前に、心配していた反動が出たのだろう。
望美の隣に立つ白龍は口を挟むこともできず、俯く望美と、説教する譲とを交互に見つめてはオロオロしていた。
「待たせたね、姫君。手当てしようか」
ヒノエの声に顔をあげた望美は、この状況から抜け出せることにホッとしたのか、安堵の色を浮かべる。その無防備な表情が可愛くて、ヒノエは思わず笑みを漏らした。
「弁慶さんは、来ないのか?」
「すぐに来るってさ。でも薬は貰ってきたし、刀傷ならオレでも看られるからね」
実際、こういう傷の手当ては慣れている。
船の上でも、仲間が怪我をすれば、ヒノエが治療に当たることも多かった。そんな時は、頭領だろうと水夫だろうと関係ない。動ける者が動くのだ。
ヒノエは望美の傍に歩み寄って膝をつき、怪我をしている左腕をとる。
肩で縛ってある止血をそのままに袖をたくし上げると、傷の範囲は思ったよりも広く、肩のすぐ下から二の腕を斜めに走っていた。
「私より、敦盛さんが」
傍らに横たわる敦盛を、望美は心配そうに見つめる。
敦盛はここまで連れ帰る間も、ずっと意識がないままだ。
外傷がないわけではないが、一刻を争う怪我をしているようには見えない。
それでも、こんな風に目を覚まさないということは、頭を打ったり、体の内に傷を負っているのかもしれない。
いずれにしろ、それはヒノエが手に負える範疇ではなく、もうすぐ来るはずの弁慶に任せたほうがいいように思えた。
「野郎は弁慶担当。オレは姫君担当ってね」
ヒノエはたくし上げた望美の袖を元に戻すと、彼女の右手をとって立たせ、荷が積んである陰へと移動する。
「片袖だけ、脱いで貰っていいかい?」
望美を座らせてそう言ったヒノエは、止血の為に結わえた肩の布を解いた。
「え? 脱ぐって……」
「本当ならこんな場所で、姫君の肌を夜気に晒したくはないんだけどね。着替えもないし、衣を濡らしちまったら困るだろ?」
羽織っていた上着を差し出すと、戸惑いながらも頷く望美は、それを受け取った。
ヒノエが手伝おうとする前に、望美は恐る恐るという様子で左腕を動かし、袖を脱ごうとする。しかし、やはり痛みがひどいのか、息を詰めて動きを止めた。
「失礼するよ、姫君」
ヒノエは望美の左腕を取ると、細心の注意をはらって下に着ている単衣と共に、その袖から腕を引き出してやった。
外気に晒された襟元で、白銀の首飾りが光を放つ。
痛みを堪えていた望美は、頬を朱に染めながら、ヒノエの上着で慌てて自らの胸元を隠した。
「染みるけど、ちょっと我慢して」
片手で望美の左手をとり、もう片方の手で腰に帯びた竹筒を取ったヒノエは、その栓を口で引き抜くと、傷口の上でそれを傾けた。
「ぐっ!」
ひき結んだ口唇から、声が漏れる。
望美の指先はヒノエの手に食い込まんばかりに握りこまれ、その痛みを物語った。
竹筒の中身は酒だ。こんな傷にかければ、相当染みるに違いないが、だからといって消毒しないわけにはいかない。
血にまみれた傷口が、酒に洗われ徐々に露になっていく。
思ったよりは深くなさそうだが、えぐられたようになっている傷は、痕が残るであろう事を予感させた。
ヒノエは竹筒に栓をして再び腰に戻すと、鈍刀なまくらだったことに感謝すべきかな、とひとりごちた。
これが鋭利な刃と相応の腕前の敵が相手だったら、望美の腕が落ちていたかも知れない。命があっただけで、よしとすべきところだろう。
酒が滴る腕を乾いた布で拭ってやってから、弁慶に貰った薬を取り出した。
いったい何を調合しているのか知らないが、ドロリとした灰褐色のそれは、野草特有の青臭い匂いを放っている。
布を傷の上で少しきつめに一巻きしてから、その薬をたっぷりと塗り、再び布を腕に巻き付けていく。
望美の様子をそっと窺い見れば、酒ほどは染みないのか、既に痛みの感覚が麻痺してるのか、浅い呼吸を繰返しながらも先ほどよりはマシな様子だ。
「で? 月夜の散歩と洒落込んでたワケは?」
「散歩ってわけじゃ」
「だろうね。平家が兵を退いたからって、ひとりで歩いていいような場所じゃない」
治療の手を止めることなく諭すように言うヒノエに、望美は反論の余地もないとばかりに黙り込んだ。
「あいつを、探しに行ったのかい?」
視線で敦盛を示せば、彼女は小さく頷いた。
望美を抱きかかえてここまで戻る道すがら、共に連れ帰った敦盛が天の玄武なのだと知らされた。
どうして彼女が敦盛の居場所を知っていたのかは、わからない。
白龍の言うところの『龍神の神子と八葉は引かれあう』というやつかもしれないし、龍神の神子が持つ特別な力なのかもしれない。
とにかく、望美は敦盛がいることを知って、あんな無謀な行動に出たのだろう。
「姫君のお誘いならば、何処いずこなりともお供したのに。次は声を掛けて欲しいな、オレだけに。ね?」
軽い調子で言いながらも、その実ヒノエは自分自身に苛立っていた。もう少し早く駆けつけていれば、彼女にこんな傷を負わせずに済んだのに、と。
ひとたび剣を手にすれば、勇敢な戦女神のように見える望美。
けれど、今、ヒノエが目にしている肩も腕も、本当にあの大きな剣を振るっているのかと信じがたいほどに華奢で、守ってやるべき少女なのだと思い知る。
「さ、出来たよ。どうせ姫君の肌を目にするなら、こんな色気のない場所でなく、褥で拝みたかったかな」
「ヒノエくんってば……。ごめんね。ありがとう」
望美の肩から落とした衣を引き上げやり、袖に通してやろうと腕をとると、彼女は呻いて顔をしかめた。
「痛むよな。ここじゃこの程度が精一杯だ。京に帰れば、弁慶が痛み止めを作るだろうから、それまでの辛抱だよ」
「うん……。斬られると、痛いね」
ヒノエの言葉に頷いた望美は、沈んだ声音で呟いた。
「……」
「あ……ははは、当たり前だよね。何言ってるのかな、私」
取り繕うように笑う望美は、次は敦盛さんの手当てだね、と腕を庇いながら立ち上がった。
その笑顔が、ヒノエの目にひどく危うく映る。
望美は、自身の傷の痛みは、自分が他人に与えている痛みと同じだと知っている。
他人の痛みがわかるということは、優しさや思いやりに繋がっていくもので、本来は人としての美徳だ。
けれど、命のやり取りをする戦場で、斬りつける相手の痛みまでも思いやるならば、望美はますます人など斬れなくなってしまうだろう。
ヒノエは、望美から上着を受け取ると、彼女の肩にそっと着せかけてやった。
「わっ、ヒノエくん、駄目だよっ。血がついちゃう」
「構わねぇよ。その襟元は野郎どもには目の毒だからね。着てなよ」
少し緩んでしまった胸元を示せば、望美は襟を正しながら目元を染めた
「ありがと。じゃあ、洗って返すね」
「……ねえ、望美。大の男が何人もついていて、お前にこんな風に怪我されたんじゃ、立つ瀬がないって思わない?」
「え?」
「オレたちは、お前を守る為にいるんだぜ? だから」
「違うよ」
ヒノエの言葉を遮って、望美は凛とした瞳でヒノエを見据える。
「私が、みんなを守るためにいるんだよ」
「……」
「もっと……もっと強くなるよ。怪我なんかしないように。ちゃんと皆を守れるように」
言い切った後に、怪我をしてる私が言っても説得力ないか、と望美は自嘲するように笑った。
 
── 私もみんなを守りたい
 
桜咲く京でも、望美はそう口にした。
『お前は白龍の神子さまだろ? お前の為に喜んで戦うヤツは、いくらでもいるんじゃない?』
だから、自ら戦う必要はないだろう。そう言ったヒノエに、望美は今のようにきっぱりと言ったのだ。
 
『守られるだけなんて嫌だよ。私もみんなを守りたい』
 
薄紅の花片が舞う下で見た、凛とした眼差し。それはまた、京で初めて人を斬った後に望美が見せた、ひたむきな横顔と同じ強さを湛えていた。
あの時は、勇ましくて可愛いと思った。そういう気概の望美を好ましく感じながら、正直、本気でそう言っているなどとは、思っていなかった。
でも、違う。彼女は本当に、守ろうとしているのだ。
綺麗事を口にしても、それをしようとしないならば、ただの嘘つきか偽善者だ。
理想を掲げるだけならば、それは夢語りに過ぎない。
けれど望美は、それを己に課す決意をしている。
後方に控え、怨霊だけを相手にしていればいいはずの彼女が、痛みを知ってなお、八葉と並び立って剣を振るうのは、きっとそういうことなのだ。
「ヒノエくん?」
「お前は大した女だよ、望美」
近い将来、きっと源氏は熊野水軍に目をつけてくるだろう。
平家は京からは退いているとはいえ、いまだ瀬戸内海水運の要ともいえる福原に留まっている。西国にはどう考えても平家に呼応する者が多く、各地の水軍も然りだ。
源氏に力を貸す豪族も増えてきてはいるものの、平家が態勢を整えて真っ向勝負となれば、まだまだ平家が有利なのは歴然としている。
前熊野別当の湛快が、清盛に戦を仕掛け、敗北したことは頼朝も知るところだろうし、中立を表明している熊野は、源氏にとってぜひとも抱き込みたい存在のはずだ。
熊野はどうすべきなのか。
今はまだ、時勢を見極めるだけの材料は揃ってはいない。
平家の世が続くのか。
源氏が平家に取って代わるのか。
熊野に害さえなければ、そんなものはどちらでも構わない。
「なに、急に」
「ふふ、神子姫サマほどの女は、そうはいないだろうと思ってさ」
欲しい、と思う。
時勢がどちらに転んでも、彼女は手の中に残したい。
彼女ほど、熊野別当の妻という座に相応しい女はきっといない。
痛みを伴ってなお、進むべき責を知る女。
不思議そうにこちらを見つめる望美に、ヒノエは秘やかな決意を忍ばせて微笑んだ。 

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