人魚の足跡

夜の浜辺は波の音ばかりが響き、どこからが海なのかわからなくて少し怖い。
望美が素足でそろそろと歩を進めると、寄せてきた波がそのつま先を濡らした。
 
ヒノエと共に船で湊に帰ると、弁慶と白龍が迎えに来ていた。
船を下りるときに差し出されたヒノエの手を無視した望美に、弁慶は何を訊ねるでなく、気分転換をしてきたらどうですか? と微笑んだ。
「気分…転換?」
「せっかく可愛らしく着飾ったんですから、少しそのまま歩いてくるといい」
この着物に袖を通した時は、後でヒノエにもその姿を見せようと思っていた。
けれど今は、そんなことを思っていた自分が嫌でたまらない。
こんなもの、早く脱いでしまいたい。
「そんな顔で戻れば、皆、心配しますよ」
弁慶の言うことは、もっともだった。きっとこんな風に攫われて、他の皆にも心配をかけたに違いない。それに、そもそも別当との対面を心待ちにしていたのは、望美だけではない。
せっかくの日が台無しになってしまった責任の一端が自分にあることを思えば、反論などできるはずがなかった。
「白龍と一緒に行ってらっしゃい。僕は知り合いの邸に薬を届けてから帰りますから。白龍、いいですか?」
「うん。行こう、神子」
望美はそのまま白龍と、勝浦の町を散策した。
 
ゆったりとした歩調で、白龍と並んで歩く。
魚売りが大きな声で魚を売り歩き、軒に野菜を並べて売る家もある。
小さな子供たちの一団が歓声をあげて駆けていくのを見送りながら、白龍は弾んだ声音で望美に微笑んだ。
「熊野の気は、安定しているね」
せわしく道を行く者、立ち止まって楽しげに話す者、さまざまだ。
「私の力が満ちて龍脈が清められたら、京もこうなるよ」
「京も?」
そう言われて京の町を思い描けば、熊野とはずいぶん違った雰囲気だった。
京でも、同じように人は生活している。たくさんの人が行き交い、市が立ち、物売りが道を練り歩いていたはずだ。
けれど、怨霊が度々出没し、武士が徒党を組んで通り過ぎるのを見る町の者達の表情は、常に行く末を憂う不安を湛えていた。
「でも白龍。龍脈を清めるだけでは、戦は終わらないよ?」
「戦は人の営みのひとつだよ、神子。戦が起きたのは、龍脈が穢れたからではない」
「そんなのっ……!」
人の営みのひとつ。だから、龍神の力を持ってしても止められない流れ。
ならばそれは例え龍神の神子でも、足掻いたところで変えられないということだろうか。
怒りと悲しみの混ざった気を察したように、白龍は宥めるように望美の手をその手のひらで包んだ。
「人の言の葉は難しいね。戦は……戦をするのも、止めるのも、私の役目ではないよ。それは、人が選ぶ」
「人が?」
少し屈んで望美に目線を合わせた白龍の目が、穏やかに和んで頷いた。
「そう、人だよ。この地には、だから戦がない」
人が選ぶ戦。けれど、京の人々は戦を望んだだろうか。
そんなはずはない。
あの炎の中で、家を焼かれ逃げまどっていた人々。
三草山で命を落とした兵士たち。
彼等が戦を望んだだろうか。
「違うよ、白龍。熊野が平和なのはっ」
巻き込まれていないからだ、と。
言いかけて、はっとした。
熊野が平和なのは、源氏と平家の戦に巻き込まれていないからだ。
巻き込まれない選択を、しているからだ。
熊野別当である、ヒノエが。
「神子?」
「そう、だね」
ここにいると、源氏と平家が戦をしているということを忘れそうになる。
戦に怯えることのない、平和な場所。
そして今、この地を守っているのは、熊野別当であるヒノエだ。
 
──もしも、熊野が源氏に味方したら?
 
勝てるならまだいい。けれど、もし負け戦となったら?
 
望美の脳裏を、炎に包まれた京の町並みが過ぎる。

(ヒノエくんも守りたいんだね…)
あんなことがあるまで、正体を明かして貰えなかったのはやはり哀しい。それは仲間として、信じて貰えなかったということに思えるからだ。
それでも、彼なりに大切なものを守ろうとしていることだけは、理解できる気がした。
 
 
波が寄せて、足先が少しだけ砂の中に沈む。望美は冷たい砂の感触を楽しみながら、波打ち際を歩いた。
ヒノエはあの後、夕餉の時間にも邸に帰ることはなかった。
正体を明かした以上、もしかしたらもうこのまま帰ってこないのかもしれない。
そう思うと、ひどく寂しかった。
食欲もなかった望美は、着替えてからひとり邸の近くの海辺へと足を向けた。
立ち止まり、懐から首飾りを取り出して、じっと見つめる。
熊野水軍は、きっと力を貸してくれないだろう。ヒノエにその気があったなら、正体を明かすことはなくとも、とっくにそう言ってくれたに違いない。
やはり運命は、変えられないところまで来てしまったのだろうか。
もう一度、時空を越えてやりなおすべきなのかもしれない。
それともこの先にまだチャンスがあるのだろうか。
月の光を受けて、手の平の上に浮かび上がる白銀の鱗。
望美の秘密のすべてを知る逆鱗ですら、教えてはくれない答え。
時空を越えたことを、皆に言ってしまおうかと思ったことがある。皆に言って、一緒に解決策を探せばいいのかもしれない、と。
でも、望美は言えなかった。
自分が死んでしまう運命など、誰が知りたいと思うだろう。
変えられる運命ならいい。しかし、変えようとして足掻きながら、結局大きな流れを変えることができない無力感を、望美は三草山で知ってしまった。
そして、また、熊野は力を貸してくれない。
 
──声があるのに、言わないんだな
 
ヒノエはあの夜、人魚姫に例えるようにそう言った。
王子を想い、ひっそりと泡になって消えた人魚姫。
ただひとり助かった自分とは、正反対だ。
あの運命を、変えたい。
それなのに、あの流れへ引き戻されると感じるたびに、どうしようもない焦燥感に襲われる。
今、味わっているこの思いも、仲間を犠牲にして自分だけが助かった、罰なのかもしれない。
 
 
月の光に照らされながら波打ち際を歩く望美の足取りはひどく危うくて、それだけで彼女の気落ちが感じられた。
優しい海風が吹き抜ける浜辺で、ヒノエはしばらく望美の様子を見つめていた。
昼に見た、望美の泣き顔が過ぎる。
別当に会いに行く支度をしていた彼女の様子に、気持ちを張り詰めさせているのはわかっていた。
正体を明かすと決めたはずの心が、揺らがなかったと言えば嘘になる。
けれど今日、ヒノエは熊野別当として望美と対面すると決めていた。
龍神の神子が海賊に攫われたとの報に、すべての段取りを放り出して駆けつけたヒノエに「私一人じゃ、さすがに手に余ったよ」と笑った顔。
「言い訳くらいしてよ」と泣き崩れた顔。
今、声を掛けたら、望美はどんな顔でこちらを見るだろうか。
いつまでも気づかない背中にひとつ息をついて、ヒノエは波打ち際へと歩を進め声を掛けた。
「攫われたばかりなのに、懲りない姫君だね」
「ヒノエくん…」
「姫君が強いのは知っているけど、こんな場所をひとりで歩くもんじゃないぜ? それともオレに、攫って欲しい?」
当惑顔の相手を茶化すように言いながら、ヒノエは望美が怒るだろうと思っていた。
身分を隠していた己を責め、なぜ本当のことを言わなかったのかと詰め寄られるに違いない、と。
けれど望美は、予想外の言葉をどこまでも穏やかな声音で投げてきた。
「ごめんね、さっきは言い過ぎた」
「望美…」
「ヒノエくんも、守りたいだけなんだよね。私、気づかなくって。ごめんね」
そう言って微笑んだ望美は、見えない水平線を探すように、闇の向こうに視線を投げた。
「堪忍な」
「ううん。言ってもらえなかったのは寂しいけど、ヒノエくんは悪くないよ」
ここまで来る道すがら、なんと言って謝ろうか、ずっと考えていた。
熊野は中立だ。それに関して、謝るつもりは毛頭ない。  
別当である自分が、熊野にとって最良であると思える選択をするのは当然だ。
それでも、身分を隠していたことで望美を傷つけたことは、謝りたかった。
それなのに望美は、もうすべてをわかった表情でいる。
落ち込んでいないはずはないのに、こんな風に微笑む望美に、ヒノエはやはり敵わないと思った。
暗闇に溶けたこの海に、彼女は何を見ているのだろうか。
彼方を見遣っていた望美は、私のせいかな、と思いついたように呟いた。
「ね、ヒノエくん。龍神の神子が私じゃなかったら…もっと立派な人や強い人が神子だったら、熊野は源氏に力を貸してくれた?」
「お前が龍神の神子じゃなかったら、ね。そいつはどうかな。オレはお前以上の神子がいるなんて、想像もつかないけど?」
「また、ヒノエくんてば…」
望美は信じてはいないけれど、ヒノエは嘘やお世辞を言ったつもりはなかった。
強大な龍神の力を思うがまま振るい、源氏を勝利に導くような神子がいたならば、あるいは熊野もすぐに参戦したかもしれない。
しかしそれでも、望美でなければこんなにも惹かれはしなかっただろう。
「同じなのにな」
「なにがだい?」
「京の景色も、鎌倉の海の色も。源氏と平家が争っていることまで似ているのに…」
望美の世界でも、源氏と平家が争っている。それは初めて耳にすることだった。
刀を持ち歩くこともない平和な世界だと聞いていたが、それでも戦をしているのだろうか。
「お前の世界でも、戦をしてるのかい?」
「あ、ううん、違うの。過去。何百年か前に、そういうことがあったっていう話。私は歴史の授業で習っただけ」
「へぇ…」
「その時には、源氏が勝ったんだよ」
望美は軽く波を蹴り上げるように、水しぶきをあげた。
無邪気な仕草を微笑ましく思いながら、ヒノエは望美の隣に立ち、その顔を覗き込んだ。
「姫君の世界では、熊野は源氏に味方した?」
「うん…譲くんはそう言ってた」
「ここは、お前にとって過去なのかい?」
「え……?」
途端、望美の表情が凍り付いた。
何気ない問いを投げたつもりだ。望美が熊野の参戦を望むのは、彼女の知る過去の歴史をなぞる為なのかと思っただけだ。
それなのに、この反応はなんなのか。
その顔を見つめながら、ヒノエはずっと考えていたことを口にした。
「星の一族は、先見ができたんだっけね」
「……。そう、みたいだね」
「お前にはどんな結末が見えてるんだい、姫君?」
望美に先見ができるなどという確証はない。
現に彼女は、ヒノエの正体を知らずにいた。
だからその指摘に充分な根拠も自信もなく、それでも、望美の秘密にはそういう不思議な力が絡んでいる気がしてならなかった。
「源氏の勝利かな? それとも──負け戦?」
望美は驚きに目を見開いたまま、問うようにヒノエを見つめる。その眼差しを正面から受け止めて、畳みかけるように問いを連ねる。
「知っているんだろ」
「……」
「姫君の目には、どんな未来が見えているんだい?」
大きな瞳はにわかに潤み、それを隠すように顔をそらした望美は、昼にもそうして見せたように、自らの袖で涙を拭った。
「未来が見えたら、この先どうすればいいのかわかるのにね」
望美は途方にくれた声で言った。その声音で、ヒノエは自分の指摘がはずれたことを覚り、内心舌打ちをする。
捕まえたと思った望美の秘密は、するりとその手をすり抜けていってしまったようだ。
「私ね、甘えてた。熊野にくれば、熊野水軍が力を貸してくれれば、源氏が勝てるって思ってた。でも、その為に、もっとしなくちゃいけないことがあるんだ、きっと」
「甘えなよ」
思わず口をついた言葉。
自らを律し、夢の中ですら助けを求めることのない望美に、甘えて欲しいと思った。
今、水軍を動かすわけにはいかない。例え甘えられても、彼女の願いをすぐには叶えられない。
それでも。
「別当の湛増は、今はまだ源氏に力を貸せない。でも──オレは、お前に力を貸すよ」
「今はまだ?」
可能性のある言葉に、望美の表情が幾らか晴れやかになる。
ヒノエはそれに応えるように頷いて、言葉を続けた。
「源氏に勝ち目が出てくれば、熊野は全力をあげて支援するよ。熊野の頭領として約束する。だからそれまでは、オレ個人の協力ってことで堪忍な」
「ありがとう。私もね。源氏の神子として、熊野の水軍が協力してくれるように頑張るよ」
まだ睫が濡れたままに、それでもあの強い瞳で、望美は頷きながらそう言うと、絶対勝とうね、と笑った。
「ああ…このオレがついてるんだ。勝負は決まったようなもんだろ」
「ふふ、そうかもね。ね、ヒノエくん。夕飯食べた?」
「いいや、まだだよ。野暮用が長引いてさ」
当分は、熊野を留守にすることになるだろう。
ヒノエはその為の手配と、平家に仕掛けるための準備とを済ませるために奔走していたのだ。
「じゃあ、帰って一緒に食べよう」
「まだ食べてないのかい? オレがいなくて食事も喉を通らなかった?」
「あはは、ヒノエくんは…ヒノエくんだね」
「どういう意味だい?」
「ううん。熊野別当も、水軍の頭領も、八葉のヒノエくんも。みんなヒノエくんなんだなぁと思っただけ。帰ろ?」
差し出された望美の手を、きゅっと握る。
(おちたもんだね、オレも…)
夜の砂浜で、愛しい女とふたりきり。
口説くでなく、口唇を奪うでなく、胸を高鳴らせながら手を繋いでいるなど苦笑するしかない。
 
──いつかお前を、本気にして見せるよ。望美。
 
そうして、秘密も見つけ出す。
密やかな決意に気づくことなく、望美は楽しげに歩き出した。

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