なんとなく寝付けなくて、水でも飲むかと起き出して来た将臣は、むわりと立ちこめる熱気に、厨の入り口で足を止めた。
そうでなくとも暑いのに、厨の中は竈の火と鍋から立ち上る湯気で暑さを増し、妙な匂いが立ちこめている。
そんな中、竈の前の譲は熱心に鍋をかき回している最中だった。
眼鏡を外しているのは、湯気で眼鏡が曇ってしまうからだろう。
日頃寝起きを共にしていない将臣は、眼鏡をかけていない弟の顔を見るのも久し振りだと思いながら、土間に降りて声を掛けた。
「こんな時間に何してんだよ」
瓶の水をひしゃくですくい口にする。ぬるいながらも喉をすべるそれは、体内に籠もった熱を幾分かは散らしてくれるように思えた。
「さっきの果物の余りを煮てるんだ。このままじゃ日保ちしないし」
答えながら、手にした壺を傾けてトロリした液体を鍋に流し込む。
傍らに立って鍋の中を覗き込むと、クツクツと音をたてて煮えている赤い木の実は、それなりの時間煮ているのかジャムのようになっていた。
譲は液体を少しずつ流し込みながらも、鍋をかき回す手を休めない。
将臣は鍋に流れ落ちる琥珀色のそれを制するように手を伸ばした。
「兄さんっ!」
咎める声を気にすることなく指にからめて口に運んだそれは、予想通りの甘さだ。
「こんなもんがよく手に入ったな」
「ヒノエが持ってきたんだよ」
それは蜂蜜だった。この世界ではかなり高価な物だが、清盛に拾われたばかりの平家では、厨に行けばたやすく手に入ったものだ。
幼い帝が蜜をといた湯をせがんでいた姿が思い出されて、知らず頬が緩む。
もしもこの場に言仁がいたならば、目を輝かせたに違いない。
それにしても。
高級品といえるこんな物を持ってくるヒノエとは、何者だろう。熊野水軍の一員とは聞いたが、一介の水夫がこんな物を容易く手に入れられるとは思えない。それとも、熊野とはそれほどに豊かなのだろうか。
ヒノエに限ったことではない。将臣と再会するまで望美や譲が世話になっていたし、敵意も感じられない為敢えて訊いてみたことはないが、望美を取り囲む面々は皆、素性が知れない。
京から熊野に来ても路銀に困っているようには見えず、かといって怨霊を退治して報酬を得ているような様子もない。
どこかの公卿あたりが、後ろ盾にでもなっているのだろうか。
怨霊を疎ましく思っている輩はたくさんいるだろうし、それを封じてくれる白龍の神子達を援助する者がいるのはおかしいことではない。
怨霊を疎ましく思っている者。その筆頭は、鎌倉に違いない。
それならば望美たちに援助しているのは、頼朝だろうか。それとも──。
心にひっかかり続けていることを思い浮かべ、将臣は表情を曇らせた。
「もう駄目だからな」
黙り込んで思いを巡らす将臣が、また蜂蜜を狙っているとでも思ったのだろうか。
憮然とした声音で釘を刺す弟に、思わず苦笑する。
離れて過ごしている間に、譲はすっかり炊事が板についた。
家にいた時から、母親の手伝いもよくやっていたけれど、今ほどはマメじゃなかったはずだ。もっとも、それは望美の為だからこそなのだろう。
いつの頃からか、自分と譲は兄弟であると同時に、望美を間に挟んで男と男になっていた。二人にとって、彼女はとっくにただの幼馴染みではなくなっていたのだ。
(あいつは今でも、気付いちゃいないんだろうけどな)
時折袖で汗を拭いながら鍋に向かう恋敵に同情めいた気持ちになりながら、譲が気に掛けている様子のない、隣の鍋に手を伸ばす。
「こっちはなん……うっ」
蓋を開けて顔をしかめた。
鍋から立ち上った湯気は、薬湯特有の強い匂いを放つ。
「すごい匂いだな」
「そっちは俺じゃないよ。弁慶さんが薬を作ってる」
鍋の中では、怪しげな色の液体が煮えたぎっている。
紫がかった茶色のそれは、とかげの尻尾や、イモリの丸焼きでも放り込んであるのではとすら思えた。
「こんなの、あいつが飲めるのか?」
「こっちには俺たちの世界みたいな薬はないんだから、しょうがないだろ」
「だな」
こちらに来たばかりの頃は、将臣も風邪は『たかが風邪』だと思っていた。ところが、将臣が知るような薬がない京では、風邪をちょっとこじらせただけで、抵抗力のない年寄りや子供はあっけなく死んでしまうのだ。
普段近くに居てやれない望美の傍に薬師がいるというのは、それだけで心強い。
(薬師、なんだよな……)
得体の知れない面々でも、心に引っかかりを覚えつつも将臣が意識の外にそれを追いやっていたのは、『弁慶』が『薬師』だからだ。
「なぁ、譲」
「なんだよ」
「弁慶って、あの弁慶じゃないよな?」
「は?」
譲が鍋をかきまわす手を止め、訝しげに眉を寄せてこちらを見た。
「だから。弁慶は源氏の家来の」
「僕がどうかしましたか?」
厨の入り口からかかった声に振り返れば、弁慶が竹籠を抱えながら戻ってきた所だった。
(ま、こういうのは本人に訊くのがてっとり早いよな)
「なあ、弁慶。お前は源氏の家来か?」
「僕が、ですか?」
突然の質問に、弁慶はおっとりと笑った。それは、そんな質問をされたこと自体を面白がるような笑みにも見える。
「確かに源氏にも出入りしたことはありますよ、僕は薬師ですから。でも、家来というわけではありません」
弁慶は入口近くの土間に竹籠を下ろすと、薬の鍋の様子を確かめてから、譲の鍋を覗き込み、おいしそうですね、とまた笑った。
和やかなその様子に、将臣は自分がひどく馬鹿げた質問をしたように思え、息をついた。
「だよな……」
そうだ。いくら『弁慶』だからと言っても、源氏のはずがない。そうでなければ、『源氏の神子』は望美ということになってしまう。
『鬼神のように、恐ろしい形相で剣を振っておりました』
源氏の神子を見たという兵は、強張った表情でそう報告した。
『天女のようにたおやかな女人でしたよ』
源氏の神子と話をしたという経正は、そう言って微笑んだ。
鬼神なのか、天女なのか。
いずれにしろ、人伝に聞くだけではわからないし、戦が続けば、いつか戦場で剣をあわせることになるに違いない。
もっとも、熊野水軍を束ねる別当の返答次第では、事態はいかようにも変わるはずだ。その為に、こうして熊野にやって来た。
「なんだよ、こんな夜更けに野郎が厨に集まって」
「ヒノエ。望美さんはどうですか?」
「今、目を覚ましたところだよ。水が飲みたいってさ」
厨にやって来たヒノエは、手近にあった椀に水を汲み入れた。
「そうですか。では一緒に薬湯も飲んで頂きましょう」
弁慶もまた、そう言って鍋から椀に薬湯を移し入れた。
子供の頃から薬嫌いの望美が、こんなものを本当に飲めるのだろうか。
錠剤をこっそり庭に吐き出したのを見つかって、母親に叱られていた姿を思い出しながら、将臣は眉をひそめた。
「将臣くんも飲んでみますか? これでも苦味はそれほどじゃないと思いますよ」
将臣の視線に気付いたらしい弁慶は、滋養強壮にもいいんですと付け足した。
「いや、遠慮しとく」
苦味が見た目ほどじゃなかろうとも、この匂いからして味は想像がつくというものだ。病気で必要に迫られているのならともかくとして、そうでないのに口にしてみたいとは到底思えない。
「そうですか。ヒノエ、その水は僕が持って行きますよ」
ヒノエから水の入った椀を受け取りながら、弁慶は厨を出て行った。
水一杯では、あの薬湯を流し込むには足りないに違いない。
「譲。お前のそれ、出来たのか?」
「冷ましてからのほうがいいんだけど……」
将臣と同じ事を考えていたらしい譲は、持って行くよ、と手頃な椀を手に取っていた。