記憶の欠片 第4章 守護者の力

 うつ伏せたまま、意識がゆるりと浮上する。
 目覚ましを止めたのはなんとなく覚えているし、確か親も起こしに来た。あれからひと眠りしたから、既に遅刻確定の時間だろう。それならもう今更焦る必要はない。
 今日は、珠紀は学校に来るだろうか。
 昨日学校に来なかったのは、卓に術を習う為だったと拓磨が言っていた。守護者の保護者ともいうべきあの年長者が、そんな理由で学校を休むことをそうそう許すはずもない。体調が悪いのでなければ、今日はきっと登校するに違いない。
 そんなことを思いつつ、とろとろと微睡む。
 本当なら、今朝は真弘が珠紀を迎えに行く当番だった。しかし、昨日珠紀が欠席したことで当番がひとつずれ、今日の下校の送りへと変更になった。
 そうでなくとも朝は得意ではないのに、彼女を迎えに行くとなるとかなり早めに起きなければならない。
 真弘は当番がずれた幸せを、ベッドの上で享受していた。
 襖の向こうで、階段を踏む音がする。母親にしては珍しく、軽やかな足取りだ。
 鴉取家では、朝一度だけ朝食を告げがてら親が起こしに来てくれるが、それで起きなければ、後は遅刻しようが欠席しようが特に叱られたりはしない。留年は自己責任でと言われ、自分の親ながら放任すぎるのではないかと思ったこともあるけれど、鬼斬丸に捧げられると定められた息子に、親なりにささやかに与えていた自由だったのかもしれない、とここ数日で考えるようになった。
 そんな風に考えられるようになったのは、命の期限がなくなったと言われたからだろうか。
 鬼斬丸はなくなり、もう誰も贄になる必要はない。そのことを、真弘はまだ心のどこかで信じられずにいた。
 こうしてベッドの上で夢と現の狭間をたゆたえばなおのこと、目を覚ませば、やがて贄になるだけの運命が現実として待ち構えているのではないかと思えてくる。
 なにしろ物心ついてからずっと死ぬために生きていると思ってきたのだから、そちらの感覚の方がよほど馴染み深く、目が覚めたら記憶と共に鬼斬丸も宿命もなくなっていた、などという現実離れした事実を簡単に受け入れられるはずもない。頭で考える以上に、自分の命が捧げられる為に存在しているという感覚は、真弘の深い場所まで根ざしていた。
 階段を上ってきた足音は部屋の前で止まり、そろりと襖が開けられる。二度も起こしに来るのは珍しいと思いつつ、目を閉じたままそろそろ学校に行くかと考える。
「……先輩?」
 そうだな。そうしよう。珠紀の声もすることだし。……。……珠紀の声?
「──っ!?」
 真弘が慌ててベッドから身を起こし部屋の入り口を振り返ると、驚いた顔の珠紀と目が合う。彼女はすぐに瞳を和ませて、「おはようございます」と微笑んだ。
 状況が理解できない。
「な、なんでおまえがここにいんだよっ」
 一瞬今朝の送り当番は自分だったかと考えたが、昨日昼休みにちゃんと確認したのだから間違いではない。
 だったらなんで、こんな場所に珠紀がいるのだろうか。
「先輩学校来てなかったんで、どうしたのかと思って」
「だからっておまえ、何勝手に人んちにっ」
「勝手じゃないですよ。ちゃんと玄関で先輩のお母さんに挨拶しました。まだ寝てるから部屋に行って起こしていいって言われたんですよ」
「起こしてって……」
 寝起きの頭がまわりだす。
 珠紀は真弘が来ていなかったから、と言った。つまり、珠紀は学校に行ってからここまで来たということだ。下校時間まで寝てしまったのかと思いながらベッドサイドの時計に目をやれば、8時半過ぎだ。
「おまえ……遅刻だぞ?」
「先輩に言われたくないです」
 唇をとがらせた珠紀は、「具合でも悪いんですか?」と少し心配そうだ。
「単に寝てただけだ」
 答えながらベッドの縁に腰掛けようとして、Tシャツの下のトランクスが視界に入る。さすがにこんな姿を晒すわけにもいかず、真弘は掛け布団を引き寄せて腰から下を隠してあぐらをかいた。
 珠紀は部屋の入り口に立ったまま、安堵したように息を吐き、「よかった」と呟く。
「昨日逢えなかったし、ちょっと心配だったんです」
 心配なら、真弘だってしていた。攫われて、戦って、封印までしたのだからかなりの疲労だったはずなのに、その後に宇賀谷家で全員に状況説明までして、皆が帰る時には少し申し訳なさそうな笑みを浮かべて玄関でひらひらと手を振っていた。まさかその翌日に、ケガや疲労の為でなく術の練習で休むなどとは思いも寄らなかった。
 真弘は昼休みに食べる羽目になった極甘のプリンを思い出しながら、「おまえが休むからだろが」と昨日逢えなかった理由を指摘する。
「そうですね……。具合が悪いんじゃなくてよかったです。じゃあ、私行きますね」
 本当にそれだけを確かめに来たらしい珠紀は、そう言って踵を返すと廊下に足を踏み出した。
 「待て」とその背を呼び止める。
 今朝の当番は慎司だったはずだ。けれどその姿はない。そもそも一度学校に行って、真弘がいないことを確かめてからここに来たなら、誰がその彼女を送ってきたのか。祐一あたりが下で待っているのだろうか。いや、しかし。
「おまえ、まさかここまでひとりで来たんじゃねえだろうな?」
「あー……えへへ」
 案の定、こちらを振り返った珠紀は気まずそうに視線をそらし、あらぬ方向を見て微妙な笑いを浮かべた。
「笑って誤魔化すな! おまえなあ……」
「大丈夫です。ちゃんと商店街とか人通りのある道を通ってきました。沼でなにかあれば、結界が反応してすぐにわかるし」
「ニィ!」
 力説する珠紀に加勢するように、ふいに彼女の肩に現れた使い魔が声をあげた。
「そうっ、おーちゃんもいるし!」
「だからって」
 相手は、沼に封じた妖だけではない。賀茂という得体の知れない男のことだってある。人通りのある道でも、安全だとは言い切れない。なにしろ彼女は、生徒で溢れかえる学校から攫われたのだ。
 オサキ狐は腕を伝って彼女の掌へと駆け下りる。その白い獣を抱きかかえ、よしよしと頭を撫でている珠紀を見つめ、真弘は深いため息を落とした。
 記憶はない。覚えてなどいない。けれど、間違いないと確信できる。
「思い出さなくっても、俺が今までどんだけおまえに振り回されてきたかは想像つくな」
「むぅ、失礼な。振り回してなんかないですよ。じゃ、私行きますね。先輩も早く起きて学校行かないと、受験以前に留年しちゃいますよ?」
「誰がするか」
「あ、そうだ」
 出て行きかけた珠紀は、忘れ物をしたとでもいうように再び真弘を振り返った。一瞬言い淀んで、少し迷うように目を伏せた後、こちらをまっすぐ見つめてきた。
 そんな彼女を、寝癖のついた髪をかきあげながら、なにごとかと見つめ返す。
「私、真弘先輩が好きです」
「……は?」
 虚を突かれて間の抜けた声が漏れる。そのリアクションをどう受け取ったのか、珠紀は苦笑した。
「先輩忘れちゃったし、ちゃんと言っておこうかと思って」
 返事など始めから期待していないとでも言うような告白を置いて、さっさと部屋を出て行く長い髪をなかば呆然と見送る。
 その間、約3秒。
 はっと我に返った真弘は「待てっ!」と声を張り上げて、ベッドを降りた。ここまで無事に来られたからと言って、珠紀をひとりで行かせるわけにはいかない。
 真弘は部屋から顔だけのぞかせて、階段へと向かう背中に「一緒に行くから下で待っとけ」と声をかけた。
  
「ふーん。魂魄なぁ」
「はい。だから、先輩の記憶も、もしかしたらそれを一部食べられちゃったせいかもしれないって」
 珠紀を待たせて大急ぎで身支度を調えた真弘は、彼女と肩を並べて学校へと向かっていた。
 育ち盛りの胃袋は空腹を訴えたが、悠長に朝食を摂っていれば2限目に間に合わない。ひとりならばそれでもよかったが、珠紀を巻き添えにするわけにもいかず、真弘は用意されていたおにぎりをパクつきながら歩いている。
 珠紀は先ほどの告白などまるでなかったような顔で昨日の卓との会話を話してくるので、真弘もその件に触れることなく相づちを打っていた。
「食われたってことは、もう戻らないってことか?」
「卓さんは、わからないって言ってました。食べたものを、留めて利用しているか、栄養源にしているかによるんじゃないかって」
「栄養源……」
 思わず手の中のおにぎりに目を落とす。自分の魂の一部をおいしく頂かれてしまうなど、いい気はしない。
「で、賀茂って奴のことはなんかわかったのか?」
「まだ……」
 ゆるゆると首を振った珠紀は、何か考え込むように黙ってしまった。そのまま会話は途切れ、真弘はおにぎりの最後の一口を飲み込んだ。
 様子を伺うように何気なく見た彼女の横顔。その唇に目が行く。あの日の柔らかな感触が蘇り、真弘は慌てて目を逸らした。
 言うべきだろうか。言うべきだろう。なにしろ、了承も得ずにいきなりだったのだから。
「……足りましたか?」
「なにがだっ!?」
 考えていたことがコトなだけに、思わず声が大きくなる。
 珠紀は不思議そうに首を傾げて、「おにぎり」と答えた。
「ちゃんとご飯食べてからの方がよかったんじゃないですか?」
 さすがに珠紀を待たせて食事をするのは気が引けたし、親もそれを許さなかっただろう。だからおにぎりが用意されていたに違いない。
「まぁ、腹が減ったら適当に購買行くから気にすんな」
「すみません」
「俺もその……悪かった」
「いえ、私が勝手に来ただけなんだし気にしないでください」
「そうじゃなくて、だな。その……一昨日のあれ」
「一昨日?」
「キス、しただろ。その……悪かった」
「あぁ、そんなの。大丈夫ですよ。守護者として当然のことをしただけじゃないですか」
 そんなの、と言われるとは思いもよらなかった。
 悪ぃな、と断りを入れたとはいえ、あの時真弘は彼女の了承も得ずに口づけた。
 それが、いわゆる世間一般でいうところの口づけとは意味も目的も違っていたとはいえ、キスはキスだ。しかも、女のように拘るわけではないけれど、あれは記憶をなくした真弘にとっては初めてのキスだったというのに、目の前の彼女にとっては気に留めるようなものではなかったらしい。
 守護者だからした。玉依姫の力を授かる為に。
 そう考えれば珠紀の様子も頷けるものではあるけれど、なんとなく釈然としない。
 複雑な気持ちに陥る真弘の隣で、珠紀は足下に視線を落としながら、「私こそ、ごめんなさい」と口にした。謝られて、一昨日キスした後にも珠紀がそう言っていたことを思い出す。
「おまえ、こないだも謝ってたな。なんでだ?」
「だって……。先輩は、守護者の姿、嫌でしょう?」
「俺は別に……」
 珠紀はこちらを見ない。ただ申し訳なさそうな顔で、地面を見ながら歩いている。その横顔を見つめながら、自分はあの姿が嫌なのだろうかと考えてみる。
 意のままに動く大きな翼。それは紛れもなく、真弘がカミの血を色濃くひく者なのだと現していた。そんなものが突然背中に現れたのだから、驚いたに決まっている。けれど、嫌悪したわけではない。蔵の書物には、真の守護者として覚醒した時に起こる変化に僅かながら触れたものもあったし、なんとなく想像はしていた。己が人間離れした存在なのだと改めて感じはしたが、子供の頃からそういう力に慣れ親しんできたのだから今更と言える。
 そんなことよりも、まさか珠紀がそんな風に思っていたとは考えもしなかった真弘は、どこか思い詰めたような彼女の表情を見つめながら、だったら珠紀はどう思ったのだろうかと気になった。
「おまえは、どうなんだよ?」
「私は、先輩に悪いなって思います」
「そうじゃなくて。おまえは、俺のああいう姿は嫌いかって訊いてんだ」
 思わず口にしながら、なんでこんなことを訊いているのだろうと自分で自分に困惑してしまう。
 そんな真弘の胸中など知るはずもない珠紀は、顔をあげてこちらを見ると「私は好きです」と即答した。
「真弘先輩なら、どんな姿でも格好いいと思います」
 まっすぐ過ぎる眼差しに、二の句が継げなくなる。顔に集まる熱を意識しながら、真弘は珠紀から視線をはずして、ほんの少し歩調を早めた。
 さっきの告白といい、どうして珠紀はこうも直球なのだろうと考えつつ、どうにか言葉をひねり出す。
「あー、まあ俺様が格好いいのは当然だ」
 今更過ぎるな、などと言いながら、うむうむと頷く。頷きながら、頭の中で違う話題を探した。
「そ、そういえば、昨日大蛇さんとこには術の練習に行ったんだろ?」
「はい。ばしっと攻撃する術を教えて貰おうと思ったんですけど、却下されちゃって。結界の練習をしてました」
「攻撃? 封印とかじゃなくてか?」
「はい」
 本来玉依姫は、戦う者ではない。実戦面は守護者に任せて、一昨日珠紀がしたような封印や破邪の結界を維持する者だ。だから珠紀が卓に習いに行ったのも、当然そういう類の物だろうと思っていた真弘は、肩を竦めた珠紀を意外な心地で見つめた。
「でも、私には向いてないって言われました」
「俺も大蛇さんに賛成だな」
 沼で妖にとどめを刺そうとした真弘を止めたのは、珠紀だ。それまでの形勢を考えれば、あそこは迷っていい場面じゃない。押し切って、とどめを刺すべきだった。戦いにおいて、ああいう中途半端さは危険だと、これまでの経験で真弘はよくわかっていた。あの場でとどめを刺せない珠紀は、戦う術より逃げる術を学ぶべきだ。
 もっとも、あの時珠紀が止めてくれて、ホッとしていたのも事実だった。お陰で贄の儀の犠牲者たちに、引導を渡さずに済んだからだ。そう思ってしまう自分も、きっとまだまだ甘いのだろう。
 再び何か考えるように黙ってしまった珠紀の隣を、真弘も黙って歩く。少し前なら、こんな沈黙を気まずく感じたかもしれないけれど、多少なりとも彼女との時間を重ねたせいか、今はそれほどでもない。
 学校に着いたら、教室に行くより先に購買に行くべきか。でもやきそばパンの納品は2限目の終わり頃のはずで、すぐに行っても目的は果たせないだろう。
 そんなことを思いつつ歩いていると、珠紀の歩調が徐々に遅くなり、いつの間にか真弘の少し後ろを歩くような格好になっている。窺い見れば、心なしか顔色も悪い。
「おまえ、具合悪いのか?」
「ちょっと……頭が……。──っ!」
「おいっ!?」
 屈み込んだ珠紀に、真弘もすかさず歩み寄って膝を折り、顔を覗き込む。眉を寄せて、堪えるような辛そうな表情だ。
「大丈夫か?」
「あの時と……同じ……?」
 唇から漏れる声は、真弘に告げる為と言うよりも、己に問い掛けているような呟きだ。
「なんだ?」
「先輩。封印域に行きたいんですけど」
「封印域? いいけど、なんでだ?」
 辛そうにする珠紀と、封印域という単語が結びつかない。それに、かつて宝具を安置していた封印域も、今はその意味を成してはいないと聞いた。
「わからないけど、似てるんです。ロゴスに宝具を奪われそうになった時、同じような頭痛が……」
「つっても、もう宝具はないんだろ?」
「そうなんですけど……」
 珠紀自身も、よくわからず困惑しているようだった。
 痛みを堪えるように、浅い呼吸を繰り返す様を見つめながら、かつての鬼斬丸の封印にまつわる何かが、玉依姫である彼女に影響を及ぼしているのかも知れないと納得する。
「あー……わかったけど、そんなんで大丈夫か?」
「大丈夫です」
 ちっとも大丈夫そうには見えないのに、珠紀は立ち上がると、青い顔で無理に笑ってみせる。
 意地っ張りな奴。そう思いながら、少し呆れた心地で足下のおぼつかない彼女の手を取り「行くぞ」と声を掛けた。