記憶の欠片 第3章 3度目の口づけ

 そろそろ学校では1限目の授業が終わる頃だろう。
 薄曇りの今日は、じっと座っていると少し肌寒く感じる。
 昼休みはいつも当たり前に屋上で過ごしているけれど、真冬になってもあそこでお昼を食べるのだろうか。それは少し、いやかなり避けたい気がする。
 そんなことを思いつつ、大蛇家の縁側に腰掛けた珠紀は、ぬるくなったお茶を一口含む。
 今朝、拓磨に送ってもらい突然押しかけてきた珠紀を、卓は快く迎えてくれた。先に用事を片付けると言われ、相手の都合も考えないで来た自分勝手な行動に自己嫌悪しつつ、それでもやはり学校に行く気になどなれなかった珠紀は、こうして縁側でお茶を飲みながら、卓の手が空くのを待っている。
 大蛇家の庭は手入れが行き届いているとは言えないながら荒れてもおらず、咲き残る薄紫の秋明菊が晩秋の庭に彩りを添えていた。
 こんな風に縁側でまったりとお茶を飲んでいると、昨日の出来事が夢だったようにも思えてくる。
 それでも、まだ所々痛む体や手首の擦り傷と鬱血の痕が、あれらすべてが現実だったのだと主張していた。
 珠紀は手首をそっと撫でながら、昨日のことを思い返した。
 
 
 地面に転がされた珠紀を呆れたように見下ろし、「ひっでえ格好だな」と言った真弘は、近くに屈み込んで語りかけてきた。「玉依姫は俺も贄にするつもりだったんだよなぁ? 迷惑な話だぜ。誰が好きこのんでそんな役割に生まれてくると思う?」と。
 目の前にいるのは、真弘ではない。わかっている。それでも、真弘が本当に思ったかもしれないことを言葉にするその様は、あまりに彼の姿そのもの過ぎた。
 ずきずきと頭が痛み出す。こめかみを強く押さえつけられるような痛みに眉を顰めながら、そんな言葉を向けてくる真意を問うように見つめると、真弘は労るような声音で言葉を続ける。
「おまえはこの村で育ったわけじゃねえからな。自分が玉依姫だってことも知らなかった」
「……」
「だったらしょうがねえよなぁ。その間に、どんだけの人間が殺されたんだとしても」
「……」
「でもよぉ、珠紀。知らなかったで済まされると思うか? 罪は償うもんだ。そうだろ?」
 声はいっそ優しかった。だから余計に残酷に響く。その顔で、その声で、名前なんて呼ばないで欲しい。
「償えよ。償おうぜ。贄になるはずだった俺と、玉依姫のおまえが死ねば、こいつらだって納得する」
 こいつら。そう言われ、視線を周囲に巡らせる。霧の中には、いつの間にかたくさんの人影が見えた。
 さざめくように聞こえてくるのは怨嗟の声だ。殺された。死ねばいい。殺せ。そして、それらに混じる『贄』という言葉。
 寄せる声に呼応するように、頭痛が増していく。
 ここにいる者は皆、贄の儀の犠牲者なのだと、珠紀はすぐに理解した。鬼斬丸はなくなったのに、捧げられた村人たちは、まだここに留まっていたのだろうか。
 頭の隅でそんなことを考えつつも、珠紀は少しでも相手から距離をとろうと身じろぎながら、真弘の姿をしたそれを見据えて口を開いた。
「先輩は、……先輩なら、そんなこと言わない」
 震えを抑えながらどうにか音にして発する。そうすることで、自分に言い聞かせた。
 これは真弘じゃない。いくら贄の犠牲者たちを慰める為とはいえ、生きるという意味を誰より知る彼が、こんなことを言うはずがない。
「先輩の姿で勝手なこと言わないで。真弘先輩は、死ぬことが解決じゃないって知ってる人なんだから」
 言いながら、後ろ手に縛られた手首を必死で動かす。縄が食い込み、皮膚をこすって破いていくのを感じたが、そんなことには構っていられない。
「死ぬことが解決じゃない? よく言うぜ。違うだろ? おまえは自分が死にたくないだけだ。偽善者ぶってんじゃねえよ」
「……」
「こいつらだって、皆思っただろうよ。死にたくないってな」
 真弘の手が珠紀に触れようと伸びてくる。逃れようと縛られたままの両足を必死に蹴って地面を這いずりながら、情けない、と思った。
 玉依姫として覚醒したと言ったって、守護者やオサキ狐がいなければ結局無力なままで、こんな風に這いずることしかできない。少しも成長できていない。
 でも今は、そんなことを嘆いている場合ではない。生き延びなくてはいけない。
「楽になんて死なせてやらない。冷たい水で肺を満たして、苦しみもがいて死ねばいい」
 真弘の声に重なって、賀茂の声も聞こえた気がした。
 泥だらけになるのも構わず、地面を蹴って身をよじりながら逃げるが、這って進める距離などたかが知れていた。
 ふいに腕をとられ、持ち上げられた。縛られたまま持ち上げられた片腕に全体重がかかって、肩が悲鳴をあげる。捕まったという絶望感にぎゅっと目を閉じながら、それでも身をよじろうとすると「暴れんな。落とされたいか?」と真弘でない声が耳のすぐ横で響いた。
 目を開けると、自分の視界は高い位置に変じていて、誰かの肩に担ぎ上げられているのだとわかった。その相手は。
「セクハラ男っ!」
「耳元で喚くな」
 舌を打ちながら言った男は、灰色頭の同級生、狗谷遼だった。
「おまえ、こんなんで本当に玉依姫なのか?」
 呆れたようにそう言って、遼は珠紀の足の縄に手をかけた。しかし、その縄が解かれる前に珠紀を担いだままの遼が飛び退き、「数が多すぎるな」と独りごちた。
「あなたこそなんなの? もしかして、守護……っ!」
「舌を噛みたくなかったら、その煩い口は閉じとけ」
 既に噛んだ珠紀は、言われるがままに黙った。そうするうちにも、周囲から放たれる攻撃を躱すように、体は右へ左へと揺さぶられる。腕を縛られ掴まることもできない珠紀は、彼の動きを妨げないよう精一杯おとなしくしていた。
 
 
「お待たせしてすみませんでした。……痛みますか?」
 背後から、申し訳なさそうな声が掛かった。珠紀が手首を撫でるようにしていたのを見て、傷が痛むと思ったのだろう。気遣うようにこちらを見つめる卓を振り仰いで、珠紀は首を振った。
「いえ、こんなの全然平気です。卓さんこそ、体は大丈夫ですか? それに忙しそうだし……私ってば考えなく押し掛けてしまって、ごめんなさい」
「私の方はご心配なく。もうあらかた片付きました。それに、あなたの訪問ならいつでも歓迎しますよ。ただ、学校をさぼってというのは感心しませんね」
 窘めるように言った卓は、着物の裾を軽く整え珠紀の隣に正座した。
「すみません。でも勉強なんてしている場合じゃない気がして」
「学生の本分は勉強ですよ。ご両親との約束もあるのでしょう?」
「それは、そうなんですけど……」
 村に戻る為に親から出された条件は、卓も知るところだ。
 こんな風に学校をサボっていることがバレたら叱られるに決まっているし、無理矢理連れ戻されてしまうかもしれない。
 昨日珠紀が学校から連れ出されたことに、担任が荷担していたとは考えにくい。彼は静紀が体調を崩して病院に運ばれたと思っているだろうし、拓磨から欠席だと聞かされれば、それ以上疑うこともないはずだ。だいたい、たかが1日休んだくらいで両親に連絡などいくはずもない。
 それでも、お母さんは油断ならない、とちらりと思う。
 昨夜、騒動の後。守護者一同が宇賀谷家に集まり、珠紀が事の顛末を説明していたところに、突然母から電話があった。珠紀からの週末ごとの連絡は欠かしていないのに、なにか用事があったわけでもなく、唐突に気になったのだと言う。
 村で起きている出来事については、当然ながら一切話してはいない。受話器の向こうに悟られないように精一杯頑張った珠紀は、電話を切った後、母親の勘がなせる業なのか、それとも母にも本当は玉依姫の素質があったのではないか、などとしばし真剣に考えてしまったくらいだ。
 学生の本分は勉強だという卓の言葉も、親の出したいくつかの条件も、真っ当なことだと珠紀も思う。
 でもそれなら、学生であると同時に玉依姫である自分は、どうするのが正しいのだろう。
「卓さん。だったら玉依姫の本分ってなんなんでしょう?」
 昨日の戦いでも、珠紀はどこまでも役立たずだった自分を思い返した。
 逃げるなんてことはしたくなくてあの場に留まったけれど、オサキ狐を介した攻撃がどれほど皆の役に立てただろうか。使い魔の攻撃力は、主の力に比例する。妖に大きなダメージを与えるには至らなかったそれはそのまま、珠紀がまだまだ力不足だというのを物語っていた。
 次々と守護者が倒れていく中で、ひとつだけ過ぎった手段すらも他力本願だ。口づけて、力を与えればいい。そう考えた。
 でも、それを思いついたのと同時に過ぎったのは、記憶をなくした真弘が、自身の背に現れた翼を見つめた驚愕の眼差しだった。あの姿で戦うよう強いるのは、とても悪いことのように思えた。
 それでも、真弘に乞われるままに口づけ、彼はあの姿で妖と戦った。
「玉依姫なんて名前ばっかり偉そうで、昨日だって私は結局皆に守って貰ってばっかりでした。ロゴスと戦っていた頃と全然変わってない……」
「そんなことありませんよ。あなたは立派に戦っていたじゃないですか。それに、簡易とは言えあんな状態で封印まで出来たんです。あなたはあなたなりに、ちゃんと成長しています」
 守護者の姿に転じた真弘は、十分とは言わないまでも、本来の力を振るうことができた。その為、妖ともある程度互角に戦うことが出来たし、とどめを刺す寸前まで追い込むことに成功したのだ。
 けれど、とどめは刺せなかった。珠紀が、それを止めたからだ。その一瞬の隙を突いて、妖は沼の中へと逃げ込んで、そのまま現れることはなかった。
 妖が姿を消すと同時に守護者の力は戻ったらしく、卓が今後の妖の出現に備えて沼の周囲に感知系の結界を張り巡らせた。そして仕上げに、沼に蓋をするように、珠紀と卓とで簡易式の封印を行った。卓の術に珠紀が同調して玉依の力を織り込んでいくことで、ある程度は妖をここに閉じ込めておけるのだという。
「あれは、卓さんが誘導してくれたから出来ただけです。私ひとりだったら……」
「珠紀さん。誘導されて出来るということは、力の使い方さえわかればひとりでも出来るということです。自分を過大評価するのは感心しませんが、過小評価するのもよくないですよ」
 過小評価をしているわけではない。本当にいろいろと力足らずなのだ。
 珠紀が黙って手の中の湯飲みに目を落とすと、卓は気を取り直したような口調で、「今日は術の練習をしたいんでしたよね? この前の続きでいいですか?」と微笑んだ。
 静紀に、術なら卓に習うといいと言われていた珠紀は、先週末から学校のない日のみという約束で、卓に術を習っていた。昨日沼で封印できたのも、彼に習っていたことをそのまま活かせたからだ。
 習っていることは、確実に役立つ。そう実感できたのは確かだけれど、今身につけたいのはそういうものではない。
「……あの、卓さん。こないだ教えて貰ったような結界とかではなくて、霊符がなくてもおーちゃんがいなくても出来るような、攻撃の術を教えて貰えませんか? 私には無理ですか?」
 もしも少しでも攻撃が出来たなら、あんな風に賀茂に掴まらずに済んだかもしれない。そう考えた珠紀は、オサキ狐や霊符がない状況でも、攻撃できるような術を覚えたいと強く思っていた。
 じっと見つめる先で、卓は珠紀の真意を問うように見つめてくる。そして、少し考えるように間を置いて、おもむろに口を開いた。
「潜在的な力で、という意味ならば、珠紀さんは恐らく攻守バランスよく持っているでしょう。でも、向き不向きでいうなら、攻撃系の術は向いていないと私は思います。あなたは……優しすぎる」
「そんなこと、ないです。私、昨日のことで自分が結構冷たい人間なんだってわかりました」
 昨日対峙したのは、鬼斬丸の犠牲者達だ。玉依姫が贄に選んで、死んで行った人達。それらを相手に、珠紀はオサキ狐を放つことに躊躇いを覚えはしなかった。
 偽善者、と真弘の姿をした妖は言った。その通りだと思う。助かりたくて、助けたくて、持てる力のすべてを出し切って抗った。
「賀茂という人に、何か言われましたか?」
「……」
「珠紀さん。あなたが本当に冷たい人ならば、今きっとそんな顔はしていないと思いますよ?」
「……」
「昨日、鴉取君が妖にとどめをさそうとしたのを、あなたは止めましたね? それはなぜですか?」
「それは……」
 沼のほとりに妖を追い詰め、最後の一撃を仕掛けようとその手に力を集める真弘を、珠紀は思わず制止していた。恨みや悲しみを抱えた贄の犠牲者を、そんな風に消し去るなんて出来ないと思ったからだ。
「何かを選ぶということは、選ばないものを切り捨てるということです。切り捨てることは、強さです」
「……はい」
「けれど、切り捨てないことも強さなんじゃないかと、あなたと出会って考えるようになりました」
「切り捨てられないのに? だって、それは選べないってことです」
 贄の犠牲者達を消し去ることが出来ないと、あの時確かに思ったけれど、結果として簡易とはいえ封印したのだから、彼らを沼の中に閉じ込めたに過ぎない。それならいっそ消し去ればよかったのかもしれない。思い切れなかったせいで、もっと苦しみを長引かせる結果を招いたとしか思えない。
「そうですね。でも、思い出してみて下さい。鬼斬丸を壊せたのは、あなたが鴉取君の命も、世界も、どちらも切り捨てることなく希望を探し続けたからこそ得た結果ではありませんでしたか?」
 蔵の中で、泣きながら真弘を助ける方法を探したあの日のことを思い返す。次々と手にする書物のどこにも、大切な人を守る方法が見つけられなくて、絶望しそうになった。
 真弘を助けたいと望むことは、世界の終わりを意味するのだとわかっていながら、それでも助ける方法はあるはずだと諦めずに足掻いて、きっと何か方法があるはずだと信じた。信じたかった。
「でも、世界が滅んでいいと思ったのも本当なんです。村の人を犠牲にして封印を維持していたことも、あの時私は知っていたのに、そんなこと全然考えなかった。ただ、先輩に生きていて欲しくて、自分の為に……」
「それでも放り出さずに向き合ったから、あなたと鴉取君は鬼斬丸を壊せたんですよ」
 放り出さずに向き合ったから。
 そうだった。あの時だって、手がかりも目印も見つけられないままに、ただ夢中で思いつく限りの方法を追いかけていただけだった。
 あの時と今では、状況は全然違う。
 典薬寮にも誰にも、守護者の皆が生きていて悪いなんて言わせたくない。
 沼に沈む贄になった人の魂を、あのままにしておけない。
 切り捨てたくないものは違うけれど、力が足りないながら玉依姫として出来ることがある分マシかもしれない。
 事態は全く好転していないけれど、そう考えるとほんの少し心が軽くなる気がした。
「そうですよね。うん……頑張れそうな気がしてきました」
 頑張れることを、頑張ってみよう。そう考えながら答えると、卓も柔らかな笑みで応えてくれた。
「頑張って、あの沼の……贄の犠牲になった人達の魂も、何か救える方法がないか探してみます」
 賀茂の方は、本当に典薬寮が差し向けたのかまだはっきりしない為どう動くべきなのか見当もつかないけれど、少なくとも芦屋が示したのは妖の騒動についてだ。ならば、あの沼に閉じ込めた多くの魂を鎮める方法を探すのが、取り敢えず出来ることだ。
「それなんですが、珠紀さん。あれは本当に贄の儀で犠牲になった人の魂なんでしょうか?」
「え?」
「昨日あなたや鴉取君達に聞いた情報を総合的に考えてみても、あれは少なくとも魂の集合体なんかではない」
「なんでですか?」
「考えてみて下さい。なぜ、贄が必要だったか」
 なぜ、贄が必要だったか。それは鬼斬丸の力を抑え込んでおく為の封印を、堅固に維持する為だ。
 卓の言わんとすることがわからず、珠紀は首を傾げながら言葉の続きを待った。
「世界の終わりを招くとまで言われた力を抑えていたほどの力ですよ? 昨日の妖にそこまでの力はなかったでしょう?」
 卓の言う通り、妖は真弘が守護者の姿となって戦い出すと、そこまでの圧倒的な存在ではないように見えた。あの妖が鬼斬丸の封印の力そのものであったならば、きっと今頃全員が生きてはいなかっただろう。
「確かに。みんなが守護者の力をいつも通りに使えていたなら、あそこまで苦戦しなかった気がします」
「そう。なぜあの時、私達が力を使うことが出来なかったのかというのも疑問点ですね。それからもうひとつ。なぜ、守護者の中でも、鴉取君の姿だけを真似るのか」
「それは……」
 玉依姫の一番の弱点だから。唯一真の守護者として覚醒しているから。思いつくことをいくつか並べながら考えていると、それを見透かすように卓が笑った。
「あなたの恋人だから、ですか?」
「は、えっ!? いえ……え? そうなんですか?」
「多分違います」
「もう、卓さん。からかわないでください」
 珠紀がそう言って、湯飲みに残った茶を飲み干すと、卓がお茶をいれに立ち上がった。
 その背を見送りながら、もう一度考えてみる。
 なぜ、真弘の姿をして現れたのか。例えば、なぜ拓磨じゃなかったのか。初めて偽の真弘に遭遇した時、あれが拓磨だったらどうだったろう。きっと偽者だなんて思わずに、油断して近づいたに違いない。
 守護者の中で真弘の姿を選んだのではなくて、守護者の中では真弘の姿しかとれないのだとしたら?
 初めて妖に遭遇したのは、珠紀と真弘だ。あの時、気を失った真弘に馬乗りになった妖の姿を思い出す。
 頭の中で、いくつかのピースがあるべき場所にはまるように、ひとつの仮定を浮かび上がらせる。
「記憶っ!」
 思わず口をついた言葉に、戻ってきた卓が「気付きましたか?」と答えて、ふたつの湯飲みを載せた盆を珠紀の隣に置いて、その横に再び腰を下ろした。
「記憶を奪った相手の姿をとっている、ってことですか?」
「これは想像でしかないのですが。……魂魄、という言葉を知っていますか?」
「……? 魂ですよね?」
「そうです。魂は、コンとハクで構成されていると言われています。コンとは魂。つまり命のエネルギーです。そしてハクは、肉体に関することを司っていると言われています。魂は、鬼斬丸の封印の役目を果たしていたはずなんです。となると考えられるのは、昨日あなたが見た人達は、恐らくハクの方です」
「はあ……」
「あれはきっと贄になった人達の集合体などではなくて、魄を喰らう妖なのではないでしょうか。そして喰らった魄を、現出することができる」
「だから……真弘先輩の姿を?」
「ええ。それから、村で流行っている原因不明の病気。あれも魄を奪われたことで、あのようなことになっているのではないかと……」
 意識不明の村人が、魂魄のうち魄だけを奪われてしまったのだとしたら。魂、つまり命のエネルギーはあるからすぐに死ぬことはないけれど、魄がないから目を覚ますこともない。
「卓さん。食べられちゃったということは、もう戻せないってことでしょうか?」
「さあ。すべて仮定ですからなんとも言えません」
「でも早くどうにかしなくちゃですよね」
「早い方がいいでしょうが、守護者の力を使えなかった理由がわからない以上、すぐに動くのは危険過ぎますね。もう少し待って頂けますか? 私もいろいろ調べてみます」
 卓はそう言って、湯飲みを手にしてゆったりとした仕草で口に運んだ。珠紀も倣うように湯飲みを取って傾けかけた。
「そういえば芦屋さんがお見えになりましたよ?」
「──っ!」
 卓の言葉に慌てた珠紀は、口につける前に湯飲みを傾け、膝の上に少しお茶を零してしまった。すぐにハンカチを取り出して、制服を拭いながら、火傷しませんでしたか? と気遣う卓に、全然大丈夫です、と首を振った。
「いつ来たんですか? 最近ですか?」
「はい?」
「あ、だから、芦屋さんが来たって」
 いったいいつ来たのだろうか。宇賀谷家を訪れてすぐか、つい最近なのか。
 何を話したのだろうか。まさか、珠紀に話したことをそのままここでも話して行ったのだろうか。
「あなたの所にも行ったと聞きましたが?」
「う、え? あ、はい。芦屋さん。来ました。あ、挨拶に」
「挨拶?」
 珠紀の言葉に、卓は怪訝そうな顔をする。それを見て、何か自分はおかしなことを言っただろうかと不安になりつつも、挨拶です、と頷いた。
 芦屋が卓に何を言ったかわからないままに、迂闊なことは口に出来ない。
 珠紀は零さないように気をつけながら、まだ熱いお茶を用心深く口に運んだ。
「変ですねぇ」
「……なにがでしょう?」
「もっと重要な話をしませんでしたか? ……私達に関することですとか」
 卓の言葉に、珠紀はいよいよ不安になった。まさか芦屋は『カミの血をひく守護者を見張り、場合によっては排除すべきだという意見もある』などということを、当の守護者である卓にわざわざ言いに来たのだろうか。
「私達って……私達ですか?」
「えぇ」
 眼鏡の奥でにこやかに細められる目を見つめながら、話して確認してみようかと考えた。けれど、やはりそれを口にするのは気が進まず、見透かしそうな卓から視線をはずしながら、うちは挨拶だけでした、と言い切った。
「そうですか」
 卓にはいったい何を話したのだろうか。
 気にはなったものの、追求することで却って追求されそうな気がした珠紀は、湯飲みを置くと「さて、術の練習をしましょう」と威勢良く庭に降り立った。

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