人魚の足跡

庭に出た将臣は、頭上の太陽を仰いだ。
今日はほとんどの者が、それぞれの用事で出かけている。
今までは気にも止めなかった各々の外出が、その正体を知ってからは源氏の動きに直結しているように思えてならないものの、それを確認する為に探るようなマネをする気にはなれなかった。
静まりかえった邸内。
日射しが、庭の木々の影を地面に濃く焼き付ける。
周囲にはジワジワと蝉の声が響き渡り、それが一層暑さを増しているように思えた。
 
今朝はこちらに来て早々、望美に「弁慶さんの薬草摘みについて行こう」と誘われた。
「滝の近くに行くんだって。将臣くんも行こうよ。きっと涼しくて気持ちいいよ」
屈託のない笑顔に、面倒だから昼寝でもしていると答えると、つきあいが悪いと口唇をとがらせた。
その表情は、自分が知る望美となにひとつ違わない。
それなのに、あれ以来──望美の正体を知って以来、将臣はどんな顔で彼女に対していればいいのか、わからなくなっていた。
本宮への道を閉ざしていた熊野川の氾濫は、望美が怨霊を浄化したことで収まった。
改めてその神力をふるう姿を見ても、将臣が思い描いてきた『源氏の神子』のイメージは、やはり彼女には重ならない。
龍神の加護を受け、怨霊を浄化する『白龍の神子』。
源氏に龍神の加護を与え、剣をふるう『源氏の神子』。
どちらも『龍神の神子』と呼ばれているのを知りながら同一人物だなどと思いもしなかったのは、どこか血生臭さを伴う『源氏の神子』の伝聞が、幼馴染みの少女には到底結びつかなかったからだ。
しかし、事実は事実として対処しなければならない。
今、自分はそういう立場の人間なのだから。
熊野に来たのは、将臣の考えを実現すべく、別当に助力を請う為だ。
清盛や惟盛あたりが知れば間違いなく激昂するであろうその策を知る者は、一族の中でも知盛と経正、そして尼御前くらいだ。
平家一門の者として生まれ育ったわけではない将臣には、彼等が時に口にする『一族の誇り』というものはない。だからこそ、実行できることがある。
ワケもわからないままこの世界に放り出された将臣を温かく迎え入れてくれたのは、清盛を始めとする平家の者たちだった。
その彼等が、都を追われ、源氏にじりじりと追い詰められている。このままいけば、自分が知る歴史をなぞるように、一族は滅亡してしまうかもしれない。
教科書に書かれた過去の事実は年号と文字の羅列でしかなかったが、三年余りの月日を共にした平家の人間は、将臣にとって恩人以上の、血の通った友に、また守るべき一族になっていた。
もうあまり猶予がない。
一刻も早く別当に会って、話をつけなくてはならない。
そう思いつつも、望美たちを出し抜くように出かけていくのは、やはり気が引けた。
そもそも、同行するはずの知盛が、こんな暑い盛りの外出を了承するはずもない。かといって、別当家と面識のない自分がいきなりひとりで訪ねて話をさせろというのも無理な話だ。
結局の所、それなりの段取りを踏んで別当と面談するには、もうあと何日かかかるのは必定だった。
 
まとわりつく暑さと停滞しそうになる思考を流し去るように、将臣は井戸の水を汲み、ざぶりと頭にかぶった。
しずくを手でぬぐいながら顔をあげ、そのまま髪をかき上げる。
つかの間の涼やかさに息をつき、もう一度水を汲みかけた背後からふいに声がかかった。
「望美たちはもう出掛けたのかい?」
振り返ると、いつのまにやって来たのかヒノエが立っていた。邸内に姿がなかったのでてっきり同行したものと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「とっくに出かけたぜ? 薬草摘みだとさ」
「ふーん。だったら調度いいね。ちょっとつきあえよ」
「つきあうって、どこにだ?」
何が調度いいのだろうか。
ほんの少し身構えながら答える。
自分の正体を知る人間が、他の者の不在を調度いいなどと言って誘いかけてくるのだから、警戒するのは当然だった。
「来ればわかるさ。それに、そっちも用があるだろ?」
「俺がお前に? ……別にないぜ」
「ふーん。八葉のオレに用はなくとも、水軍のオレにならあるんじゃない?」
将臣の返答を待つことなく背を向けて歩き出したヒノエは、肩越しに振り返ると不敵な笑みを浮かべた。
「行こうぜ。還内府殿」
 
将臣はヒノエのやや後方を、相手の出方を窺うように歩いていた。
これといった会話もないままに人が賑わう通りを抜け、やがて山道に入る。先日、譲や望美と行った滝へと続く道だ。
「おい。どこまで行くんだよ」
「ちょっとヤボ用もあってさ。せっかく人手があるんだし、ただ立ち話をするのもなんだから、手伝ってもらおうかと思ってね」
まったく意味はわからない答えだが、その声音は緊張感の欠片もなく、先ほどの「還内府殿」という呼びかけは聞き間違いだったのではと思えるほどだった。
どれほど山道を登っただろうか。
やがて、石段が現れ、上り詰めた先には神社の境内があった。
境内を掃き清めていた数人の男たちが、作業の手を止めてこちらに一礼する。
それに鷹揚に頷いて応えたヒノエは、小さな建物の前で将臣を待たせ、二本の鍬を手に現れた。
「畑仕事でもやるってか?」
「ふふ、還内府殿にそんなことをさせたら、平家が腹を立てて熊野に攻め込んでくるかい?」
茶化すように言いながら、少しも笑っていない目。
そんなヒノエの挑発めいた視線を躱して、肩を竦め軽い調子で答えた。
「そこまでヒマじゃねえな。熊野が源氏につくかもしれないっていうなら、なおさらだ」
「へえ。やっぱり九郎たちの正体に気づいてたわけだ。それで? どうするつもり?」
「そっちこそ、いつから気づいてたんだか」
「さあね。あぁ、このへんでいいか。将臣、そこ掘れよ」
境内の片隅まで歩くと、それまでの話題などなかったように、ヒノエは将臣に鍬を差し出した。
「はあ?」
将臣がそれを受け取ると、ヒノエは地面を確かめるように片足で軽く蹴り、その手の鍬を振り下ろした。
「木を植えるんだ。木は気に繋がるってね。場を清める結界になる。これも神職の務めってやつだよ」
「神職? ……お前、何者だ?」
先ほど境内で頭を下げた男たちの一人は、ヒノエをこう呼んだ気がした。──頭領、と。
「頭領ってのはなんだ? まさかお前が水軍の頭領っていうんじゃないよな?」
「望美が『源氏の神子』ってのより、意外性はないと思うけど?」
「マジかよ……充分意外だろ。っつうか、他にもまだあるんじゃないのか?」
たとえ頭領を務めるほどの男でも、高級品である甘蔓や蜂蜜をそうたやすく入手できるはずがない。それとも、独自に交易を行っているという熊野水軍は、それほど豊かなのか。
他にもまだなにかありそうな気がして尋ねた将臣に、ヒノエは「さすが還内府殿」とニヤリと笑って見せた。
「オレの名は藤原湛増。この熊野の別当だ」
「なん、だと?」
もうそうそう驚くことはないだろうと高を括っていた将臣は、二の句を失った。
熊野の別当がどんな人間なのか、事前に知らされてはいない。
だから、これといった先入観もなかったつもりだ。
それでも、目の前の少年が別当職にあるなどと、俄には信じられない。
「信じられないって顔だね。ま、信じないならこの話はここまでってことだけど」
「いや……」
本当ならば、これはまたとないチャンスだ。面倒な段取りを踏むことなく、『熊野別当』と話がつけられる。
見極めるように、将臣はヒノエをひたと見つめた。
目の前の男が、嘘を言っているようには見えない。
たとえ嘘を言って将臣を試しているのだとしても、本宮への道は既に開き、別当に会うことも可能となっている以上、それはあまり意味がある行動のように思えない。
なにより、短いつきあいではあるが、それを真実なのだろうと納得させるだけのものが、ヒノエにはあった。
数瞬後、将臣は長く息を吐いた。
彼は真実、この熊野の別当なのだろう。
それは同時に、今後の戦の展開を予想させるには十分過ぎる事実でもあった。
熊野は、すでに源氏への助力を決めているのかもしれない。
将臣の落胆を察したのか、ヒノエは言葉を続けた。
「熊野が源氏についたわけじゃないぜ? オレは神子姫さまの味方だけどね」
「どういう意味だ?」
「ふふ、そのままの意味だよ。平家が今の戦況をひっくり返す策があるっていうなら、熊野水軍が力を貸すよ。望美はオレが守るけど、ね」
宣戦布告するような視線。
おそらく、ヒノエは将臣の想いを知っているのだろう。知っていて、彼女を守るのは自身なのだと告げている。
望美を、そうやすやすと譲れるはずがない。
あいつを守るのは俺だ。そう言ってやりたい。
でも、言えるはずはなかった。
今、将臣が最も優先すべきことは彼女の傍にいることではなく、己の帰りを待つ者たちの為に、今後の道を開くことだ。
「策ならあるぜ? お前が別当だっていうなら、話は早い。力を貸してくれ」
将臣はヒノエに自身の考えを語り、改めて還内府として熊野別当に助力を要請した。
 
「将臣は、面白いね」
策を告げた将臣に、ヒノエは軽く腕を組んだまま、そう言って笑った。
それはけして馬鹿にしている風でもなく、本当に単純に面白がっているようだった。
「面白い話をしたつもりはねえけどな」
「そうかい? 少なくとも、この状況で熊野水軍にそんなことを頼むヤツは、あんまりいないと思うぜ?」
「そうか? で、力を貸すのか、貸さないのか。どっちだ? 悪いがこっちもゆっくり返事を待つ時間がねえんだ」
「だろうね。……わかった。必要なものは全部調達してやる。任せときな」
即答を迫ったのは自分だったが、まさかこの場でこうもあっさり了承されるとは思いもよらなかった。それでも、ヒノエの自信に満ちた口調は信頼に足るものに感じた。
「サンキュ、頼んだぜ。八葉にお前がいてラッキーだったな」
「ふうん…らっきーね。将臣はそれでいいのかい? その間に、望美はオレがいただくぜ?」
気が強くて、意地っ張りで、まっすぐな瞳。
誰よりも近くにいたはずの、その笑顔がよぎる。
望美は、ヒノエを選ぶだろうか。
「……。あいつは手強いぜ?」
将臣はそう答えて笑った。
決めるのは望美だ。
そして、傍にいない道を選んだのも自分だ。
あの時、時空の狭間の激流に飲まれてこの世界へと運ばれたように、今の将臣にはそれしか選択肢がない。
「それは経験からくる言葉かい?」
「さあな」
何も告げてはいない。
何も、伝えてはいなかった。
お互い傍にいて、それがずっと続くと思っていたから、焦る必要もないと思っていた。
それでも、あんなことがなければ。
いつものように終業式を迎えて、冬休みには譲と三人で映画でも観に行って。
そしてクリスマス。
望美の家と将臣の家とで毎年恒例の合同パーティをしたら、その後にあの懐中時計を贈って、想いを伝えるはずだった。
「ま、あいつを泣かせるようなことだけはするんじゃねーぞ」
「もう、泣かせないよ」
「もう? って、あいつ、泣いたのか?」
望美は、子供の頃からけして人前で泣いたりはしなかった。
転んで膝を盛大に擦りむいた時も、飼っていた犬が死んでしまった時も。
どれほど泣きそうでも、目にいっぱい涙をためていても。
家族や譲、そして将臣の前以外で泣き顔を見せるようなことは、なかったはずだ。
その望美が、ヒノエには泣き顔を見せたというのだろうか。
「姫君が泣くのが、そんなに驚くようなことかい?」
「あ? あー、まぁ、な」
時空を超えて、望美も将臣も、互いに知らない時間を歩んだ。
自分の無力さに打ちのめされて太刀を手にした将臣のように、望美も胸の痛みに押しつぶされるようなことがあったのかもしれない。
その時、傍にいたのは自分ではなかった。
将臣は鍬でざくりと地面をえぐった。
『あいつは手強いぜ?』
先ほど己が言った言葉を反芻する。
望美はこの男を好きになるのだろうか。好きなのだろうか。
「ところでさ、将臣」
鍬を振るう手を止めることなく、ヒノエが言った。
「こないだの、人魚の姫の話」
「ああ」
将臣もまた、作業の手を止めることなく答えた。
「姫君は王子が嫌いなんだろ?」
いや、人魚姫は王子が好きだろう?
何を言っているのだろうと思って、将臣は鍬を地面に下ろしたまま手を止めた。
ヒノエは顔を上げることなく、地面を掘っている。
「嫌いなんだよな?」
手を止めた将臣を、ヒノエもまた手を止めて、怪訝そうな目を向けてくる。
なるほど、ヒノエの言った姫君は望美のことだと思い至り、将臣は「あぁ、嫌いだな」と答えた。
「姫君は口止めしていたけれど、それで何かあったのかい?」
その言葉に、将臣は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
年の割に冷静沈着に見えて、熊野水軍の頭領として、また熊野別当として立つ男が、あんな些細なやり取りを気にしていたのだろうか。
そんなに望美のことが、気になるのだろうか。
「……さあな」
子供の頃の、本当に些細なことだった。
『のぞみなら、こんなおうじさま、ぶんなぐっちゃうんだからっ!』と、童話のヒロインにあるまじき行動を、口にしたに過ぎない。
望美にとっては人に知られるのは恥ずかしいことのようだったが、隠すほどのことではない。
それでも、将臣はヒノエに教えてやる気にはなれなかった。
それは、望美の涙を目にしたらしいヒノエへの、そして、自分が傍にいられない今後も彼女と時間を共有するであろう男への、ささやかな意趣返しだった。
「さあな、って……」
「将臣くーん! ヒノエくんも!」
言いかけた言葉を遮るように、遠くから声がかかる。
見やれば満面の笑みで、望美が駆けてくるところだった。
「お、望美。ちょうどいいところにいるじゃねぇか」
将臣は手をあげて答えた。
駆け寄って来た望美は、鍬を手にする男二人がいったい何をやっているのかと、興味津々の表情だ。
「昼寝してるんじゃなかったの? 何してるの?」
「ちょっと手伝え。ここの境内に木を植えるんだってさ」
「木? ふーん。ヒノエくんも一緒に手伝ってるの?」
「やだな、姫君。頼んだのはオレだぜ」
そうなんだ、と微笑んだ望美は掘り返した土の周辺を見回し、小首を傾げた。
「木って、何を植えるの?」
望美の疑問を受けて、そういえば何を植えるのかとヒノエに視線を投げる。
掘るには掘っているが、苗木は見あたらない。
そもそも何本くらい植えるつもりなのだろうか。
「さて、なんにしようか?」
「決めてないのかよ」
「じゃあ、クスノキなんてどう? 油やお薬になるんだって」
弁慶あたりの受け売りだろうか。望美は楽しげな声音で提案した。
「そいつは、便利そうだな。じゃあクスノキにするか?」
ヒノエも異存はないようで、将臣の言葉に頷くと、人を呼び苗木を調達する。
 
葉が五枚ほどついた小さな若木は、土遊びを楽しむ子供のような望美に、丁寧に丁寧に植えられた。

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