地面が陽の光に晒されることのない木立の中は、涼やかな風が抜けている。
望美は海に行きたがったが、将臣は滝を見に行こうと提案した。
砂浜の照り返しは暑さを倍増し、病み上がりの身には少々きついだろうと考えてのことだったが、それで正解だったようだ。
「気持ちいいねぇ」
滝がよく見える視界の開けた場所まで来ると、望美は歓声をあげた。霧のように舞う飛沫に心地よさそうに目を閉じて、マイナスイオンがいっぱいだねと笑う。
「先輩、足もとが滑りやすいですから、気をつけてくださいね」
「そうだぜ、望美。あんまり身を乗り出してっと、ガキん時みたいに落ちるぞ」
「あはは、あったねぇ、そんなこと。そうだよ、私、そのせいで今でも泳げないんだよ」
有川家と春日家は、隣家同士で仲も良く、両方の家族が揃って遊びに行くことも多かった。
確か、どこかに川釣りに出掛けた時のこと。
魚がいるとはしゃいで、岩の上から水面をのぞき込んだ望美と譲は、身を乗り出し過ぎて川に落ちた。
子供の腰の高さほどの深さだったが、流れがあったのと水が冷たかったのとで、二人は溺れかけたのだ。
将臣の呼び声ですぐさま川に入った父親たちが、望美と譲を岸へと連れ帰り大事には至らなかったものの、望美はその時のことがトラウマになったのか、今でもカナヅチのままだ。
「それはお前が重いから沈むんだろ? 普通は、浮くもんだぜ?」
「ひど~い! あ、そうか。山桃摘んだのって、あの時だ」
「お、思い出したのか?」
釣りに飽きた望美たちは、川沿いを探険した。
茂みを分け入った先で山桃を見つけ摘んだまではよかったが、望美はよりによってポケットにそれを詰めた。親たちの元に戻ると、白いキュロットは赤く染まり、それを見た親たちは、彼女が怪我をしたものと思いこんで大騒ぎしたのだ。
「うん、私はポケットに入れてて……譲くんは、野球帽に入れてたんだよね」
「え? 俺ですか?」
「違うな。譲の帽子に、俺が入れてたんだよ」
「あぁっ、そうだっ! あれ気に入ってたのに!」
「んなもん、時効だろ」
山桃や、川で拾った綺麗な石や、蝉の抜け殻、よくわからない木の実。
手当たり次第に入れていた譲の帽子は、泥や木の実の汁で所々汚れ、重さで形が微妙に変形していた。
泥はともかく、山桃や木の実の汁で染まった色は落ちなくて、しばらくの間、譲は臍を曲げたままだった。
その時の怒りまで思い出したように、譲は将臣を睨み付ける。
「兄さんは子供の頃から調子がよくて、勝手ばっかりだったよな」
「ふふ、でも私と譲くんが大きい犬に追いかけられた時助けに来てくれたり、ボールで窓ガラスを割っちゃった時、代表で怒られてくれたり……そういうこともあったよね」
望美は懐かしむように、将臣と譲の顔を交互に見て、目を細めた。
中学に上がるまでは、毎日のように三人で遊んでいた。
中学の入学式の日。
初めて見た彼女の制服姿が、ひどくまぶしく見えたのを覚えている。
譲が望美のことを、『望美ちゃん』でなく『先輩』と呼ぶようになったのも、あの頃あたりからだ。
ずっと、一緒にいた。
物心ついた時から、それが当たり前だった。
だから、なんとなく、この先もずっと一緒にいるのだろうと思っていた。
時空を越えるまでは。
「お前らは、こっちに来てからもずっと一緒だったのか?」
「私と譲くん? うん、一緒だったよ。宇治川で、すぐに会えたから」
頷く望美に、譲が意外そうな声音で尋ねた。
「先輩は、俺と会うより前に、京に来ていたんじゃないんですか?」
「なん、で?」
「いえ、朔さんや白龍と一緒にいたから」
「あぁ……。譲くんに会うちょっと前に会ったんだよ。だから、半日も経たないくらい、かな」
「そうか」
それぞれの友達と過ごす時間のほうが増えていく日々の中でも、旅行でもない限り、望美と顔さえ合わせないという日は一日もなかった。
譲は時空を越えてなお、そんな日々が続いていたのかと思うと、ほんの少し妬ましい。それでも、自分が京に来たばかりの頃の、あのどうしようもなく途方に暮れた気分を二人が味わわずに済んでよかったと思う気持ちの方が、その何倍も強かった。
「あ……、うん」
「そんな顔すんなよ。よかったじゃねえか。ひとりじゃ食うにも困っただろうしな」
「そうだね」
「それにしても、望美。お前、ずいぶん剣の腕があがったな」
表情を曇らせたままの幼馴染みに内心苦笑して、将臣は話題を変えた。
「あれしかやってないのに、わかるの?」
先ほどの稽古では、ほんの数回、望美の剣を受け止めただけだ。
春に京で再会した時も、怨霊と戦う様子を目にして、短期間でよく上達したものだと感心したが、今日剣を合わせてみて、その腕を肌で感じた。
「お前よりは、場数を踏んでるからな。毎日稽古してるのか?」
「うん。リズ先生もいるし、なんだかんだ言って九郎さんもよくつきあってくれるし」
熊野で再会してからも、望美が稽古する様は幾度も目にしていた。
元々、負けず嫌いで、責任感は強い望美だ。
龍神の神子として、怨霊を封印しなければいけないという使命感のようなものが、短期間でここまで彼女を強くしたのかもしれない。
「譲くんだって、毎日稽古してるんだよ。なすのようかんさんだっけ? 弓を習ってて、すごく上達したんだから。今なら、インターハイで優勝もできちゃうんじゃない?」
「インターハイはどうでしょう。試してみたい気はしますね。それより先輩、なすのようかんではなくて、那須与一です」
眼鏡のフレームを指で押し上げながら訂正する譲の言葉に、将臣は吹き出した。
「なすのようかんって、お前、腹でも減ってんじゃないのか?」
「ちょっと間違えただけじゃない」
口唇をとがらせながらも、恥ずかしいのか望美は頬を染めている。
「どこがちょっとだよ。茄子の羊羹って」
「そんなに笑うことないでしょっ。もぉ、譲くんまで! 二人とも笑いすぎっ」
そう言いながらも、将臣と譲が笑うのにつられたように、望美も笑い出す。
「そっか。なすのよいち、那須与一さんね。うん、今度こそ覚えたよ」
それにしても。
那須与一という名に聞き覚えがあるのは、なぜだろう。
こちらの世界では教科書に載っていたような名前の人物に出くわすことが多く、那須与一もその中のひとりだろうか。
「ええ。本人がいなくて、よかったです」
「ホントだね。ねえ、将臣くんは? 誰かに習ったの?」
「あ?」
「剣術」
「ああ、俺のは剣術ってほどのもんじゃねえな。自己流で、振り回してるだけだ。実戦に出てれば、イヤでも覚えるさ」
身を守るために必要だった、それだけだ。
平家があんなことになるまでは、太刀など手にする必要はなかった。
殺さなければ、殺される。そんな中で、否応なく将臣は強くなった。
「実戦って……将臣くん、そんなに危険な場所にいるの?」
この手が多くの者を手にかけて、血に染まっているなどということは、知られたくない。
将臣は、不安そうな表情の望美の額をこづくと、「怨霊を封印してまわってる、お前ほどじゃないけどな」と笑った。
「兄さんは、今どこで何をしてるんだよ」
「どこで何って。言っただろ? 世話になった邸にいるんだよ。今ちょっとヤバイことになってるからな。それが落ち着くまでは、あっちにいるさ」
「あっちでどこだよ? 落ち着くまでって、それはいつまでかかるんだ」
「いいじゃねえか、お互い元気でやってるんだし」
「よくないだろ。兄さんがいない間に、先輩は死にかけたんだぞ」
食い下がる弟を鬱陶しく感じながら言い捨てた将臣は、その言葉に目を瞠った。
「死に、かけた?」
「へ? いつ?」
当の本人は、呆けた表情でなんのことかと首を傾げている。望美のその様子に、譲は情けない声をあげた。
「いつって先輩」
「おい、どういうことだ?」
「三草山で」
譲の言葉にようやく得心がいったように頷いた望美は、言葉の先をすくうように、大げさだよと笑った。
「死にかけたなんて言ったら、将臣くんがびっくりしちゃうよ。ちょっと斬られて怪我をしただけじゃない」
「ちょっとじゃないでしょうっ!」
「斬られた?」
「うん。でも綺麗にふさがったしもう痛くないし、平気だよ」
望美はそう言いながら、その痕を確かめるようにほんの少し袖をめくった。そこには、赤くひきつれた痛々しい傷跡が覗いていた。譲の言葉通り、ちょっとという傷ではない。
三草山で。譲はそう言った。
源氏の神子が現れたと初めて耳にしたのは、宇治川の戦いではなかったか。そして先ほど望美たちが言った、京で最初に降り立った場所も宇治川だ。
胸騒ぎを覚えながら、将臣は望美の傷跡から目をそらすことなく問う。
「怨霊に……やられたのか?」
「平家の奴らだよ。兄さんがどこで何しようと勝手だけど、そうしている間に俺や先輩は戦に出て、平家や怨霊を相手に戦ってるんだぞっ!」
「──!」
ドクンと、心臓が跳ねる。
そうだ、那須与一は、平家物語に出てきたじゃないか。那須与一は──源氏方だ。
弁慶。宇治川。三草山。そして、源氏の神子。
不安の破片は、パズルのピースのようにはまり、ひとつの結論を示した。
「譲くん。将臣くんには将臣くんの事情があるんだし」
「先輩よりも大切な事情なら、ずっとそっちに行ってろよっ」
険悪な雰囲気に困惑した望美が口を挟むと、譲は吐き捨てるように言って背を向けた。
「ちょっ、譲くん」
追いかけようとした望美が足を滑らせ、小さな悲鳴を上げる。
咄嗟に抱き寄せた腕の中で、ホッと息をついた望美は、ありがとうと呟いた。
「洒落に……ならないだろ」
この腕の中にいる望美が、源氏の神子。平家の敵である、源氏の。
「そうだね、落っこちるかと思ったよ」
将臣は、腕の中のぬくもりを確かめるように、抱きしめる腕に力をこめた。
「将臣くん?」
あの夜、薬師ですよと弁慶は笑った。
先ほどのやけに慌てた様子だったヒノエにも、これで合点が行く。
少なくともあの二人は、なにか気付いているのかもしれない。それならば、ことを急がなければいけない。
そんな風に冷静に考えている自分が、可笑しく思える。
こんなにも動揺しているのに──。
「どしたの?」
「どうしたのじゃ、ねえだろ」
「うん。将臣くんがいてくれてよかったよ」
将臣は、抱き寄せたぬくもりから身を離した。
「泳げない奴が、こんなとこから落ちるなよ?」
「ふふ、でも将臣くんがいるところでなら、どうにかなるかな」
信頼を寄せる眼差しで笑う望美は、なにも知らないのだろう。
「甘えるなっつうの」
将臣はくしゃくしゃと、濃紫の髪をかき混ぜるように撫でてから、行くぞ、と歩き出した。
「のぞみ、にんぎょひめのおうじさまは、きらい」
あれは小学校にあがる前くらいの頃だろうか。いつものように菫からお伽噺を聞いた望美は、目に涙をためながら小さな拳をキュっと握って言った。
「のぞみなら、こんなおうじさま、ぶんなぐっちゃうんだからっ!」
「ばっかだなぁ。なぐるだけじゃダメなんだぜ? ナイフでさしてころさないと、にんぎょひめはあわになってきえちゃうんだから」
物語を真に受けて泣く望美をからかうように言った将臣の言葉に、彼女はすかさず言い返した。
「いけないんだもんっ! ひとも、どうぶつも、ころしちゃいけないんだから」
こぼれそうな涙を目を大きく見開いて懸命に堪えながら言った望美は、くるりと後ろを向くと袖でグイグイと涙を拭っていた。
「望美ちゃんは、いい子ね」
祖母はあの時そう言って笑いながら、望美の頭を撫でていた。
優しくて、怒ると怖くて、けれど望美には特別甘かった祖母が星の一族だったということは譲に聞いた。
星の一族は、未来を垣間見る力を持つのだという。
ならば菫は、こんな日が来ることを知っていたのだろうか。
知っていたとしたら、どんな思いで自分たちを見守っていたのだろうか。
岩に腰を下ろしながら、膝まで水の中に入って戯れる望美と譲を見つめ、将臣は息を吐いた。
彼女の屈託のない笑顔は、子供の頃のままだ。
──先輩より大切な事情ならずっとそっちに行ってろよ
責めるような、譲の言葉。
──還内府殿
信頼を寄せる、一族の眼差し。
そして。
弟と誰よりも大切な幼馴染みとが、血の匂いと怒号が響く戦乱の中で、いつか己と対峙するであろうという事実。
「殺しちゃいけないんだよ……か」
苦い呟きは、二人の元まで届くことはなかった。