人魚の足跡

「ごめ……ね」
弁慶が出て行った後、ヒノエはうわ言を繰返す望美の額を冷やしてやりながら、彼女が三草山の戦で手傷を負った時のことを思い出していた。
 
京へと戻る道すがら、望美は腕に負った刀傷が元で熱を出した。
馬の背に揺られるのも、傷に響いて痛かったのだろう。蒼白い顔で、口唇を引き結び、それでも、周囲を気遣いつつ気丈に振る舞っていた彼女も、京に戻るや気が緩んだのか倒れてしまった。
 
あの晩、こうして枕元に居たのもヒノエだった。
 
戦場で、誰に告げることもなく隊列を離れた望美の迂闊さを責めるような気持ちと。
戦慣れしていないと知りながら、彼女から目を離していた自分への苛立ちと。
様々な感情が入り混じる中、その多くを占めていたのは、望美を不可解に思う気持ちだった。
こんな怪我を負いながら、それでもなお『みんなを守りたい』と言うその想いの源はなんなのか。
仲間を守りたいという感情は理解できる。でも、この世界の人間ではない望美が、出会って数ヶ月ほどの相手の為に、ここまで体を張る意義がわからない。
龍脈を正し、生まれた世界へ帰る為だろうか。
それには確かに怨霊を作り続ける平家を倒すことが必要ではあるけれど、なにも彼女自身が剣を手にして戦う必要はない。
龍神の神子だから。
その責任感だけで、あんな風に振る舞えるものだろうか。
(白龍の神子だなんて言ったって、本当に天女さまってわけでもないだろうに)
目の前に眠るのは、人間離れした清浄さを持つ神の遣いなどではない。
ただの少女だ。
そしていつか、熊野に迎える女。
「ごめん……さ」
眠っていたはずの望美の声に、心を見透かされたようでギクリとする。
しかし、すぐにそれはうわごとだと気付いた。
呟くように繰り返すごめんなさいという言葉。
それは、誰に向けられたものだろうか。
手にかけてしまった平家の者たちか。
炎の向こうに置き去りにした、味方の兵に向けた謝罪なのか。
平和な世界で生まれ育った彼女にとって、三草山での出来事はやはり酷だったに違いない。
 
あれから二ヶ月あまり。
彼女はずっと、自らを責め続けていたのだろうか。
「……」
睫毛に留まっていた雫が、また一筋零れて落ちた。
その透明な涙が、ひどく痛々しく映る。
女の涙なら、今までだって幾度も目にしてきた。
思わず口唇を寄せてしまうほど可愛く映ったこともあれば、疎ましく興ざめなだけだったものもあったけれど。
慰めや労りの言葉をその場限りで紡ぎながら、その実、こんな風に胸が痛んだことなどなかった。
(どうしてそんな思いをしてまで、龍神の神子であろうとするんだい?)
殺すことで傷つくならば、望美にはそうしない選択肢も与えられている。後方にいて、怨霊だけ封印していればいい。
なぜ、そうまでして、八葉をも守る者であろうとするのだろう。
あの夜以降も、言葉を交わし、共に過ごす時間を重ねては来たけれど、相変わらずその答えはわからないままだ。
また一雫、涙が零れた。
辛い夢ならば、起こしてやった方がいいかもしれない。居たたまれない心地で、望美の肩に手を伸ばしかけたヒノエは、その言葉に目を瞠り動きを止めた。
「……ける、よ」
苦しい息のもと紡がれた言葉は、悪夢の中から助けを求める声ではなかった。
 
── 助けるよ
 
思わず呑んだ息を、深く深く吐く。
「夢の中でも、言わないんだな」
ヒノエは望美の涙を自分の目から隠すように、額に置いた手ぬぐいを取り、そっとその瞼の上にのせてやる。
(助けてと、言えないんだな……)

ふいにビクリと肩を揺らした望美の手が、そろりと動く。
熱い指先は、手ぬぐいに添えられたヒノエの手に怖々と触れた。
ゆっくりと目隠しをどけてやると、望美は潤んだ瞳で見つめてくる。
「大丈夫かい?」
「ここ、は?」
熱のせいか、それとも悪夢の為か。
望美は状況がわからないとでも言うように、どこか不思議そうな表情をしている。
「うなされてたから、起こそうと思ってたところだよ」
手ぬぐいを取り、桶の水にくぐらせて冷やしてから、再び額に載せてやっても、まだ望美はどこかぼんやりとしているように見えた。
「望美?」
「そっか、勝浦……だよね」
「そうだよ。怖い夢でも見たかい?」
「あ……、うん。お、怨霊に囲まれた夢を見ちゃった」
熱で上気した頬のまま、望美はそう言って笑った。
ごめんねと謝りながら。
助けるよと呟きながら。
彼女が見ていた夢は、きっとそんなものではなかったはずだ。
「それは……、すぐに駆けつけなくて悪かったね」
いつもまっすぐ人の目を見て話す望美が、視線を合わすことなく紡ぐ嘘に、ヒノエはただそう答えた。
暴いた方がいい嘘と、そうでない嘘がある。望美のこれは、どちらだろうか。
暴いて楽になるならば、いくらでもそうしてやるのに。
無理矢理にでも聞き出して、あんな風に泣かせやしないのに。
そう思いながらも、ヒノエは判断するには材料が少なすぎると考えていた。
当てずっぽうで闇雲に傷に手を伸ばせば、望美は胸の内に抱える痛みを隠そうとするかも知れない。そうなれば、弱音を吐くことも出来ない今の望美を、ますます追いつめてしまうだけだ。
「ヒノエくんは、来てくれたよ」
「ふうん、オレは、姫君を助けられたのかな?」
「……うん」
優しい嘘は、ヒノエの目に痛々しく映るばかりだ。
女を喜ばせることも、笑わせることも簡単だと思っていた。
けれど今、望美を安心させてやることも、痛みを取り除いてやることも出来ない自分は、ひどく無力な人間に思える。
「……そっか」
「……。私、なにか言ってた? 寝言とか」
「言ってたけど、よくわからなかったな。少なくとも愛の囁きじゃなさそうだったぜ?」
軽い調子で言ってやると、彼女はあからさまにホッとした表情をした。
「ヒノエくん、ずっとついててくれたの?」
「ああ。さっきまで、朔ちゃんや弁慶も居たんだぜ?」
「そうなの? 熱出してついててもらうなんて、子供みたいだよね。私は大丈夫だから、ヒノエくんも寝て?」
いつも望美は大丈夫だと笑う。
あまりにあっけらかんとそう言って笑うから、騙されそうになってしまうけれど、あの三草山で斬りつけられた後ですら、望美は大丈夫だと口にしたのだ。
「大丈夫、ねぇ。あんまり大丈夫そうに見えないよ?」
汗で頬にはりついた髪を除けてやる。指先で触れた頬は、やはりひどく熱かった。
「夕飯の後、薬湯も飲んだし、ホントに平気だよ」
「つれない姫君だね。こうして枕辺を守ることも、許してくれないなんてさ」
いくらなにかを言ってみても、きっと望美は、大丈夫だと繰り返すのだろう。
他の誰に対しても、同じように言うのだろうか。
(──将臣にも?)
熊野で再会した将臣に駆け寄った時の、望美の笑顔が思い出された。
同時に、先ほどの夕餉の席で彼に額を寄せられた時の無防備な横顔も。
(それともあいつになら、お前は「助けて」と言えるのかい?)
将臣は八葉である前に幼馴染みで、譲と共に京に来るまでの多くの時間を共有していたのだから、そんな風に心を許していても不思議ではない。不思議ではないが、同じ八葉なのに、差をつけられている気がして面白くない。
「じゃあ、一個お願いしていい?」
「一個と言わず、何個でも」
「ふふ、いっぱいはないよ。あのね、お水をもらえる?」
「水ね。ああ、そういや弁慶の奴が厨で薬湯を作ってるって言ってたな」
「や、薬湯はいいや。お水でいいよ、お水だけで」
慌てたように念を押す望美に、ヒノエは笑いを堪えながら立ち上がった。 

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