ヒノエが先に立って、望美の寝所へと向かう。
この館は、皆には『知り合いが今は使っていない館を、宿代わりに時々借りている』と言ってあるが、実のところ藤原の所有する館だ。
那智での祭祀の際に使う、というのは名目で、昔は湛快がここに女を囲っていたことは、弁慶も知るところだろう。
「一日寝ていただけで、もう退屈かい?」
ヒノエは笑み含んだ声で、つまらなそうに後ろについてくる望美を振り返った。
「退屈っていうか、暑いっていうか」
「はは、まぁ、朔ちゃんと使っていた所よりは暑いかもね」
この屋敷で一番涼しく過ごせるのは、望美と朔が寝所に使っている対だ。
熱を出すまで望美は朔と同じ場所で寝起きしていたが、風邪がうつるといけないからと一昨日から寝所を移した。けして広いとはいえないが庭に面しておらず、病人が静かに休むには最適な場所に思えたが、彼女にはその静かさが退屈なようだ。
蔀戸を開け放ってやる間、望美は手持ち無沙汰な表情で立っている。着替えて起き出してしまえば、再び床に就く気にもなれないのだろう。
座りなよと促して、ヒノエもすぐ近くに腰を下ろした。
「ねぇ、ヒノエくん。熊野川は、まだ氾濫したままなの?」
「ああ。待ってりゃ、そのうちに収まると思ったんだけどね」
「怨霊の……せいじゃないかな?」
普通は川が増水しても、雨がやんでいれば数日で水はひくものだ。ところが、烏の報告から考えて、かれこれ半月は川向こうに渡ることができない状態が続いているらしい。そもそも山の上でも、それほどの大雨は降っておらず、怪異としか言えない状況に、ヒノエも怨霊や呪詛の可能性を考えて調べているところだった。
「なんで、そう思うんだい?」
「なんでって……。えーと、ほら、熊野に来てから夕立くらいはあったけど、そんなに雨が降ってるわけじゃないし」
望美の言葉は至極まっとうなもので、密かに龍神の神子の力で何かわかるのかと期待したヒノエには、拍子抜けのものだった。
「ま、そっちはオレも調べてるからさ。そんなことより、オレは元気になった姫君とふたりで、市をそぞろ歩きしたいかな」
「うん、今度はヒノエくんも一緒に行こうね」
望美は楽しげに頷いた。
(オレは「ふたりで」って言ったんだけどね、姫君)
「ヒノエくんも」ということは、他にもいる想定に違いない。
ヒノエは軽く息をついて、天井を仰いだ。
望美は色恋沙汰に疎いのか、そもそも八葉を男として見ていないのか、あるいはその両方なのか。いくら口説いてみても、すべて冗談にされてしまう。時々は頬をうっすらと染めて見せても、やはり少しも本気にはしてくれない。
「ねぇ、望美。風邪を早く治す方法、教えてやろうか?」
「なにかあるの?」
ヒノエは秘策を伝える素振りで、その耳元に囁いた。
「オレにうつせばいいんだよ」
「ヒノエくんに?」
「人にうつせば治るって言うじゃん。くちづけてうつせば確実じゃない?」
望美は、それじゃ駄目だよと声を上げて笑った。
「だって、夏風邪は馬鹿がひくんだもん。ヒノエくんにはうつらないから、治らないよ」
「賢い姫君がひくんならオレにもうつるよ。試してみれば?」
指先で彼女の口唇をなぞっても、薄紅のそれは笑みを形づくるばかりだ。
もちろんヒノエ自身本気で言っているわけではなく、戯れの言葉を返してみせる望美とのやりとりを、楽しんでいるにすぎない。
「ふふ、じゃあ今度ひくまでに考えとくよ。もう治りかけだし、それに」
望美はそこで言葉を切ると、悪戯っぽく小首を傾げて笑った。
「私、馬に蹴られて死にたくないし」
「え?」
「夜、こっそり逢うような人がいるんでしょう?」
とっておきの秘密を見つけた子供のように、知ってるよ、と望美は笑う。
夜歩きから帰ると、縁に出て月を見たり、涼んだりしている望美に会うことが多かった。どこに行っていたのかとも問わない彼女は、ヒノエの外出を、そう解釈していたのだろう。
ひとときの恋を愉しみに出掛けることもあるにはあるが、熊野に来てからは烏の報告を聞き、別当の役目を果たしに出ることのほうが多かった。そうして帰ると、縁にいる望美は「おかえり」と笑うのだ。
始めこそそれは偶然だろうと思っていたが、近頃は、密かに望美が自分を待っているのではと考え、邸に戻るのが楽しみになっていた。
「あれは……。ふふ、妬ける?」
「……? なんで?」
「なんで、か」
ヒノエは自分の考えていたことに、苦笑してしまう。
妬けるどころか、そういう前提すらないらしい。
「え、なに? なんで笑うの?」
「……折らばとがむる、人やあるとて」
「ヒノエくん?」
清らかなこの姫君の口唇を奪えば、少しは意識してくれるのだろうか。
そっと彼女の頤に指をかけて上向かせ、顔を寄せていこうとした、その時。
「望美。具合はどう?」
「神子、熱は下がったって聞いたよ」
朔と白龍の声に、ヒノエは頤から指先を離し、ぐしゃりと緋色の髪をかきあげた。
「弁慶殿が、あなたが退屈しているからって。具合が悪いなら、ひとりで静かに寝ていたほうがいいと思って遠慮していたんだけれど」
どうやら二人をこちらに寄越したのは、弁慶らしい。
けしかけるようなことを言う割に、手を出すなと釘を刺したり、こんな風に邪魔をする男の意地の悪さに、ヒノエは内心舌打ちをした。
「全然平気。熱も下がったし、剣の稽古をしたいくらい」
「あら、そんなことをしてまた熱が出るようなら、明日の温泉は中止ね」
「温泉?」
「神子が元気になる温泉があるって、弁慶が言ってたよ」
白龍はにこにことそう告げて、望美に寄り添うように座った。幼子の姿だった時には気にも止めなかったが、今の姿になってまで無邪気に望美に触れる様は、ひどく疎ましく映る。
そんなヒノエの心中など知らず、望美は先ほどまでのやり取りなどすっかり忘れたように、温泉かぁと頬を綻ばせていた。
「ねえ、神子。また神子の世界の話を聞かせて?」
「話? うーん、もうだいたい話しちゃったような」
「この前の『しんでれら』も面白かった」
望美の語る物語はどの話も、珍しかったり、聞いたことのないようなことばかりだった。
お伽話だけでなく、望美の世界がどういう世界だったのか、彼女が普段どんな風に過ごしていたのか、彼女にとってはなんでもないような些細な話が、ヒノエにとっては興味深いことにあふれていた。
「そう?」
「うん。野菜を馬車に変える力は、神力みたいで面白かった」
「私もまた聞きたいわ」
白龍と朔とに期待いっぱいの瞳で見つめられ、望美は困ったように頬を指でかいてから、ああ、あった、と呟いた。
「え、と……。深い深い海の底に、海の王国がありました。そこには」
彼女が語り出した物語は、人間に心を寄せた人魚姫の、哀しい恋の物語だった。