人魚の足跡

「朔殿もそろそろ休んだほうがいいですよ。望美さんには、僕たちがついていますから」
弁慶の言葉に、朔は「もう少しだけ」と横たわる望美を気遣うように見つめて答えた。
勝浦の宿。
夕餉の席で熱があるのを将臣に指摘された望美は、湯浴みしないで寝るのは嫌だと駄々をこねつつも、皆に諫められて渋々寝所へと向かった。
床に就く前に飲まされた薬湯が効いたのか、望美はほどなく眠りに落ちたものの、夜が更けるにつれ熱が上がってきたのか、今は幾分呼吸が苦しげに見える。
その様子を心配そうに見つめる朔の横顔に、ヒノエは「大丈夫だよ」と殊更に軽い調子で言って、向かいに座る弁慶を顎で指した。
「胡散臭く見えても、こいつ、薬師としての腕だけは確かだからさ」
「誰が、胡散臭いんですか?」
「あんた以外に誰がいるんだよ」
望美の脈を診ていた弁慶は、彼女の手首を離すとそっと上掛けを掛け直し、大仰に溜息をついて「君には言われたくありませんね」と肩を竦める。
そんな二人のやり取りに、ようやく瞳を和ませた朔は、小さな笑いを漏らした。
「望美さんは大丈夫ですよ」
「でも」
「朔ちゃんまで寝込んじまったら、元も子もないからさ。ここはオレたちに任せて。ね?」
「そうですよ。これ以上、僕の仕事を増やさないでくださいね」
二人がかりの説得に、朔はもう一度望美に視線を落として、息を吐いた。
朔とて、望美同様疲れが溜まっているはずだ。
勝浦に足止めされてからは各々がゆるりとした時間を過ごしてはいたものの、本来ならばどこかの尼寺で写経や読経をして過ごしていたはずの彼女にとっても、ここまでの日程は強行だったに違いない。
「……そうね。では、望美をお願いします」
朔はそう言うと、まるで手の掛かる妹を持つ姉のような顔で頭を下げ、「おやすみなさい」と部屋を出て行った。
彼女の背中を見送って、数瞬。
ヒノエは、馴染みの薬師を胡乱げな目つきで見つめた。
「……おい。ホントに望美は大丈夫なんだろうな?」
「おや、腕は確かだと思ってくれているのでしょう?」
弁慶は、望美の額の手ぬぐいをとり、手元の桶の水の中で泳がせて絞ると、再び彼女の額にそれを乗せた。
「あれは朔ちゃんを」
「大丈夫ですよ。多分今までの疲れが出たんでしょうね」
ヒノエに最後まで言わせることなく、弁慶は薬師の顔つきで答える。
九郎たちだけなら、京から熊野まで移動する時は陸路をとっても半月強あれば事足りる。その道のりに今回20日以上かかったのは、旅慣れない望美たちを気遣っての行程だったからだ。
それでも、女の身で時折獣道と変わらないような山道を行く旅は体力的にきつかったはずで、そのうえ望美は、朝に夕に剣の稽古をかかすこともなかった。疲れが溜まって当然だ。
ヒノエは、眠る望美を見つめながら、彼女が剣を振るう姿を思い描く。
ただ一人で、一心不乱に剣を振り下ろす姿も。
九郎やリズヴァーンを相手に、幾度となく斬り結ぶ姿も。
およそ手を抜くということを知らないような愚直さは、いつも好ましく映った。
彼女の一生懸命さとは裏腹に、体格の割に大きな剣を扱う様は佳麗な剣舞のようで、ヒノエは望美の稽古を見るのが好きだった。
「頑張り屋さんなのは長所だけれど……望美さんの場合は、頑張りすぎですね」
「頑張り屋、ねぇ。オレには、危なっかしく見えるだけだけど?」
頑張り屋といえば、聞こえはいい。
けれど、望美のそれは少し違っているように思う。
なにが、というのはよくわからない。
これまでの言動で、彼女が元来努力家で責任感が強いというのは感じていた。
しかしそういった気性を考慮しても、出会ったばかりの頃と違って、今の望美には余裕というものがないように思える。
それは彼女の剣にも表れており、近頃はいつまでも稽古をやめない望美を、周囲が制するほどだ。
異世界からいきなり連れてこられ、龍神の神子として戦の真っ直中に放り込まれた彼女に、元々余裕などあるはずもないと言えばそれまでだが、三草山の戦を経て以来、まるで何かに急き立てられているのではと思える風情で、望美は弱音ひとつ吐かずここまで来た。
必死さやひたむきさは必要ではあるけれど、張りつめ過ぎた糸は、ある日ぷつりと切れてしまう。
ヒノエは、近頃の望美の様子にどこか危ういものを感じていた。
「ならば君が、力を貸してあげればいいでしょう?」
「貸してるじゃねぇか」
仮にも熊野別当という立場の人間が、『龍神の神子に仕える八葉』という役目につき、熊野を長く離れ、源氏に力を貸しているのだ。
『龍神の神子』がなかなかに興味深い女だという面白みがなければ、情報を得る為の手段としては割にあわない八葉の役目など、とっくに放り出していた。
しかし、今、弁慶が口にした『力』とは、そういう意味ではないとヒノエも気付いていた。
「熊野は……動きますか?」
気付きながら答えないヒノエに、弁慶は今度ははっきりとそれを口にする。
舌打ちしたい心地で、ヒノエは望美に視線を落とした。
今、この場所でそう訊いてくるのも、この男の計算のうちに違いない。
弁慶は再び望美の額の手ぬぐいを手元の桶で泳がせながら、眠っているから大丈夫ですよと笑った。
「言っとくけど」
あぐらの上で頬杖をつきながら、少しだけ声音を抑えて、ヒノエは続けた。
「オレは女ひとりのために熊野を動かすほど、愚か者じゃないつもりだぜ?」
「でしょうね。ふふ、君がこんなに真面目に八葉の勤めを果たすなんて、正直意外でしたからね。それ以上を期待していないといえば、嘘になりますが」
弁慶が、望美の額に濡れてはりついた前髪を除けてやってから、手ぬぐいをのせる様を見つめながら、ヒノエはフンと鼻を鳴らした。
「でも今は、僕たちと行動を共にしている、それだけで充分ですよ」
「今は、ね。あんたはどうなんだよ。あんたなら、熊野を動かす気になるって?」
「そうですねぇ。お断りするでしょうね。可愛らしいお嬢さんのお願いならばぜひとも聞いて差し上げたいところですが……今の源氏では、危なくて味方などできません」
さらりと言ってのける様に、思わず唖然としてしまう。
これが、仮にも源氏の軍師を務める男の言葉だろうか。
「だからあんたは信用ならないっつうんだよ」
苦しいのか、身じろいだ望美の額から手ぬぐいが落ちた。
ヒノエは手を伸ばすと、それをたたみ直して額にのせてやる。
「将臣くんも」
「将臣がなんだよ?」
「……いえ。君のように、こちらにいつも居てくれればいいのにと思っただけですよ」
「将臣、ねぇ」
望美と同じ歳の──今は歳上となったと聞いたが──幼馴染みの男。
初めて会ったのは、春の京だった。
用事があるのだと言って、望美や弟である譲を置いてどこかに行ってしまった将臣を、ヒノエはずいぶんと気ままな男だと思っていた。
熊野で再び合流した将臣は、連れが居るからと宿までは共にしていないが、およそ日中はヒノエたちと共に過ごしていた。
夕餉の席で、望美の頭を引き寄せ額を合わせた姿を思い出し、思わず舌打ちしてしまう。
「ヒノエ?」
「あんなヤツ一人いなかったところで、どうってことないだろ」
「将臣くんは、僕たちと同じ八葉ですよ。八葉は、全員揃っているにこしたことはありません」
龍神の神子と八葉。
八葉は龍神の神子を守るのが『役目』であり、神子と八葉は一緒にいるのが『当たり前』だと白龍は言う。
実際いくつか残る白龍の神子の伝承でも、八葉は常に龍神の神子に付き従っていたらしい。
しかし、八葉が欠けていても望美が怨霊を封印するのに支障があるわけでもなく、彼女を守る人手は八葉以外にも足りている以上、八葉が──ヒノエ自身が望美の傍を離れる日が来たところで問題はないと考えていた。
今ここに居るのは、源氏の動向を探る為。そして、あわよくば『熊野別当の妻に相応しい女』を手に入れる為だ。
「さて、ではヒノエ、望美さんをお願いしますね」
「は?」
弁慶は桶を持って立ち上がると、それをヒノエの隣に置いた。
「後で様子を見に来ます。厨で薬湯を煎じていますから、なにかあれば呼びに来てください」
「おい、待てよ。オレはこれから出掛け」
「いいんですか?」
「……なにがだよ?」
いいも悪いもない。
熊野に戻っている以上、ヒノエにもやるべき仕事が多々あった。
熊野川が常になく氾濫し、本宮に行くこともできないという異常事態についても、原因を調べなければならない。
熊野別当であるという身分を隠しているヒノエは、望美たちの手前、昼間におおっぴらに動くことが出来ない分、皆が寝静まってから、それらをこなしている。
今日もこれから宿を抜け出して、烏の報告を聞き、然るべき指示を出すつもりでいた。
「白龍に看病は無理だとしても、九郎や景時だって望美さんのことを気に掛けていますし、リズ先生や敦盛くんだって言うまでもないでしょう」
立ち上がった弁慶は、ヒノエを見下ろしながら言葉を続ける。
「譲くんなら、言われるまでもなく望美さんの傍でつきっきりでお世話をしてくれるでしょうし」
譲は真っ先に看病を申し出た。
それを「今夜は僕がついているし、人の気配が多いと病人が休まりませんから」とやんわりと断ったのは弁慶自身に他ならない。
ヒノエがここに居たのは、弁慶に薬湯を持ってくるように言われたからで、その後に朔が様子を見に来て今に至る。
「将臣くんでさえ、今日はこちらに泊まっているんですよ?」
いつもなら夕餉を済ませるとすぐに自分の宿へと帰っていく将臣も、今日はこちらに泊まっている。本人がそうは言わなくとも、望美を気に掛けてのことだろう。
将臣は何も言わない。
それでも、彼が望美を幼馴染み以上の感情で大切にしていることは確かだ。
望美にしても、恋愛感情とまではいかないまでも、八葉の中で誰よりも頼りに思っているのは将臣に違いない。
熊野で将臣と再会した時、彼を見つけた望美は、まるで迷子の子供が親を見つけたように、まっすぐその背に駆け寄って行った。
あの時のはしゃいだ声音と安堵の色を浮かべた瞳に、彼女が将臣の不在をどれほど不安に感じているかを見た気がした。
「……だから?」
こんな風に、わざわざ挙げ連ねる軍師の思惑など知れているから。
さざめく心を宥めながら、ヒノエは涼しい顔で先を促した。
己が熊野別当だったら水軍を参戦させることはない、と言ったのは弁慶だ。
その男が、わざわざこんな言い回しで焚き付けてくる目的など、ひとつしか考えられない。
「言ったはずだぜ? オレは女ひとりのために、熊野を動かしたりしない」
望美のことは、欲しいと思う。
賢く、勇気もあって、綺麗だ。そこらの女では考えられないほど、肝が据わっているのも好ましい。
熊野別当の妻に迎えるなら、こんな女がいいと思う。
守られるだけでなく、並び立って進んでいける女。彼女にはそれだけの資質がある。
でも、その彼女の為に熊野の未来を賭けるのは、本末転倒でしかない。
「ふふ、僕も言ったはずですよ? 今は一緒に行動してくれているだけで充分です。そういうことではなく」
そこまで言って言葉を切った弁慶は、揶揄するように瞳を細めた。
「可愛い甥っ子を思ってのことですよ。小さい頃は素直ないい子だったのに、どこでどう間違ったのか」
「それはアンタがっ」
荒げかけた声は、目の端に映った望美の身じろぎに制された。
「病人の枕もとでは、静かにしましょうね」
まるで幼子にでも言って聞かせるような口調が面白くない。それでも、これ以上ムキになって何か言うのも子供じみているように思え、ヒノエは話を元に戻した。
「……とにかく。オレは出掛けるんだから他のヤツを呼んで来いよ」
「わかりました。では、先に薬草を煎じている鍋を見てきますから、それまでもう少しの間、ここをお願いできますか?」
「ああ」
部屋を出て行く弁慶を見送ったヒノエは溜息をつくと、望美の額の手ぬぐいを取り、首筋に滲む汗を拭いてやってから、桶の中でそれを泳がせた。
「ここに居たいのは山々なんだけど、ね」
額に手ぬぐいを置いてやる。
望美のことは心配だし、傍についていてやりたい。
しかし、自分は八葉である前に、熊野別当だ。
そうでなくとも近頃は不在がちで、仲間にかけている負担も大きい。熊野にいる間に、出来うる限りのことを片付けなくてはいけない。
「……め、なさ」
望美は、浅い呼吸で身じろぐと何事かを呟いた。
こんなことが前にもあった、と思う。
あれは、望美が三草山で怪我をした後のことだ。
敵に斬られた傷が元で熱を出した時も、彼女はこんな風にうわごとを繰り返した。
ごめんなさい、と。
乾いた口唇から小さく小さく紡がれる、謝罪の言葉。
「なにを謝っているんだい? 姫君」
ヒノエは熱で上気した望美の頬を撫でながら、その眦から滑る涙を指先でそっと拭った。 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18
  • URLをコピーしました!