記憶の欠片 第4章 守護者の力

 売り言葉に買い言葉、だったと思う。
「絶対、あなたに玉依姫として認めさせてみせる!」などと高らかに宣言してしまった。
 珠紀の言葉を聞いた後の「ふん、それが出来たら守護者になるのを考えてやってもいいぜ?」と言った狗谷の、無理に決まっているとでも言いたげな不遜な笑みが蘇る。
 思い返すと腹がたつが、同時に寄せるのは自己嫌悪だ。
 やるべきことが見えていて、方法を見つけられないもどかしさ。頑張っているつもりだけれど、そこに近づいている実感のない心もとなさ。そんなものを抱えて自分の立ち位置さえ見失いそうなくせに、誰かに玉依姫として認めさせるだなんて、偉そうにもほどがある。
「なにしてんだろ……私……」
 珠紀は居間のテーブルに広げた教科書の上に突っ伏して、情けない気持ちと共に深く息を吐き出した。
 
 数日前。朝、登校していなかった真弘を心配して、珠紀が彼の家に行った日のこと。
 真弘と肩を並べて学校に向かう途中に頭痛を感じた珠紀は、その痛みがかつてロゴスが宝具を狙って封印域に立ち入った時に感じたものと同じに思えた。何かを知らせるような、玉依の血が呼応して起こる強烈な痛み。珠紀はその痛みに促されるままに、真弘と共に封印域のひとつへと向かった。
 頭痛は一時激しさを増したものの、目的地に近づくにつれ薄れていき、到着する頃には拍子抜けするほどにすっかり治まってしまった。
 そこは、かつて宝具のひとつ──鑑が奉じられていた社だ。宝具を失ったその地は以前ほど独特の気を放ってはいなかったが、それでもどこか張り詰めた空気を感じたのは、古びた社が長きに渡り果たしてきた役割ゆえなのかもしれない。
 念の為ふたりで社の周辺を見回っていると、またしても狗谷と顔を合わせた。
「妙な匂いを感じたから、見に来ただけだ」
 そう告げた狗谷は、「もう探すだけ無駄みたいだがな」と言いながら周囲を確かめるように見回した。
 狗谷と顔を合わせるのは、賀茂に攫われた日以来だった。あの日、沼で妖を封印した後、いつの間にか彼の姿は消えていた。
 芦屋の言っていた六人目の守護者というのは、彼のことではないのか。今日こそ本人に確かめようと、珠紀はそのまま立ち去ろうとする背中に慌てて問い掛けた。
「待って。狗谷君は……守護者なの?」
 珠紀の問いに振り向いた狗谷は、否定も肯定もしないままにじっとこちらを見つめてくる。
「はあ? なに言ってんだ? おまえ」
 訝しむように言った真弘には「えーと、玉依姫の勘です」などと曖昧な説明を返しながら、狗谷からの答えを待つ。
「だったらどうなんだ?」
 ややして口を開いた狗谷は、視線の先で不機嫌そうに目を細めた。
「鬼斬丸もない今、守護者もなにもないんじゃないか? それとも玉依の血は、鬼斬丸がなくとも生涯の忠誠でも要求するのか?」
 狗谷の問いに、珠紀は「そんなつもりは……」と呟いたきり黙り込んだ。
 そんなつもりはない。けれど、珠紀にその気がなくとも、招く結果は彼の言う通りかもしれない。
  
『せっかく鬼斬丸がなくなったのに、玉依姫が村に戻れば、守護者の方たちは役目を果たさなければならなくなるじゃないの』
  
 母の言葉が思い出される。
 それ以上何も言えなくなった珠紀に、狗谷は「いずれにしろ俺には関係ない」と言い捨てた。
 その言葉を聞いた真弘は、狗谷に好戦的な眼差しを向けながら珠紀に言った。
「万が一こいつが守護者だったとしても、こんな奴いてもいなくても関係ねーだろ」
「関係ない? はっ、俺がいなければおまえらの大事な玉依姫は、とっくに死んでたんじゃないのか?」
 嗤いながら答えた狗谷は、睨みつける真弘を冷ややかに見下ろす。
「おまえが守護者だというなら、せいぜいそいつを死なせないようにするんだな」
 言うだけ言って去ろうとする狗谷に、我慢ならないとばかりに真弘が足を踏み出してその肩に手をかけた。
 殴りあいでも始めかねない勢いに、珠紀は大急ぎでふたりの間に割って入る。
 始めこそひたすら真弘を宥めていた珠紀だったが、間に入って言葉を重ねるうちに、つい狗谷に対し噛みつくように宣言してしまった。
 玉依姫として認めさせてみせる、と。
  
 思い返して、ため息が漏れる。
 六人目の守護者。彼がそうだと確信があるわけではない。
 けれど、もしも芦屋の言う通り六人目が存在するなら、彼だろうと思う。
 なんでそう思うのかは、実のところ珠紀にもよくわからなかった。二度も助けられたからそう感じるのかもしれないし、真弘に答えた通り玉依姫の勘なのかもしれない。
 もしも狗谷が守護者だというなら、典薬寮にとっては彼も排除すべき対象なんだろうか。そうだとしたら、やはり玉依姫である自分がなんとかしなくてはいけない。
 そう考えかけた珠紀は、違う、と否定した。
 彼に対する典薬寮の出方が気になるというのも嘘ではないけれど、それよりも本当は、守護者だというなら力を貸して欲しいと思っている。だから、彼が本当に守護者なのかをはっきりさせたいのだ。
「ずるい、よね……」
 皆に守護者という役割になんて縛られないで欲しいと考えながら、結局その力をあてにしている自分がいる。彼らを守りたいと思いながら、守護者の力がなければ自分の身を護ることすらできない。
 矛盾していると思うのに、だからと言ってどうしたらいいのかよくわからない。
 ふと気配を感じて顔をあげると、テーブルに広げた教科書を踏みつけながら、掌サイズのカミがとてとてと目の前を通り過ぎるところだった。ふさふさとした毛の塊のようなそれをなんとなく目で追っていると、テーブルの縁まで行ったカミは、迷うことなくひょいと飛び降りて畳に着地し、そのまま襖をすり抜けて行ってしまった。
「どうかなさいましたか?」
 視線を上げると、盆を手に居間にやって来た美鶴と目があった。
「ううん。カミさまが……。ねえ美鶴ちゃん。気のせいかも知れないけど、最近境内とか家の中、カミさま増えてない?」
「はい。私も少し気になっていました。でも結界もございますし、力のない小さなカミ達しか入ってこられませんから」
 美鶴の言う通り、神社の周囲には、玉依の結界が張り巡らされている為、邪なカミはそれを超えて入って来ることは出来ない。
 家の中で目にするカミのほとんどは今テーブルを横切っていったような小さなカミで、居たところで害があるわけではない。それでもあまり数が増えると、うっかり踏んでしまうかもしれないなどと思いながら、もう一度カミがすり抜けていった襖を見つめた。
「紅茶でよかったですか?」
「ありがと」
 美鶴が教科書の横に小さなトレイを置いてくれるのを、ぼんやりと見つめる。
 トレイの上のマグカップからは、白い湯気があがっている。その横に添えられた、キャラメルのように紙に包まれた砂糖がふたつとスプーン。
 ふたつ。どうしよう。砂糖を見つめて考える。
 もう日付も変わっている時刻だ。こんな時間に甘い物を飲むと、太ってしまう。でも、少し甘い物が飲みたい。
 村に戻ってからは、以前にも増して気合いの入った美鶴の手料理が食卓に並び、しかもおいしいデザートまでつく。珠紀の好みをどんどん取り入れていく彼女の料理は、心もお腹も確実に満たしてくれるけれど、それゆえ近頃体重計にのるのが怖かったりする。
 しばし考えて、珠紀は砂糖をひとつだけカップに落とした。
 熱い紅茶をすするように飲むと、その熱とほのかな甘さに、ホッと心が和む。
 夜はだいぶ冷え込むようになってきたから、そろそろコタツを出そうと美鶴に言ったのは昨夜のことだ。このくらいなら季封村では寒いうちには入らない、と美鶴は笑っていたけれど、今でさえ冷え込む夜には部屋の中でも吐く息が白いというのに、真冬になったらどうなってしまうのかと本気で心配になる。
 やはり近いうちにコタツかストーブを出して貰わなければと思いつつ、珠紀は両手で包んだマグカップで暖を取った。
「まだ、お休みになられないのですか?」
 襖の前に腰を下ろした美鶴の気遣う声音に、珠紀は大丈夫と言うように微笑んで「もう少しやったら寝るよ」と答えた。
 幽霊騒動が起きようが、村で原因不明の病気が流行ろうが、学校行事は待ってくれない。定期テストは目前だ。
 明後日は土曜日。週末は朝から卓に術を習う約束になっているから、勉強は平日だけでどうにかしたい。
 親の目を考えれば、今回のテストで成績を落とすわけにはいかないというのに、今の勉強の進み具合とテストまでの日数を考えれば、どうにも時間が足りなくてため息しかでない。
 やらなければならないことは、他にもある。
 妖の封印はごく簡易なもので、なにかの拍子に破られても不思議はない程度の術だ。本当なら然るべき準備を整えて、きちんと封印すべきだ。
 けれど、もしも卓が考えた通り、村での奇妙な病気の原因が妖に魄を食べられたせいなのだとしたら、このまま完全に封じてしまえば魄を取り戻すことは出来なくなる。
 ならば封印を解けばいいかといえばそうもいかず、妖から魄を取り戻す方法もわからないし、そもそも妖と対峙した時、また守護者の力が使えないなどという事態に陥れば、今度こそ誰かが大ケガをしかねないし、命に関わるかもしれない。
 だからと言って急がなければ、魄を失った村人の肉体は、そう長くは持ち堪えることは出来ないだろう。
 毎日蔵の本をあたっているのは、これらを調べる為だ。
 そして、考えるべきは更にもうひとつ。賀茂と名乗ったあの男のことだ。
 その後まったく動きは見られないが、あの男があれで諦めたとは到底思えなかった。そう確信できるほどに、男の目に宿った憎悪は言い知れない深さがあった。
 彼が典薬寮に所属していると言っていた為、卓が静紀を通して典薬寮に問い合わせたらしいが、いまだ返答はないと言う。
 どれもこれも重要事項で後回しになどできないというのに、圧倒的に時間が足りない。
 最近の珠紀の生活は、朝、境内で術の練習をし、学校から帰ってきて夕食を済ませたら、蔵の本を調べたり、宿題やテスト勉強をするという日々だ。
 蔵の本を調べることについては美鶴もかなり手伝ってくれているものの、限られた時間を思えば寝る時間すら惜しかった。
「ね、美鶴ちゃん。寝ないで頑張れちゃうような言霊ってないの?」
 期待満点で尋ねた珠紀に、美鶴は呆れたような表情で「ございません」と即答した。
「言霊は、本来持っている能力を増強する手助けをするだけのものです。寝なければ、疲れが溜まる一方ですよ」
「んー……でも、ほら、眠るな! みたいな術とか」
「ございません」
「じゃあ……元気倍増! とか?」
「ございません」
「だったら」
「珠紀様」
「はい」
 美鶴の顔に張り付いた笑みが、まだ言うかと告げていた。
「だって……時間がたりないんだもん」
 珠紀は手にしたマグカップをトレイに置いて、上目遣いに美鶴を見て訴えた。
「先日の典薬寮の申し出の件。皆様にお話されてみてはいかがですか?」
 真弘達は、放課後に沼の周辺を見回ってくれていた。封印した妖から魄を解放する方法は卓も調べてくれているはずで、既に各自が協力してくれている。
 典薬寮からの申し出について全員に話したところで取り組むべきことは変わらない以上、管理だ、排除だなどという気分の悪い話を彼らの耳になど入れたくはなかった。
「あんなこと、わざわざ言う必要ないよ」
  
『カミの血をひく守護者を見張り、場合によっては排除すべきだという意見もある』
  
「なにが排除よ。何様っ!? って感じだよね」
 同意を求めるように美鶴を見ると、彼女は思い詰めた顔をして畳に視線を落としていた。
「どうかした?」
「私は……生きているのは許されないんじゃないかと、思う時があります」
「え?」
「私は、人を殺しました。何人も……」
「みつる、ちゃん?」
「言蔵の女の役目、珠紀様ももうお気づきでしょう? 私は贄になる人を言霊で……」
 うち沈む声で言いかけた美鶴は、そのまま俯いて唇を噛む。
 蔵の書を片っ端から読む内に、珠紀はそれらしい記述を目にして、薄々そうかもしれないと思っていた。それでも、本人の口からこうして改めて聞けば、やはり衝撃を覚える。
 心の動揺を隠しながら、珠紀は諭すように言った。
「それは美鶴ちゃんのせいじゃない。やらせていた、玉依姫のせいだよ」
 言ってみて、すべて玉依姫──静紀の責任だろうかと改めて考えてみるが、それも違う気がする。
 そもそも、誰かが悪いのだろうか。多くの人が死んでいる以上、誰も悪くないと言い切るのは違和感を覚えるけれど、誰かのせいとも思えない。
「そんなことは」
「うーん……じゃあ、鬼斬丸。全部鬼斬丸のせいだよ。で、その鬼斬丸はもうないんだもん。だから、もう全部大丈夫。美鶴ちゃんは悪くないよ」
 少しでも慰めたくて、必死で言い連ねる。それでも、そんな言葉はたいして慰めにならないのだと、珠紀はわかっていた。
 罪もない村人の命を奪う。鬼斬丸の封印の為に必要だったとはいえ、想像を絶する重い行為だ。
 珠紀が賀茂に対して「これから」と口にした時の、激昂した彼の気持ちが今はほんの少しわかる気がした。過去は、鬼斬丸が消えただけではなくならない。割り切るように、これからはもうないのだからいいではないかと開き直ることなど許されない。
 だからと言って、やはりそれに関わってきた人間が、生きていることも許されないなどとは思えるはずもない。
 これまで贄になった人たち。あの沼で妖に囚われている人たちに報いる方法は、きっと他にあるはずだ。
「あのね、私はみんなのことも美鶴ちゃんのことも大好きだよ。だから……。私もっと頑張るから、生きているのが許されないなんて、そんなこと言わないでよ」
「珠紀様……。珠紀様は充分頑張っていると思います」
「……」 
 頑張れて、いるんだろうか。
 美鶴を前にこぼれ落ちそうになる弱音を飲み込みながら、唐突に、真弘に逢いたいと強く思った。慰めて欲しいとか元気づけて欲しいとかではなく、ただ彼に逢って他愛もない言葉を交わすだけで、もっと頑張れそうな気がした。
 明日は、真弘がお迎え当番だ。早く朝になればいいのに。
 そんなことを思いつつ「でも、もっと頑張るよ」と元気づけるように笑うと、美鶴もようやくうっすらと笑みを返してくれた。その表情に安堵しながら、珠紀は筆記具を手にする。
「珠紀様。頑張りすぎて、体を壊しては意味がないです。顔色もよくないですし、今日はもうお休みになられてください」
「うん。もう少しだけやったら寝るよ」
「いいえ。すぐお休みになられてください」
 先ほどまでの沈んだ様子とは打って変わって、美鶴は威圧感のある微笑みを浮かべた。怯みながらも、「あと、このページだけでも」と言いかけてみたが、その先まではとても言えない雰囲気だ。
「珠紀様?」
「はい、寝ます……」
 仕方ない。居間より寒いから気が進まないけれど、自分の部屋でもう少しやろう。
 そう考えながらテーブルに広げていたノートや教科書を手早くまとめて立ち上がると、くらりと視界が反転した。
「珠紀様っ!」
 なんで美鶴は大きな声を上げているんだろう。不思議に思う珠紀の意識は、すぐに闇に飲まれてしまった。

 夢を見た。自室で眠っていて、目を覚ましたら傍らに真弘がいてくれる、という夢だ。
 逢いたいと思っていたから、こんな夢を見ているのかも知れない。
 そんなことを思いつつ、制服姿で片膝をたてて座る真弘を、布団で横になったまま声を掛けることなく見つめた。
 手にした本に目を落としていた真弘は、視線に気付いたようにこちらを見て「目ぇ覚めたのか。具合はどうだ?」と気遣うように言った。
 具合。なんだろう。夢だから脈絡がないのだろうか。わからない。
 問いの意味を考えながら真弘の顔を見つめると、「大丈夫か?」と眉を曇らせた。
 声を発したら、夢が覚めてしまうのではないか。ほんの少し怯えながら、それでも真弘にそんな顔をさせたくなくて、珠紀は口を開いた。
「具合って……?」
「おまえ昨日ぶっ倒れたんだってよ。覚えてないのか? 今朝迎えに来たら、美鶴も死にそうな顔してたぞ」
 昨日。
 真弘に言われて、昨日の記憶をたどる。
 学校に行って、帰ってきて、それから。夜中に交わした美鶴とのやり取りを思い返すと、辿る記憶の先は唐突に途切れていた。
 ふと、これは夢ではないのかもしれないと思った。けれど、その割には布団に横たわっているはずの体はやけにふわふわと頼りなく浮遊している感覚があり、その浮遊感がまるで思考すら浸食しているように、うまく考えることもできない。
 先輩がいてくれるなら夢でもなんでもいい、と考えることを放棄して、珠紀はただ目の前の想い人を見つめた。
「毎日蔵の本片っぱしから調べてるって? 俺様に聞け。あの蔵の本だったらだいたいのことはわかるぞ」
 得意気に言って笑う彼の手にあるのは、珠紀が蔵から持ってきた本だった。文机に置いていたはずの、真っ黒に塗りつぶしたページのある本。
 真弘は、珠紀の視線の行方に気付いたように「役に立つような情報は、これにはないだろ? 読めないページもあるしな」と苦い笑みを浮かべ、開いたページを閉じて傍らに置いた。
 彼の言葉通り、今回の出来事に役立ちそうな情報は、その本には見当たらない。
 けれど。
「でも……蔵に置いておきたくなかったんです。そこには先輩が悲しかった気持ちが詰まってるのに、蔵になんて置いておけない。あそこは暗くて、寂しくて……」
 珠紀の言葉に一瞬目を瞠った真弘は、すぐにその瞳を和ませると「ありがとな」と呟くように言った。
 そうして手を伸ばしてきて、珠紀の前髪を指先で梳くようにはらい、そのまま額に掌を置く。真弘の手はひんやりとしていて、とても心地よかった。
「先輩の手、冷たくて気持ちいい……」
「俺の手が冷たいんじゃなくて、おまえが熱があるんだよ」
 顔をしかめた真弘は、珠紀の襟元の布団を整えると、座り直してあぐらをかいた。
 離れていった手の感触を名残惜しく思いながらその様子を眺めていると、「もう少し寝とけ」と優しい眼差しを返してくれる。
 優しい先輩。大好きな人。その傍らには、哀しい記憶が塗り込められた本がある。
 もしも、もっと早く自分がこの村に来ていたなら。
 もっと早く、鬼斬丸をなくすことが出来ていたなら。
 彼の悲しみはもっと少なくて済んだだろうか。贄の犠牲者は、もっと少なくて済んだだろうか。
「……先輩。ごめんなさい」
「あ?」
「遅くなって……玉依姫が村に来るのが遅かったせいで、たくさん……ごめんなさい」
 真弘は珠紀の謝罪の意味にすぐに気付いたようで、「ばーか」と呆れたように笑った。
「遅いも早いもあるか。おまえが村に来たから、鬼斬丸を壊せたんだろ? お陰で俺様もこうして生きてる。つまんないこと気にしてないで、今は休め。ひとりで頑張りすぎだ、バカ」
「ばかばか言わないでください」
「バカだからバカって言ってんだ。ぶっ倒れるまでひとりで頑張ってないで、少しは頼れ。俺はおまえの……か、彼氏、なんだろ?」
 赤い顔でぶっきらぼうに言う真弘に、あぁやっぱりこれは夢なんだな、と珠紀は思った。
 彼氏だなんて言葉が、今の真弘の口から出るはずがない。告白しても驚かれただけで何も言われなかったし、キスについては謝られてしまった。記憶をなくした真弘は、やはり玉依姫なんて好きになってくれないのかもしれない。
 切なくなりながら、それでもいい夢だなと幸せな気持ちになる。
「いいから目ぇ閉じて寝ろ」
 せっかくここに真弘がいてくれるのだから、このまま起きて話していたい。
 珠紀は寄せてくる眠気に逆らいながら、夢なら許されるはずの願いをそっと口にしてみた。
「先輩……。寝るまででもいいんで、手を繋いでくれませんか?」
 そう言って布団から手を出すと、「しょうがねえなぁ」と言いつつも指先を繋いでくれた。
 夢でも感じるその感触の確かさに、珠紀がふわりと微笑むと、真弘はなぜか慌てたように視線を逸らして「ガキか、おまえは」などと呟く。
「…に……」
「……?」
 眠気は、珠紀の意識を心地よくここではないどこかに誘っていく。
「こんな風に、心も繋げたらいいのにな……」
 抗いきれずに目を閉じながら、本当の願いを口にする。
 本当に繋ぎたいのは、手ではない。けれど心は見えないから、確かに感じられるその手を繋ぎたくなるのだ。
「……ひろ、せんぱ……」
 傍らの存在に安堵しながら、意識は吸い込まれるように落ちて行った。

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