「駄目ですっ。このまま攻め込んだらっ、えっと……危ないと思うんです」
夜のうちに攻めるという九郎に、それまで黙っていた望美はそう口にした。
「何を言っている。危なくない戦などあるか」
「そうじゃなくてっ」
「だから、お前は後方にいろと言っているんだっ」
「九郎。可愛い軍師殿の意見に耳を傾けるくらいは、してもいいんじゃない?」
とりつく島のない九郎の様子に、ヒノエは助け船を出す。
望美が言わんとすることに耳を傾けたいのは、実はヒノエ自身だ。
彼は、山ノ口にある平家の陣が、もぬけのからだということを知っていた。
平家が三草山に集まり陣を構えているとの噂は、京では既に多くの者が知る所となっている。
そんな噂がたった時点で、源氏が攻めてくるのは予想の範疇のはずで、平家が何も策をたてていないはずがない。
もちろん九郎たちも、その可能性を考えているからこそ、敵に時間を与えることなく、すぐに攻め込んだ方がいいと判断したのだろう。
今、平家の指揮を執るのは、還内府──小松内府重盛と言われている。
ヒノエは熊野で、重盛に幾度か会ったことがあった。
道理に反したことを嫌い、分別のある男。それが彼に対するヒノエの認識だ。
もしも、清盛の嫡男たる重盛が生きていたなら、平家と源氏のこのような対立も、回避する手だてがあったかもしれない。そう──生きていたなら。
彼は、既にこの世の人間ではない。
怨霊を使う平家ゆえ、黄泉から還った重盛が指揮を執っているというのも充分に考えられることではあったが、源氏の兵の間では、還内府は作法も道理も通じない、獣のような男だと噂されており、それはヒノエの知る重盛とは到底結びつかない人物だ。
還内府が本当に怨霊になった重盛なのか、それとも別の人物なのかは、熊野の烏をもってしても、今の所はまだなんの確証も得られてはいなかった。
山ノ口の陣は囮なのだろう。
ならば、平家の兵は山頂側に潜み、源氏の背後に回り込んで攻めるつもりだろうか。
源氏の軍が山ノ口に攻め込むのを見計らって背後をすり抜け、ひと息に京に詰め寄るという可能性も考えられる。
いずれにしろ、こんな策にみすみすハマる源氏ならば、平家にとってはとるにたらない相手ということになるし、ヒノエ自身が身をおいて情報を集めるには値しない。
もっとも、もしも源氏がこのまま平家の陣を目指して進軍するというならば、罠の可能性くらいは示唆するつもりでいたし、それすら耳を貸さずに攻め込むというならば、ヒノエはその場で源氏を見限るつもりでいた。
「平家の人の方が、三草山に詳しいんでしょう? だったらいきなり攻めたら危ないじゃないですか」
「確かにここは平家の本拠地、福原に近いぶん、地の利は向こうにあります。だからこそ、あまり時間をとるほうが、かえって危険なんですよ」
「そうだ。夜が明ければ、平家は俺たちが三草山に来たのを知るだろう。そうなる前に仕掛けた方がいい」
「でもっ! もし……もしも、平家の陣が偽物だったとしたら、どうするんですか?」
望美の的を射た発言に思わず口笛を吹きそうになって、あやうく止める。
(本当に、面白い姫君だよ。神子姫サマは)
大将と軍師を前にして一歩も退かない望美の姿に、ヒノエは口唇の端を引き上げ、目を細めた。
仲間として過ごしているとはいえ、熊野別当たる身分も明かしていない今の段階で、九郎たちに烏の存在をあまり知られたくはない。
ヒノエは景時の隊の到着を待つ間、人目を避け、陣から少し離れた場所で山ノ口の陣を調べさせた烏の報告を受けた。
危うく望美に姿を見られそうになったが、実際見つかったわけでもないし、彼女の耳に烏の言葉が届いているはずもない。
『こんなの持って歩いてたら、それだけで警察、えと、こっちでいうと検非違使? 捕まっちゃうんだよ』
京で剣を指して、望美はそう言って笑った。
剣や刀を持つ必要もなく、人に命を狙われることも、奪うこともない日常。そんな世界から、望美は来た。
当然、敵との駆け引きどころか、戦そのものを知らないであろう彼女が、平家の罠の可能性を口にしたのだから、その洞察力は、感嘆に値するというものだ。
(それとも、それは龍神の神子の力ってやつかな?)
そんなことを考えつつ、ヒノエは今この場で決定権を持つ九郎に問う。
「平家の陣が偽物だとしたら、このまま攻め込む源氏は、まんまと罠にハマって敵の思う壷ってことになるね。で? どうするんだい?」
いつまでもここで話しているのは、時間の無駄だ。
地の利があちらにあるのは事実だし、仕掛けるならば、闇が味方する夜の間に片を付けなくてはいけない。
「オレもさ、すぐに攻めこむより、敵陣の様子を調べてからのほうがいいと思うなぁ、なんて。少人数で行って急いで戻れば、夜のうちに攻めるにしたって充分間に合うしさ」
それまで黙って皆のやりとりを聞いていた景時が口を開くと、九郎もようやく頷いた。
「……わかった。攻撃を仕掛けるのは、あちらの陣を偵察してからにする。だが、俺はここを離れるわけにはいかない」
「うん、そうだね。オレの隊だけ連れて行くよ」
「頼んだぞ」
偵察により、山ノ口の平家の陣が囮だと知った源氏は、本当の陣がある鹿野口目指して進軍した。
◇ ◇ ◇
火攻めにより散り散りになった兵を回収しつつ鹿野口から引き上げてきた源氏の軍は、隊列を整え、怪我人の手当をすべく、三草川の近くでその進行を止めた。
鹿野口に待ち構えていたのは、平経正だった。
ヒノエは平家の公達の多くと面識がある。それは清盛が、時に後白河院の供として、またある時は一族を引き連れて、幾度も熊野を参詣していたからだ。
中でも経正の弟は一時期熊野で暮らしていたこともあり、その為経正とも互いをよく見知っていた。
ここ何年かは彼らとも顔を合わせることがなかったとはいえ、経正は会えばすぐにヒノエのことに気付くに違いない。
今はまだ、例え個人的な行動とはいえ『熊野別当』が源氏に荷担していることを平家に知られることは避けたい。
混戦の最中ならば、後からいくらでも言い逃れ出来るだろう。しかし、真っ向から向き合い話し合っている場では、そうはいかない。
ヒノエは、九郎や望美たちが彼と対峙する中、人目につきにくい後方へと下がってその場をやり過ごした。
川原からさほど離れてはいない平地で篝火を焚き、手の空いている者が弁慶の指示に従って怪我人の手当などに忙しく動き回っている。
怪我らしい怪我もなかったヒノエは、口うるさい薬師に見つかって手伝いに駆り出されるのを避けるべく、荷の陰に身を潜めるようにして腰を下ろしていた。
結局、今宵の戦は平家と源氏が互いに兵を退くかたちで幕を下ろした。
双方痛み分けと言えなくもないが、平家の罠を見破ってなお、負傷した兵の数は源氏の方が多いだろう。
山ノ口に囮の陣をしいただけでなく、鹿野口へと進路を変えた源氏軍にすかさず火矢を放って隊列を分断した将の判断は見事なものだった。
(還内府、か……)
あの場に姿が見えなかったのは、源氏が到着するよりも先に移動したということか。
それともどこかに身を潜めて、こちらの様子を窺っていたのだろうか。
いずれにしても、今の平家を率いているのが今日の策を立てるような男であるならば、やはり侮れない、と改めて思い知る戦となった。
ふとヒノエの耳に譲のひどく慌てた声が届き、意識をそちらに向けた。
見れば血相を変えた譲が、周囲を見渡しては「先輩っ!」と叫んで望美を探している。
荷陰から立ち上がると、こちらに気付いた譲は足早に近づいて来た。
「ヒノエ、先輩を見なかったか!?」
「望美なら、さっきまで朔ちゃんと一緒にいただろ?」
ほんの少し前に見かけた望美の様子を思い描く。
少し疲れた顔をしていたが、朔と何事か話しながら歩いていたはずだ。
戦いの最中は、望美と朔は大抵一緒にいた。いるようにさせていた、という方が正しいだろうか。
二人とも戦えないわけではなかったが、望美たちをなるべく危険に晒したくはなかったし、皆で守る為には、彼女たちが共にいてくれたほうが、より効率的だったからだ。
望美の剣の腕前は、そこらの男にひけをとらない。
こちらの世界に来るまで剣など持ったこともないと言うわりに、舞い散る花びらを空中で断ち切る『花断ち』という極意を会得しているのは、彼女の努力の賜物なのだろう。
しかし、ひとつ。望美の剣には、致命的な欠点があった。
怨霊相手には迷いなく剣を振るう望美だが、人を相手にする時、どうしても一瞬躊躇してしまうのだ。
稽古ならいざ知らず、戦場では一瞬の隙が命に関わる。
先刻平家の陣幕内に斬り込んだ時も、傍らにいてヒヤリとする場面が幾度かあった。
「それがいないんだっ」
「いないって」
話す間も惜しいというように、知らないならいいっと譲は再び周囲を見回しながら足早に離れて行く。
あの様子では、少なくとも朔や白龍には既に訊いてきたのだろう。
いったいどこへ行ったのか。
いくら望美が好奇心旺盛でも、こんな時にあちこち見て回っているはずもない。
(ひとりになりたくなったってところかな?)
そんなことを考えながら、ヒノエも望美を探し始めた。
ヒノエの知る限り、望美が人を斬ったのは今日が二度目だ。
一度目は春の京。大堰川の川縁で、賊に襲われた時。
あの時初めて生身の人間を斬った望美は、明らかに動揺していた。
皆から離れて、泣きそうな顔で川縁にしゃがみこんだ望美を慰めようとして近づき、ふいに立ち上がった彼女の横顔に目を奪われた。
望美はどちらかといえば整った顔立ちだが、綺麗というよりも可愛らしい少女だ。
けれど、あの日見た、前を見据える横顔は、今まで出逢ったどの女よりも綺麗だと思った。
「望美っ!」
林へと入り、その名を呼ぶ。しかし、答える声はなく、ヒノエはそのまま歩を進めた。
進軍中、火攻めに遭った時の望美の様子が思い出される。
燃え広がっていく炎に怯えた顔を晒しながら、仲間を見捨てるなんてできないと、弁慶に訴えていた望美。
軍師として、後続の部隊を見捨てでも前に進み、全滅を避けるという弁慶の判断はまっとうなものだった。
しかし、彼女にはそれが理解できなかったのか、わかっていても認めたくなかったのか、譲やリズヴァーンが、なかば引きずるようにして鹿野口を目指した。
戦場に身をおけば、感傷に引きずられてはいけない場面というものが多々ある。
三草山で味方を見捨てて進んだことも、平家の兵の命を奪ったことも、望美の中では仕方ないでは済ませられないものだったのだろう。
だからといって、まだ敵の本拠地が近いこんな場所で、隊列を離れるなど考え無しとしか言いようがない。
平家が兵を退いたとはいえ、まだ残っている者や怨霊がいないとも限らないし、骸からあれこれ奪う目的の盗賊の類が居てもおかしくはない。
(そんなことも分らない神子姫サマじゃないだろうに)
杞憂であってくれ、と思う。
見あたらなかっただけで、望美はちゃんと源氏の隊列の中にいたのだと思いたい。
けれど──。
胸騒ぎを覚えて徐々に歩を早めていく。
(無事でいてくれよ、望美)
林を抜け、川縁の惨状に足を止めたヒノエの耳に、男の声が響いた。
「源氏の神子、覚悟っ!」
木立の奥から響いたその声に、ヒノエは弾かれたように駆けだした。