人魚の足跡

抱いた途端、つまらなくなる女を見てきた。
つれない態度が媚びたそれに変わり、会話の駆け引きは、引き留めようとするばかりの独占欲に侵されていく。
「……っ、あ……ヒノエ、さま」
もちろん、そんな女ばかりではなかった。
肌を合わせた後も本音を晒すことなく、打ち解けずに距離をとろうとする女。
ヒノエを通わせながら、相変わらず他の男ともひとときの熱を分け合う女。
誘いかけながら、駆け引きばかりを楽しみたがる女。
けれど大抵は、一夜でヒノエのすべてを手に入れたような顔で、先の約束をねだった。
「ぁ、んっ……、あぁ」
よがる女を突き上げながら、望美はどうだろうかと考える。
こんな風に枕辺に髪を散らして、甘い声で啼くのだろうか。
恋も知らないという風情の彼女が、甘く熟れて手の中に堕ちるさまを見てみたい。
そう思う反面、今のままの彼女をひとつも損なうことなくそのままにしておきたい、とも思う。
(望美……っ)
律動を早めれば、声は高まり──果てた飛沫は、白い肌を濡らした。
 
 
花の窟で望美に舞をせがんだのは、神泉苑でのことがあったからだ。
春の京。
神泉苑で行われた雨乞いの儀では、知った顔に会う可能性も高く、ヒノエは望美たちと離れて行動していた。
ひとり桜を眺めていると、にわかに空が暗くなり、雨が降り出した。すぐに止んでしまったものの、形式かたちばかりと思っていた儀式で本当に雨が降ったことに驚いたヒノエは、後からそれが望美のせいだったと聞かされて更に驚き、その舞を見られなかったことをずっと残念に思っていた。
「天女の舞みたいだったって、評判じゃないか」
「全然そんなんじゃないよ」
「僕も見てみたいですね。九郎が、君を許嫁にしようと思ったほど素晴らしい舞だったのでしょう?」
同じく望美の舞を見ることの出来なかった弁慶の言葉に、木に寄りかかって休んでいた九郎は顔を紅潮させた。
「ば、馬鹿者! あれはっ」
「ふふ、望美さんを連れて行かせない為の方便ですよね。知っていますよ」
「神子、私も見たい」
白龍にまでねだられて、じゃあ、ちょっとだけね、と舞扇を取り出した望美は、それをはらりと開く。
「がっかりしても知らないからね?」
念を押してから舞い始めた姿に、ヒノエはすぐに目が離せなくなった。
楽はなく。
舞うために仕立てた着物でもなく。
木立の中の、少し薄暗いだけの場所。
それなのに、望美の舞うそこだけは、まるで陽の光が射し込んでいるかのように明るく見えた。ふわりと薄紅の袖を翻す様に、どこからか妙なる調べが響いている気までしてくる。固い蕾が色づきながら綻んでいくような花の舞に、声もなくただただ見惚れた。
「神子、綺麗」
「えぇ、本当に。天上の楽が聞こえてくるようでしたよ。院が君を望んだのも頷けます」
我に返ったのは、白龍と弁慶の声が聞こえたからだ。
称讃の言葉に恥じらうように笑む舞姫に、ヒノエも声を掛けようとした。しかし、心臓は高鳴り、誉め言葉ひとつ出てこない。こんな経験は初めてだった。
「神様ってヤツは、舞や楽が好きだっていうけど、本当のようだね」
「うん。舞や楽は、祈りのかたち。人が、清らかな心で願う姿は好きだよ」
咄嗟に白龍に話をふりながらも、意識のすべては望美に向かう。
彼女の艶やかな舞姿は、ヒノエの目の奥にしっかりと焼き付いていた。
 
 
長い黒髪を指で繰返しすいてやりながらくちづけを落とすと、腕の中の女は笑いを漏らした。
「ひどい方。優しげなことをなさいますのね」
寝返りを打った柔らかな肌は、細く白い指先でヒノエの胸元をつと辿りながら恨みがましく見上げてくる。
「優しいのが、非道いのかい?」
「今宵はずいぶん情熱的かと思えばこのような……。私にどなたを重ねておいでですの? 想いを寄せられているような心地になります」
艶を帯びた眼差し。
彼女は、こんな目をしない。
もっと強くて、まっすぐで、恋の欠片も見せてはくれない瞳。
「可愛い姫君に、誰を重ねるって言うんだい?」
「町では、あなたさまが龍神の神子様にご執心という噂で持ちきりですわ」
「そうみたいだね」
その噂は、望美たちといる時にヒノエも聞いた。
尾ひれがつき、龍神の神子はおしとやかな姫君に仕立て上げられていた。
お陰で望美は、別当に会いに行く時には美しく着飾り、おしとやかなふりをしろと言われて困惑していたが、ヒノエにとっては楽しみが増えた。
考えてみれば、望美が着飾った姿を見たことがない。
(『別当』に会いに行く為の着物は、オレが用意してやろうかな)
望美には、どんな襲が似合うだろうか。
そんなことを考えていると、こちらを伺っていた女は、ほぉとため息を落とした。
「心ここにあらず、ですわね。清らかな御方の身代わりを求めておいでなら」
女の言葉を遮るように、ヒノエは口唇を寄せていく。
「過ぎたおしゃべりは、好きじゃないな」
啄みながら、徐々に深く貪っていく。
腕の中の女と、重なるはずがない。
身代わりになど、誰もなれない。
そんなものでこの熱を散らすことはできないと、本当はもう気付いていた。
気付いていたことを、思い知らされた。
 
──欲しいのは、ただひとりだけ
 
柔肌を指先でたどりかけて、ふと横目に格子の向こうの月が映る。
今夜もまた、起き出しているのだろうか。
動きを止めたヒノエはするりと褥を抜け出すと、衣を身につけ始めた。
「ヒノエさま?」
「悪いね。なよ竹の君が、降り立つ頃だ」
本当なら、女の前で他の女の話などするものではない。けれど、身代わりなどと口にしたこの女は、きっと何を言っても察してしまうに違いない。
「ただの噂ではないのですね。今日熊野川の妖を退治たのも、龍神の神子様とお伺いしました。そうなのですか?」
「そうだよ。お陰で、川もすっかり元通りってね」
熊野川の氾濫の原因は、予想通り怨霊の仕業だった。
起こしていた怪異が派手だっただけに、かなり力のある怨霊かと思ったが、望美は難なく封印して見せた。
「妖退治など……恐ろしげな姫君ではございませんの?」
女が剣を振るうだけでも珍しいのに、怨霊や妖を相手に戦うなど尋常でない。そう考える目の前の女のほうが普通で、世間でもそれは同じだろう。
龍神の神子の噂に、今度はどんな尾ひれがつくのだろうか。
想像するだけで、笑えてくる。
「ふふ、確かに。怖い姫君だよ、神子姫サマは」
ヒノエは望美の顔を思い浮かべながら答えると、上着を肩にひっかけた。
「そのような顔をなさって怖いなどと」
「怖いよ。オレじゃ太刀打ちできないくらい、ね」
凛とした瞳を思い描きながら、ヒノエは女に背を向けた。
 
 
勝浦の邸に帰ると、望美は単姿で縁の端に座り、手にした首飾りをじっと見つめていた。
「なよ竹の姫君は、月からの迎えを待っているのかな? それとも、オレ?」
「おかえり。早かったね」
「天女を空へと連れ帰る使者がやってくる前に、急いで帰って来たんだよ」
笑うばかりの望美に近づき、ヒノエはその肩に手にした上着を着せ掛けてやる。
「そんな格好(なり)で、体を冷やしたらまた熱が出るよ? もっとも、姫君が今度こそオレにうつしてくれるっていうなら、それでもいいけど、ね」
望美の隣に腰掛けながら、ヒノエは己の口唇に指をあてて、片目を閉じた。
ヒノエが望美と二人きりで話したくとも、昼間はとかく邪魔が入る。けれど皆が寝静まった夜のこのひとときは、誰が間に入ってくることもなかった。
「それ、いつも身につけているね。想う相手から貰ったっていうなら、妬けるな」
首飾りを顎で指して言うと、望美は「そんなんじゃないよ」とかぶりを振った。
「なら……白龍の神子の証かい?」
白龍の逆鱗を模したような首飾り。三草山でも、望美はそれを身につけていた。
八葉に宝玉があるように、白龍の神子にも証があるのかもしれない。
軽い気持ちで訊いたヒノエに、望美は目を瞠り、手の中のそれをぎゅっと握りしめた。
「望美?」
「あ、ううん。どっちかって言うと、白龍の神子に相応しくない証、かな」
「相応しく、ない?」
「はは、嘘うそ。冗談だよ。単なるお守り」
ヒノエと目を合わせないまま、望美は懐に首飾りを仕舞った。
望美の秘密。まだその正体はわからないけれど、首飾りはその秘密に触れるものなのだろうか。
「お前は、声があるのに言わないんだな」
「……」
「オレには言えない?」
「なにを?」
「お前の、秘密を」
秘め事を囁くような声音で言いながら、小首を傾げる彼女の目をまっすぐに見つめた。
望美はすぐに目を逸らすと、膝の上に揃えた自分の手に視線を落とし、くすくすと笑う。
「秘密って……たとえば、飲みきれなかった薬湯をこっそり捨てちゃったこと? 地面に落としたおまんじゅうを、土をはらって食べちゃったこととか? 剣の稽古をしていて、うっかり庭の木の枝を落としちゃったこ……」
「望美」
「……」
「熊野はお前を神隠しにだってできるぜ? お前を源氏の神子でなく、ただのオンナに戻すことだってできるんだ。神子の名は……その秘密は、重くないかい?」
望美の瞳の奥でなにかが揺れる。それでも、それはすぐに、浮かべた笑みに溶けて消えた。
「秘密なんてないし、私は……平気だよ」
自覚がないのだろうか。
望美は、確かに微笑んでいた。けれどその笑みは、抑えきれない痛みを堪えるような、泣いているような笑みだ。
ひと足ごと歩むたびに痛む足を手に入れて、それでも王子のもとへと走った人魚の姫君。
望美がそうまでして隠す秘密は、誰の為のものだろうか。
例え己以外のためだったとしても、守ってやりたいと思う。
八葉としてでなく、ただ男として、この女を守りたい。
「心配してくれて、ありがとね」
熊野別当・湛増は、源氏の神子に力を貸すわけにいかない。それでも、ヒノエとして、望美にしてやれることが、きっと何かあるはずだ。
「あ、秘密。あったかな」
望美は照れ臭そうに俯くと、ホントはヒノエくんが帰ってくるの、待ってたんだよ、と言葉を続けた。
不覚にも、その無邪気な発言に赤面してしまう。
(本当に、怖い女だよ。お前は)
始まりなどわからない。
変わった姫君だと、面白がっていただけのはずなのに。
別当の妻も務まるだろうと、色恋などとは関係なく思っていたはずなのに。
気付けば、望美に心奪われていた。
(海賊の頭領から、まんまと攫っちまうなんてさ)
「あのね、ヒノエくんとこうして話した後は、いつも怖い夢を見ないんだ。だから」
ヒノエは無防備な横顔に顔を寄せ、その頬にくちづけた。
「なっ──! ひ、ヒノエくんっ」
縁から飛び退くように立ち上がり、望美は口をぱくぱくとさせながら、ヒノエがくちづけた頬を手で押さえている。
「しっ! 姫君、騒いだら皆を起こしちまうぜ?」
「そんなこと言ったって」
「まじないだよ。悪い夢を見ないように、ね?」
「ねって、ねじゃないでしょう」
もぉ、と口唇をとがらせた望美は、先ほどより離れた場所にぺたりと座り込んだ。
立ち去らないだけ上々だ、と思う。
本当は、近づいて行って抱きしめたい。けれど、そうすればきっと、望美は逃げてしまうに違いない。
『待っていた』という言葉は、その程度の意味にすぎないとわかっているから、ヒノエは彼女との距離をつめることはなかった。
「こういう冗談はナシ」
「冗談じゃないんだけどな」
「はいはい。ねえ、ヒノエくん。熊野別当って、どんな人?」
飛び退いた拍子に落ちた上着を引き寄せて、ヒノエは羽織っておきなよと手を伸ばす。素直にそれを受け取り、肩にかけるのを見てから、ヒノエは答えた。
「それは、会ってお前が判断することだよ」
「会ったことは、ある、かも」
「へぇ。……どう思った?」
熊野別当の正体を、望美が知っている素振りはなかったはずだ。それでも、ヒノエという名を言い当てたように、敦盛の名を知っていたように、別当の正体もまた、彼女の知るところなのだろうか。
カマをかけられているのかと考えたヒノエは、探るように望美を見つめた。
「怖そう、かな」
どこか遠い目で真剣に考え込んだ後、彼女はぽつりとそう言った。
嘘をついたり、ヒノエを探っているようには到底見えない。それならば、誰か別人を熊野別当だと勘違いするようなことが、あったのかもしれない。
「怖そう? 人違いだったんじゃない? どこで会ったんだい?」
「どこって」
「うん?」
「そう、だね。人違いかもね」
どことも答えないままに、納得がいかない表情で、それでも望美は頷いた。
「オレも訊いていいかい?」
「なに? 秘密なら、ないよ?」
「それはまあ置いておいて。姫君は、もしもオレが敵として現れたらどうする?」
「なにそれ?」
「例えばだよ。オレが怨霊になることも、ありうるだろ?」
将臣は、相変わらず行動を共にしている。今日熊野川に行った時も、共に戦った。
還内府は、まだ源氏の神子の正体を知らないのだろうか。
こちらの正体を知っているから、平家は怨霊を放ち、源氏の神子の行く手を阻みながら、行動を共にするように仕組んだのではと考えていた。そうでないなら、平家の放った怨霊に、将臣までが同じく本宮への道を阻まれ、足止めされていたのはおかしい。
「怨霊になんかさせないよ。私がヒノエくんを守るもん」
望美は、当たり前のように言い切った。
予想通りの答えだ。
(もしもあいつがお前に刃を向けるなら、オレが代わりに戦ってやるさ)
本宮への道が開かれた以上、もうそれほど長くは将臣が行動を共にすることもないだろう。出来れば早いうちに、話をつけてしまいたい。
「ふぁ」と望美があくびをする。
ヒノエは、寝所まで送るよ、と立ち上がって手を差し出した。

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