「人魚の姫君は、なんで自分が王子を助けた姫だと、伝えなかったんだろうね」
お伽噺が終わり、数瞬の沈黙の後。
涙ぐむ朔の隣で、ヒノエは溜息混じりにそう言って、望美を見つめた。
「うーん、言いたくても言えなかったっていうのもあると思う。声がなかったんだし」
「でもさ、伝える気があったなら、どうにかできたと思うけどな」
それは望美も同じように考えたことがあった。
どうして人魚姫は、王子様にどうにかして伝えなかったのだろうか、と。
文字で伝える方法もあっただろうし、文字がわからなかったとしても、手振りや身振りで何か伝えることもできたはずだ。けれど、人魚姫はただ見つめるばかりで、何ひとつ伝えることなく、海の泡になって消えてしまう。
「怖かったのかも……しれないね」
人魚姫が抱えた秘密。
声と引き替えに手に入れた足は人魚姫を人間の姿にしたけれど、慣れない陸の暮らしで彼女は何を思っただろう。人間と人魚の生活の違いに、戸惑いはしなかっただろうか。人魚という人外の者であることを、大切な人に知られたくないと怯えはしなかったか。
「自分が人魚だって、王子様に知られたくなかったのかもしれないよ」
「でも、神子。人魚姫が人魚じゃなかったら、王子を海で助けることはできなかったのに」
白龍は、わからないと首を傾げる。
朔は袖でそっと涙を拭いながら、そうねと呟いた。
「例え命の恩人でも、人外の者と知られたら嫌われてしまうかもしれないもの。それが、怖かったのかもしれないわ」
「うん、わからないけどね」
「ふーん……。望美なら、どうする?」
「え?」
「だから、お前が本当は人魚だったら。王子に伝えるかい?」
ヒノエの問いを受けて、望美は考え込んでしまう。
もしも、自分が声をなくした人魚ならば。
知られたら、嫌われてしまうかもしれない秘密。
想ってもらえないならば、死んでいくしかない運命。
考えてみても、そんな恋をしたことのない望美には、想像もできないことだった。
「私は……わからないな。泡になって消えちゃってもいいと思うくらい、誰かを好きになったことなんてないし」
「お前の世界に、想いを交わしたヤツはいなかったのかい?」
「私? ないない」
望美は即座に否定する。
誰と誰がつきあっているようだ、とか、片想いしているらしい、とか同級生とのおしゃべりはそんな話題も多かった。
望美自身は、ひとりの人を特別に想ったことなど一度もなかったから、そんな話になる度になんとなく話題についていけなかったり、恋心を知る友達を羨ましく感じることがしばしばあった。
「将臣くんにもよく『幼馴染み離れしないと彼氏ができないぞ』って言われたんだけどね」
将臣だけではない。
有川家の兄弟と望美がただの幼馴染みでしかないと知る友人たちに「それじゃあ、いつまでたっても彼氏ができないよ?」と嘆くように言われたこともある。
将臣と望美は、つきあっているのかと訊かれることが多かった。
中学や高校生にもなってつきあっていない男女が一緒に登校するのは、幼馴染みとはいえ珍しいということは、本人たちも自覚していた。けれど、隣同士の家から同じ場所に向かうのに別々に行くほうがよほど不自然で、周囲にどう思われるかなどということはあまり気に止めていなかった。
傍目にはやはり『ただの幼馴染み』には映らなかったようで、恋の話になれば「望美には有川くんがいるもんね」と言われたことは一度や二度ではない。
「それはさ、お前の世界にオレがいなかったからだよ」
「は?」
「運命の相手が姫君の世界にいなかったから、お前はそんな想いを知らずにいたんじゃない?」
またか、と思いながら、望美はくすくすと笑った。
ヒノエは、よくこんな軽口をたたいた。女の子の扱いに慣れていそうな彼は、挨拶を言うのと同じくらいの調子で、口説くようなことを口にする。
冗談だとわかってはいても、ついドキドキしてしまう。
「もっとも、オレなら可愛い姫君を、海の泡になんてさせないけどね」
「また、ヒノエくんってば」
頬が火照るのを感じながら、望美はいつものように笑ってかわそうとした。
「姫君の目に、この赤い糸が見えないのが残念だよ」
「ヒノエくんには見えるの?」
「見えるよ。ほら、ここにある」
ヒノエは艶めいた視線をはずことなく望美の左手をとると、小指にくちづけた。
望美は慌ててその手を引っ込めると、精一杯の平静を保ちながら、私には見えないもん、と言って朔を見た。
「ね? 朔」
「そうね。ヒノエ殿、あまりからかうと、せっかく下がった望美の熱がまた上がってしまうわ」
「からかう? 心外だな。ね、望美。オレが王子なら、お前が人魚だってなんだってかまいやしないよ?」
ヒノエの言葉にギクリとする。
『人魚だって、なんだって』
そうだろうか。一度は自分を見殺しにした相手だと知っても、彼はそんな風に笑ってくれるだろうか。
痛む胸をきゅっと押さえながら、望美は曖昧に微笑んだ。
「お、なんだなんだ。狭いトコに集まってんなぁ」
「将臣くん」
「ほらよ、見舞いだ」
放って寄越した何かを、咄嗟に両手で受け止める。それは、望美の握り拳ほどの桃だった。
「ありがとう」
「さすがにアイスはないからな」
「あはは、食べたいとか思ってた」
望美が夏に風邪をひくと、将臣や譲はアイスを見舞いに持ってくることが多かった。普段なら百円アイスしか食べない将臣たちが、そういう時は駅前のサーティーワンで買ってきてくれるのが、いつもとても嬉しかった。
「神子。あいすって、なに?」
「んーと、蜂蜜プリンみたいに……それよりもっとかな、甘いお菓子でね。氷みたいに冷たいの。夏はよく食べるんだよ」
「よっく言うぜ。お前は一年中食ってたじゃねえか」
将臣は呆れたように言いながら、入り口の柱に寄り掛かるようにして腰を下ろした。
「むぅ、だって好きなんだもん」
「あいす、ねぇ」
ヒノエが考え込むように顎を撫でる。
「お前なら用意出来るんじゃねえか? ヒノエ」
思いもよらない将臣の発言に、望美は笑いだした。
これまで思わぬ果物や菓子を持ってきてくれた彼でも、さすがにこの時期にそんな物は無理に決まっている。何しろ、この世界には冷蔵庫がないのだ。井戸や川で冷やすことは出来ても、凍らせることが出来るものなどあるはずがない。
「将臣くん。いくらなんでもこの時期に」
「将臣はこっちに来てから、食べたことがあるのかい?」
「アイスじゃないけどな。蜂蜜が手に入るんなら、氷もイケるんじゃねえか?」
視線を交わす将臣とヒノエの言葉の意味がわからず、望美は首を傾げる。
この暑い季節に、氷を手に入れることなど可能なのだろうか。
「ふふ、どうかな」
「あ、景時さんは? 景時さんの陰陽術で、お水を凍らせて貰えば」
「望美。あの兄上に、そんなことが出来ると思う?」
溜息混じりの朔に、どうやらそれは無理らしいと悟って望美は口を噤んだ。
「とりあえず今日のところは、これで勘弁してもらえるかな? 姫君」
ヒノエはそう言って、望美の前で懐紙を開いて見せる。そこには、甘い匂いのする見たことのない菓子が包まれていた。
「わ、おいしそう。ありがとう、ヒノエくん」
「菓子でもなんでも、食えるんだったらとりあえず大丈夫そうだな」
途端に目を輝かせた望美に苦笑して、将臣は「集まってなにしてたんだ?」と尋ねた。
「何って、話。人魚姫の」
「人魚姫? 童話のか?」
「うん。もう知っているのはだいたい話しちゃって」
望美が言うと、将臣は吹き出して笑った。
「そこまでネタが尽きるほど話してるってか?」
「はは、まぁね」
「どういう意味だい?」
「こいつは人魚姫の話が嫌いなんだよ、な? 望美」
「ん、まぁ。話すのも嫌いってほどじゃないけど」
大抵が『王子様とお姫様は、末永く幸せに暮らしましたとさ。おしまい』となる童話の中で、人魚姫がひとりぼっちで泡になって終わってしまう物語が、望美は好きでなかった。
初めてこの物語を聞いたのは、小学校にあがる前くらいの頃だったろうか。
あの頃はまだ将臣たちの祖母である菫がいて、譲を交えた三人で彼女によくお伽噺を聞かせて貰った。
「王子が嫌いなんだよな?お前、あん時……」
「言っちゃ駄目!」
望美は慌てて口止めする。
今考えれば、呆れて笑ってしまうようなことだけれど。
人に知られるのは少し恥ずかしくて、内緒!と言って睨むと、幼馴染みは仕方なさそうに笑いながら頷いた。