人魚の足跡

熊野川の怪異を調べに出たヒノエが勝浦の邸に戻ると、ちょうど弁慶が、薬草をこんもり積んだ籠を携えて帰ってきた。
「また行ってたのかよ」
「熊野に来るのは久しぶりですからね。この時期にしか採れないものをいろいろと。そちらは、収穫はありましたか?」
「神子姫サマの体調も戻ったみたいだし、実力行使に出た方が早そうだぜ?」
炎天下のもと出掛けたのは、少なくとも無駄足ではなかった。
ヒノエの言葉に、並んで邸の門をくぐった弁慶は眉をひそめる。
「やはり、怨霊の仕業ですか」
「呪詛の可能性も、捨てきれないけどね。源氏の戦女神を快く思っていない奴の仕業ってことで、間違いないんじゃない?」
熊野川は、相変わらず氾濫したままだ。
今日ヒノエが聞いてきた話では、上流一帯は暗い雲が立ちこめ、川に人が近寄ると、引きずり込もうとでもするように更に水かさが増えるという。
水に棲まう妖が巣くったとも考えられるが、神気の濃い本宮の近くにわざわざ近寄る妖は滅多におらず、時節を考えても、平家の手の者が怨霊を放った可能性のほうが高い。
「源氏の神子と熊野別当を会わせたくない。あわよくば亡き者に……そんなところでしょう」
「ま、行ってみればわかるだろ。姫君には、指一本触れさせないけどね」
望美の為だけではない。
川を渡れないことで商売ができず、切実な被害を受けている者たちも多い。水縁に近づいて流れに飲まれた者や、無理矢理舟で川を渡ろうとして流され、行方がわからなくなった者までいると聞いては、別当として、いつまでも手をこまぬいているわけにはいかなかった。
「たぁっ!」
庭の方から、威勢のいい望美の掛け声が響く。
「ふふ、神子姫サマは剣の稽古かな。治ったばかりだってのに、熱心な姫君だぜ」
「本当に。でも、今の望美さんでは、戦が終わるまで保ちません」
「だろうね。なんの為に八葉がいるんだか」
望美は、八葉を守ると言った。
けれど本来は八葉こそが龍神の神子を守るのであり、彼女が仲間を守ろうとするあまり、重責を増やし自らを追いつめているのだとしたら、それは本末転倒だ。
ヒノエは肩をすくめ、彼女が稽古しているであろう庭へと足を向けた。
「八葉……そうですね。ならば、八葉の君に問いましょう。別当殿は、白龍の神子に会うつもりはないんですか? 君にその気があれば、川を渡るまでもないでしょう?」
正体を明かす気はないのか。
暗に問う弁慶に、ヒノエは、さあね、とだけ答える。
「そんなことより平家の」
話しながら庭に視線をめぐらせたヒノエは、その光景に目を瞠った。
剣を構えた望美の、その正面に対峙するのは──。
「やめろっ!」
思わず怒鳴ってしまい、ハッと口を押さえる。
何事かと驚いた表情で振り返った望美は、ヒノエと弁慶の姿を認めるとホッとしたように、おかえりなさい、と微笑んだ。
「大きな声でびっくりしたよ。どうしたの?」
「いや……」
言い淀むヒノエに、弁慶は望美の耳に届かない程度の声音でひそりと囁く。
「その様子では、僕の考えも、あながち的はずれではなさそうですね」
源氏の優秀な軍師は、将臣の正体を察していたらしい。
「望美さん。病み上がりで、あまり激しい運動をするものではありませんよ。今日の所は稽古はやめて、散歩にでも行ってきたらどうですか?」
「いいんですか?」
熱を出して以来、皆で温泉に出向いた以外は、邸の外に一歩も出ていない望美は、ようやく出た薬師の許しに目を輝かせた。
「ただし、川や海で水遊びをして、体を冷やしたりしないでくださいね。将臣くん、一緒に行って来てもらっていいですか?」
「んぁ? なんだ、お前らは行かないのか?」
「ええ、僕は薬草これを干さなくてはいけません」
「ふーん。オレは、お供しようかな」
先ほどの場面──望美と将臣が、互いに正面から剣を構える光景は、いつか戦場で起こりうるものだ。そんな危うい二人の関係を知りながら、なぜ弁慶は、わざわざ目の届かない場所に行かせようとするのか。
内心訝しく思いながら供を申し出たヒノエを、駄目ですよ、と弁慶が制した。
「君には話があります」
「……」
「九郎たちも買い出しで当分帰らないでしょうし、留守番は僕たちに任せて、行ってきていいですよ」
 
弁慶の言葉に促され、邸にいた譲を交えた三人は、楽しげに散歩へと出掛けていった。
 
「話ってなんだよ?」
将臣のことに違いない。
三人を見送ってから、確信を持って話しかけたヒノエに、弁慶はあっさり「ありません」と答えた。
「ない?」
「ええ、ありません。将臣くんのことは、今ここで話しても、どうにもできませんからね。八葉でもある彼に、一服盛るわけにもいきませんし」
「おい」
物騒な言葉を吐く薬師は、冗談ですよ、と白々しい笑みを浮かべた。
「将臣くんはまだ僕たちの正体に気付いていないようですが、知盛殿も熊野にいる以上、それは時間の問題でしょう」
「なっ、いつの間に」
「薬草を摘みに行って、そのついでに」
弁慶は、笑みを絶やすことなく答えた。
「どっちがついでだか。あんた、実は烏飼ってるだろ?」
「熊野の烏が簡単になびかないことくらい、君だってわかっているでしょう?」
それでも、それなりの情報網を持っているからこそ、将臣の正体にも、知盛の熊野滞在にも気付けたのだ。
薬草を摘みに行くだけだと言いながら、いったいどこでそんな情報を仕入れてくるのだろうか。訊いたところで、目の前の男は答えないに決まっている。
「食えない奴」
「君ほどではないでしょう? 真実を知った時、将臣くんがどう動くのかは、僕にもまだわかりません。でも、彼なら君と違って、情にほだされてくれるかもしれませんね」
「よく言うぜ。あんただって、自分なら味方しないって言ってたじゃねえか」
「ええ。僕は薄情者ですから。君は……後ろめたいんですか?」
「別に」
本当は、その通りだった。
熊野を第一に考える以上、源氏に味方などできない。
この状況では、それが最良の選択だと自信を持って言える。
だから、後ろめたいのはそんなことではない。
ヒノエは、熊野別当という身分を明かさずいることに、時々息苦しさを覚えていた。かといって、八葉である自分が別当だと知れば、望美にいらぬ期待をさせてしまうに違いない。
元々、八葉として共に過ごすようになってからも自分の身分を隠したままでいたのは、源氏の情報を円滑に入手するのが目的で、望美を思いやってのことではない。ここに来て、正体を明かさない理由が己の内ですり替わりかけていることに、ヒノエは戸惑っていた。
 
『いてくれるだけで心強いじゃないですか』
 
『仲間ってそういうものでしょう?』
 
敦盛が教えてくれた、望美の言葉。
それは、正体を知った後の自分にも、同じように向けられる言葉なのだろうか。
 
「還内府と源氏の神子が一緒にいることが心配ですか? それとも、彼女が他の男と楽しそうに出かけてしまって、妬けますか?」
黙り込んだヒノエに何を思ったのか、弁慶はどこか面白がるような口調で言う。
「僕たちがいると、望美さんはどうしても『神子』になってしまうようですからね。妬けるでしょうが、我慢なさい」
「誰がっ」
反論しかけて、それも子供じみた行為に思え、ヒノエは言葉を飲み込んだ。

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