人魚の足跡

「──っ!」
隊列を離れて河原までやってきた望美は、息を呑んで足を止めた。 
 
 
三草山での戦は、平家を退けることはできたものの、源氏が勝利したといえる内容ではなかった。
山ノ口に敷かれた囮の陣営に惑わされることなく、鹿野口にある平家の本陣へと進軍した源氏は、あの運命──敵に背後をつかれ、多数の犠牲を出してしまう、という事態は回避できた。
しかし進軍中に、源氏の動きを察した平家が火矢を放ってきた為、燃えさかる炎に隊列は完全に分断されてしまった。
弁慶に促され、炎の向こうから響く味方の怒号悲鳴を振り切るようにして進んだ望美たちは、平家の陣幕の内で平経正と対峙した。
源氏が退けば、平家も退くという経正の言葉。
望美は、まっすぐな目をした敵将を、信じられると思った。
信じたい、という気持ちもあったかもしれない。
結局、双方が共に兵を退くこととなり、源氏はそれ以上の犠牲を出さずに済み、本来の目的である『三草山からの平家撤退』を成し遂げた。
もっとも火攻めにより、源氏が多数の犠牲を出したことに変わりはなかったけれど。
 
分断された味方の兵を回収しながら戻る途中、三草川の近くまでやって来た望美は、ここで出会えるはずの敦盛を迎えに行かなくてはいけないと考えていた。
さすがに、ひとりで皆から離れるのはどうかと躊躇して周囲を見渡せば、誰もが怪我人を運んだり、隊列を整えたりと忙しく動き回っている。
唯一同行を頼めそうな譲も、戦が始まる前に口にしていた頭痛がまだ治っていないのか、どこか辛そうな表情をしていた。
(もう平家は兵を退いてくれたし、大丈夫、かな?)
敦盛がいるのはこのすぐ近くのはずだし、あの場で軍を率いていた経正が約束したからには、平家はここを離れているに違いない。
(私は、私が出来ることをしなくちゃ……)
ひとつ息を吐いた望美は、スカートのポケットを探った。
指先に、戦が始まる前に弁慶から貰った薬入れが触れる。
敦盛の怪我の具合はわからないが、よほどの深手でない限り、この薬を使えばいい。
確かあの時の敦盛は、目を覚ました後は、どうにか自力で歩けたはずだ。
手当して、少し休んで歩けるならば一緒に戻ればいいし、歩くこともできないようなら、その時は誰かを呼びに戻ろう。
望美は誰に告げることなく、そっと隊列を離れた。
 
 
『退いてくれればよかったのに』
平経正と名乗った男は、ひどく残念そうに呟いた。
刀を振うよりも、書物を読んだり、敦盛のように楽器を手にしている方が似合いそうな穏やかな物腰の男だった。
『そんな風に言うくらいならなんで……。どうしてあなたは源氏と戦うんですか? なぜ怨霊なんて』
作るんですか、と。
本当ならば争いたくはないのだという姿勢を隠すことのない相手に、思わずそんな言葉が望美の口から零れた。
源氏と平家が、話し合いですべてを解決するのは無理だということは、理解していたつもりだった。双方に事情があるのだろうし、話し合いで済む程度のものならば、こんな事態に陥っているはずがない。
けれど、それでも。
 
なぜ、戦うのか?
なぜ──あの時、皆が殺されなくてはならなかったのか?
 
望美のまっすぐな眼差しを正面から受け止めて、経正は戦場には不似合いな穏やかさで頬笑むと、同じように問いを返した。
『あなたは……なぜ戦っているのですか?』
柔らかな口調だった。
それなのに、望美はまるで喉元に刃をつきつけられたような心地がした。
あなたも、戦っているでしょう?
あなたも、殺しているではないですか。
そう、言われている気がした。
『なにかの因果が巡っているのかもしれないですね』
返答につまる望美に、諦観のようなものを滲ませた経正は『ここは退いていただけないでしょうか?』と切り出した。
 
 
(私は、どうしたらいいんだろう?)
経正の言った『なにかの因果』とは、『運命』のことだろうか。
リズヴァーンは変えられる運命と、そうでないものがあると言っていた。
変えられない、運命。
そんなものは認められない、と思う。
あの運命を変える為だけに、今、ここにいる。
(その為には、なにをすればいいの?)
答えの出せない問いを繰り返しながら歩いていた望美は、ふと風の運んでくる匂いに足を止めた。
「……」
ドクドクと鼓動が早まる。
心臓を抑えるように、襟元をぎゅっと握りしめた望美は、再び歩き出した。
川音が聞こえてくる。
草を踏みしめて歩く、望美の視界が開けた。
林を抜け、河原に降り立った望美は、その場で立ち尽くした。
そこには数十人の人が、人と ── 人だったであろうモノが転がっていた。
濃く立ちこめる、生臭さを伴う鉄の匂い。
激しい争いだったのだろう。骸が、ちぎれた体の部位が、相手が怨霊や妖の類だったことを物語っていた。
「ぅっ」
口元を手で覆い、望美はこみあげる吐き気を堪えた。
生きている者がいないなら、手当の必要はない。うめき声ひとつ聞こえず、身じろぐ気配もなく、ただ、さわさわと水の流れる音が響くのは、つまりそういうことだろう。
目の前の光景に圧倒されながらも、頭の片隅で冷静にそんなことを考える。
(敦盛さんを、探さなきゃ)
望美はなるべく周囲を見ないように、俯き加減のまま歩を進める。
嘔気を堪え、浅い呼吸を繰返す望美の足下に、それは、握られていた。
この場におよそ似つかわしくないように思えるほど、血に汚れることのないまま、蒼白く月明かりを受けていた、それ。
「う……そ」
事切れるまで握りしめていたのだろうか。
今は力なく開いた掌。
包むように、折り曲げられた指先。
恐る恐る、その手首を、腕を、目で辿っていく。
「ぐっ」
こみあげるものを堪えきれず、体を折るようにして、望美は吐いた。
吐く物など、それほどない。三草山に来るまでに口にした物など、たかが知れている。それでも胃の中から、体の中から、絞り出すように吐き続ける。
 
── 手柄をたてて、帰らねばならんのです。
 
戦の始まる前、そう言っていた男の首筋は、夜目にもはっきりとわかるほど、深くえぐられていた。
 
吐いて、吐き尽くして。
荒く息をつき、手の甲で口元を拭った望美は、その場にへたりと座り込む。
止まらない嘔気に口を押さえながら、男の顔を、呆然と見つめた。
 
『神子様は綺麗な目をしていなさる』 
 
今はもう、何も映していないはずのうつろな目。
この男の目に、自分はどんな風に映っていたのだろうか。
 
『夏には娘が祝言をあげるで、間に合うように褒美を持って帰ってやらねば』
 
龍神の加護を信じて疑わなかった男は、娘の守り袋を手に、最期の瞬間、なにを思ったのだろうか。
「……」
そろりと、自らの胸元に手を伸ばす。
取り出した白銀の鱗は、月の光に清らかな光を返す。
逆鱗を握りしめ、その拳を包むように手を添えた。手の中の冷たい感触が、望美に応えるように熱を帯び、指の隙間から白い光が零れ始める。
(運命を、上書けば……)
そう思い、顔をあげた望美の周りには幾つもの骸が転がっていた。
(救う……の?)
「ふ……ふふ」
口唇から笑いが洩れる。
(この人だけ救うの? それとも、ここにいる、全員を? ……救えるの?)
「無理に、決まってるじゃない」
開いた掌から落ちた逆鱗は、首からさげた紐に繋ぎ止められて、地面に落ちることなくゆらゆらと揺れた。
「無理、だよ」
誰一人死ぬことのない戦など、あるはずがない。
ましてや、自分ができることと言ったら、剣を振うのと、怨霊を封印することくらいのもので、時空を越えたところでそれは変わらない。
味方すべてを救う力など、どこにもない。でも。
それでも、誰の命も失いたくはない。誰の命も。
「フフ……」
いい子ぶるな、と身の内でなにかが囁く。お前も命を奪っているではないか、と。
望美はそろそろと、両の掌に視線を落とした。
京でも。
今日、平家の陣幕に斬り込んだ時も。
怨霊だけでなく、人間にもその剣を振り下ろした。
刃が肉に食い込む感触も、骨にぶつかる衝撃も、この手は知っている。
炎の向こうに、多くの味方を見捨ててきたのだって、ほんの数刻前の出来事だ。
その自分が、誰の命も失いたくはないと思うことが可笑しくてならなかった。
経正に、なぜ戦うのかなどとよく訊けたものだ。
「は……ハハ、ふっ、……っ」
笑いは、徐々に嗚咽へと変わっていく。
あの陣幕の周りには、自分が作った骸が転がっていたはずだ。
皆を助ける為だと言い訳して。
運命を変える為だと言い聞かせて。
この手も、誰かを殺した手だ。
「ごめ……なさ」
ごめんなさい。ごめんなさい。
 
『こうして神子さまに会えたからには、儂は一番の手柄がたてられますな』
 
「……っ、め、なさ……」
 
『儂らには、神子さまがついておられる』
 
「……さい、ごめん……っ」
 
口唇から零れていく謝罪の言葉は、誰に向けられたものなのか。
それは、彼女自身にもよくわからなかった。
転がる骸に対してなのか。
自分が奪った命に対してなのか。
龍神の神子と呼ばれながら、なにもできない不甲斐なさゆえなのか。
わからないままに、それでもなにかに許しを請わずにはいられなかった。 
ひとしきり泣いて、どうにか涙もおさまった頃、声が聞こえた。
「先輩っ! 春日先輩!」
望美は涙を拭うと慌てて立ち上がり、ここだよ! と応えて手を振った。

「大丈夫ですか?」
泣いていたことが、わかってしまったのだろう。
気遣うような眼差しを向けてくる譲に、笑顔を向ける。
「大丈夫」
「でも、先輩……」
「ホントに平気だから」
彼の言葉を制して、望美は小走りで駆け出した。
大丈夫。
大丈夫。
私には、やらなくちゃいけないことがあるから。
「早く早く。その茂みのあたりだよ」
譲を手招きした望美は、記憶を辿りながら敦盛のいるはずの場所を見回した。
視界の端に、見慣れた武具が映る。敦盛のものだ。
「あっ」
「先輩?」
武具のすぐ脇に、敦盛はいた。
記憶の中のままの姿勢で横たわる敦盛の傍に、望美は膝をついた。
息はしているが、意識はないらしく、そっと肩に手をかけても、瞼は閉じられたままだ。
「先輩っ、敵かもしれないのに」
「大丈夫。この人は八葉だよ」
「八葉?」
「うん。敦盛さんは、天の玄武だよ」
怪訝そうに寄せられた眉に、信じろと言っても無理だろうな、と思う。
しかし敦盛が八葉であることは間違いないし、説得できるだけの理由などない。
──時空を越えたと告白する以外には。
望美の心中をよそに、隣に膝をついた譲は、敦盛の腕や肩に触れて怪我の具合を確かめながら呟いた。
「本当に、龍神の神子なんですね」
「え?」
「こんな風に、離れた場所の八葉を見つけてしまうなんて」
ほんの今まで、信じられないという表情をしていたのに、敦盛が八葉だと信じてくれたらしい。
龍神の神子というだけで、説得力が生まれてくるのだろうか。
望美は顔をあげて、幼馴染みの横顔を見つめた。
「はは、怨霊の封印をしているんだから、今更ですよね」
なぜか淋しそうな声音で言った譲は、苦笑するとようやくその視線を望美に向けた。
「六波羅で先輩がヒノエを見つけた時は、偶然かと思ったんです。でも……龍神の神子と八葉の繋がりというのは、本当なんですね」
幼馴染みに向けるのとは違う、畏敬の念が透けて見える眼差し。
それは戦の前に出会ったあの男の眼差しと、どこか似ているように思えた。
 
『龍神の神子さま』
 
河原で見た男の変わり果てた姿が浮かび、望美は己の襟元をギュッと握りしめて、その視線から逃れるように立ち上がった。
(そんなんじゃ、ないのに……)
龍神の神子だから、ヒノエや敦盛の居所がわかったわけではない。
望美はただ、自分だけが知る記憶を辿っただけだ。
敬われるような、特別な存在ではない。
誰かを救う力なんて、持ち合わせていない。
「ふふ、そうだよ。私が龍神の神子って信じてくれた?」
心に渦巻くものを押し隠したまま、望美は冗談めかして笑った。
「さて、じゃあ敦盛さんを連れて……っ!?」
背後でパキと小枝を踏みしめるような音が聞こえ、素早く振り返って剣を構えた。
譲も、望美を庇うように立ち上がる。
「い、命だけはお助けをっ」
兵がひとり、立っていた。
怯えた眼差しで、折れた刀をこちらに捧げるようにして立ちつくす男は旗印もなく、敵なのか味方なのかすら判別できない。
「あなたは、源氏? それとも、平家の人?」
「お、おらは農民だ。いく、い、戦には手伝いに駆り出されただけで、平家でも源氏でもねぇっ」
平家か、源氏か。どちらに駆り出されたかは知らないが、相手に戦意は見えない。
望美は安堵して、構えた剣を降ろした。
その時。
「源氏の神子、覚悟っ!」
右手の木立から声が響き、茂みが揺れた。
「先輩っ」
飛び出してきた男の攻撃を、危うく受け止めた望美の鼻先で、ぶつかった剣がキンと音を立てた。
男を相手に、剣で押し合えばどうしても力負けする。
望美は受けた刃を、自らの剣の上に滑らせて除けながら、間合いを取り直そうとした。
「ぐっ!」
ふいに、左腕に走った焼けるような痛みに態勢を崩してよろめいた。
横目に見れば、先ほどの男が、折れた刀で斬りかかってきたらしい。
刃を交えていた男がこの隙を見逃すはずもなく、刀が振り下ろされる。
(やられるっ)
そう思った瞬間、敦盛の武具を振り下ろした譲の一撃を避け、敵は間合いをとるべく望美たちから離れた。
「先輩っ、大丈夫ですか!?」
切迫した声に、平気、と短く答える。
ドクン、ドクンと、鼓動に呼応するように左腕が痛むが、傷の状態を確かめてはいられない。
深手でもそうでなくとも、とりあえずは剣を握ることが出来る。
今はただ、この場を切り抜けなければならない。
望美は歯を食いしばって立ち上がり、最初に斬りかかってきた男に向かって剣を構え、柄を握り直した。
「望美っ!」
背後から走ってきた人影は、呼び声に答える間もなく横を駆け抜け、目の前の敵に斬りかかった。
男は喉元を裂かれ、血飛沫をあげて倒れ伏す。
「二人とも、怪我は……って、遅かったか」
肩越しに振り返ったヒノエはこちらを見て舌打ちすると、折れた刀を放り出し、逃げ出そうとした敵の背中に飛びかかるようにしてカタールを突き立てた。
「ぐおぉぉっ」
断末魔が、静かな闇に響いた。 

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