記憶の欠片 第3章 3度目の口づけ

「主来たれり」
 唱えて押した扉の向こうは真っ暗で、少し不気味に感じる。
 懐中電灯で照らしながら、電気くらいは設置すべきかもしれないなどと考えつつ、珠紀は棚の間を歩く。
 和綴じの背表紙に文字のない書物も多いこの中から、必要な情報を探す難しさは、鬼斬丸の一件の際に痛感した。
「さて、どうしよう……」
 呟きながら、手近な1冊を取り出してみる。
 ぱらぱらと捲ってみると、家系図のようなものが記されており、今必要な本ではなさそうで、元の場所に戻した。
 
 真弘の姿をした何者かと対峙したのは、先ほどのことだ。
 風の剣で斬りかかった真弘に対し、それは「この鴉取真弘様とやろうってのか?」などと、真弘そのものの口調と声で言い放った。
 もっとも、ふるう力の種類は真弘とは違うらしい、ということは、見ていた珠紀にもなんとなくわかった。
 始めは互角かと思えたその戦いは、どうも偽の真弘の方が上のようで、風の刃を躱しながら、からかうように「その程度か?」などと口にする。
 挑発にのせられるように真弘の勢いが増す中、ふいに珠紀に向けて攻撃が放たれた。
 それまで偽真弘は、珠紀のことなど眼中にないという素振りでいた為、咄嗟のことに珠紀は動くことすらできない。しかし、強い風が巻き起こり、珠紀はすぐに力強い腕に抱き込まれて、その攻撃に晒されずに済んだ。
「大丈夫か!?」
「はい」
 珠紀の返事に安堵したように息をついた真弘は、偽真弘を強く睨み付け、空気を振るわすような怒気を放って「ふざけてんじゃねえぞ!」と相手を一喝した。
 その時。
 真弘の感情に呼応するように、その背に翼が現れた。
「なっ、なんだぁ!?」
 己の変化に戸惑い、真弘は驚愕の眼差しで背に生じた翼を見つめ、小さくぱたぱたと動かす。
 その隙をつくように、再び真弘と珠紀目掛けて攻撃が放たれた。
 珠紀を抱きしめたまま、飛び退った真弘は、なるほどな……と何かに納得したように呟くと、さがってろ、と珠紀を背後に押しやった。そのまま翼を強くはためかせて相手へと向かっていった真弘は、今度は互角に渡り合っているように見えた。
 ふいに偽の真弘は、背を向けて駆け出した。
 すかさず後を追って飛ぶように走る真弘の姿がどんどん遠のいて行くのに慌てて、珠紀も急いで駆けだした。よくわからない相手を真弘一人で相手している今、深追いするのは危険過ぎる。
 珠紀はあらん限りの声で「真弘先輩っ!」と叫んだ。
 その声が届いたように真弘が振り返ったのと、珠紀が躓いたのは同時のこと。
 転ぶ! と思い、手が前に出掛けたその時、上昇気流のような風が吹き上がり、彼女の体を柔らかく受け止めた。
「どうしたっ!?」
 あまりに必死で名を叫んだ為か、躓いたのを新手の敵の攻撃のせいとでも思ったのだろうか。戻った真弘は、珠紀を庇うように立ち、素早く周囲に視線を投げた。
 珠紀は真弘を呼び戻せたことに安堵しながら、ひとりで追いかけたら危ないです、と訴えた。
「んなこと言ってもよぉ」
「逃げるんなら、見逃してやらないこともねえぜ?」
 離れた場所から、真弘と同じ声が響く。
「ッの野郎!」
「ダメですっ」
 慌てて真弘の腕を掴んだ珠紀は、「玉依姫の命令ですっ」と言って引き留めた。
 偽の真弘は何度か挑発するように誘いかける言葉を吐いたが、真弘が追ってこないのを見てとると、そのまま駆けて消え去った。
 その後、珠紀を送った真弘は、守護者として変化した姿については何も触れないまま、ただ「俺様の実力ならあんなのひとりくらい楽勝だったのに」とか「せっかくのチャンスだったのに」とか、追うこともなく逃がしたことに納得がいかなったというようなことを、いつもの自信に溢れた口調で話すばかりだった。
 けれど、珠紀にはただ、己の翼を振り返り、驚愕に目を見開いた真弘の表情ばかりが強く焼き付いていた。

 真弘に送られて帰宅した珠紀は、美鶴と共に夕食を済ませると、調べ物をすべく蔵へと足を向けた。
 フェレットのような妖や真弘の記憶喪失、幽霊騒動。典薬寮のことや、意識不明の村人。そして真弘の姿をした何者か。
 わからないことばかりで何から手をつけていいか迷うところだが、とにかく妙なカミとも妖ともつかないものが現れ、それが守護者や村人に害を為すというなら、その相手の正体なり手がかりなりを見つけなければならない。
 蔵の書物は草書で書かれ、普通ならば珠紀が読めないものばかりのはずなのに、不思議と何が書かれているのかわかる。目にしたそばから頭の中で自動翻訳されて理解できてしまうのは、ここにある書が代々の玉依姫や守護者達によって遺されたものだからだろうか。
 鬼斬丸のあれこれの際に気付いたその力で、珠紀は本を取り出してはぺらぺらと中身を確認する作業を繰り返し、過去の玉依姫が対峙したカミに関する記録や、村で起きた不思議な出来事等を記した本を何冊か手近にあった踏み台に積み上げていく。
 ふいに目に止まった本を手に取り、珠紀は動きを止めた。
 鬼斬丸を壊す前に蔵を訪れて、手にしたその本。
 珠紀は懐中電灯を積み上げた本の上に置くと、その本の表紙をそっと撫でてから、静かに開いた。
 置いた懐中電灯の頼りない光が、開いたページを映し出す。
 真っ黒に塗りつぶされたページ。
 鬼斬丸を封印する為に、将来贄にならなければいけないと告げられた真弘が、哀しみや悔しさを塗り込めたその黒を、指で辿る。
 真弘がこんな思いをしていた頃、玉依姫である自分は何をしていただろう。
 自分が何者であるかなんて考えもせず、心配事と言ったら、明日のご飯にタマネギが出てきたらどうしよう、とか、近所の家の前に繋いである大きな犬が怖い、とかきっとその程度のことだった。
 命の終わりなんて、考えたことすらなかった。
「ごめんね……」
 届かない、遠い日の真弘に向けて呟く。
 過去に戻れるなら、この日の真弘を抱きしめて、贄になんかならずに済むのだと教えてあげるのに。
「ごめんなさい」
 幼い子供にとって、どれほどの恐怖や絶望だっただろう。
 それを抱え続け、他の守護者にすら言わずにいた真弘は、どれほど苦しかっただろう。
 村から逃げ出すことすら許されなかった彼の、唯一の抵抗がこのページに込められている。
 鬼斬丸はなくなったし、今は傍にいる。
 だから。
 ようやく手にした真弘の自由は、きっと自分が守ろうと、珠紀は改めて強く思った。
 その為にできること。玉依姫であるからこそ、できることが絶対にあるはず。
 そう考え、ふと蔵で闇雲に調べるよりも、もっと手っ取り早い方法があったことに思い至る。
 玉依姫であった人。誰よりも玉依姫を知る人に、聞いてみよう。
 珠紀は、真っ黒なページを閉じると、懐中電灯を手にして、踏み台に積み上げた10冊ほどの本の一番上に、持っていた本を載せた。
 この本自体は、今回の出来事について、なんの資料になりそうにもない。それでも、この暗く寂しい蔵の中に、辛かった真弘の思いを置き去りにはしておけない気がして、一緒に蔵を後にした。
 
 部屋に戻った珠紀は、蔵から持ち出した本を机の上に置くと、静紀の部屋へと足を向けた。
 静紀はほとんどを自室に籠もって過ごす為、同じ家に住んでいるというのに、顔を合わすのは日に1度か2度だ。学校がない日ですら、それはほとんど変わらず、ひと言ふた言口をきく程度だ。
 世界の終わりを防ぐ為だったとはいえ、珠紀を、そしてなによりも真弘を贄にしようとしたことは、珠紀の中で今でもわだかまりとなって残っていた。
 強引に、鬼斬丸の封印の儀をしようとした時のことを思い出す。
 珠紀を盾に真弘を従わせたことも、守護者の皆を道具のように使っていたことに対しても、怒りを覚えずにはいられなかった。
 それでも、口もききたくないと憎みきることもできないのは、ツヴァイに襲われた時、珠紀と真弘を前にしてため息のように吐き出したひと言があったからかもしれない。
「私は、間違っていたのかもしれない」
 それは悔い改めると言うよりも、ひたすら絶望している響きがあった。
 拠り所を失ったように、頼りなく響いたあの言葉は、非情なほどに『玉依姫』という役割を果たそうとしていた者が、紛れもなく己の祖母であることを感じさせた。
 それでも、割り切れない珠紀は、どこかぎこちないままに静紀に接している。
 廊下を進み、静紀の部屋の前でそっと深呼吸をする。気持ちを整えてから、声を掛けた。
「起きてますか?」
 襖越しに遠慮がちに言うと、「起きているわ。入りなさい」と声が返った。
 促されるままに襖を開けると、寝間着姿で、文机に向かう静紀が姿勢良く座っていた。
 
「役に立てることはなさそうね」
 一通り話し終えた珠紀に対し、静紀は表情を変えることなくそう言った。
「これまでも、得体のしれないカミがこの村に現れたことはあります。私も見たことがあるし、守護者が常世へ送り返したカミもいる。けれど、あなたが今話したようなものは、見たことも聞いたこともないわ」
「そうですか」
 仕方ない。やはり、蔵の書物を地道にあたろう。そう考えた珠紀は、もう一つの要件を切り出した。
「あの、お願いがあります」
「お願い?」
 静紀の持つ威厳めいた雰囲気は、どこか緊張を誘う。
 珠紀はその眼差しをまっすぐ見つめ返してから、手をついて頭を下げた。
「私に玉依姫の術を教えて下さい」
「術?」
 虚をつかれたような静紀の声に、そろりと様子を伺う。
 静紀は不思議そうに珠紀を見つめ、顔をあげなさい、と言った。
「おばあ……先代玉依姫は、ロゴスとも戦えるだけの力があったのでしょう? 私にも、そういう術を教えて下さい。今のままでは、先輩達に守って貰うばかりで、戦うどころか自分の身すら守れません。鬼斬丸を封印する以外にも、玉依姫にはカミを相手に戦える力があるんでしょう? それを教えて欲しいんです」
 補足説明とばかりに、珠紀は一息に捲し立てた。
「私があなたに教えられるようなものは、何もありません」
「そんな」
「珠紀。玉依姫は、あくまでも鬼斬丸の封印を守るために存在したのよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「でもっ」
「お聞きなさい、珠紀」
 頑是無い子供に言って聞かせるような表情の静紀は、先代玉依姫というよりも、祖母の顔をしていると感じながら、珠紀は口を噤んだ。
「霊力を使う……そうね、例えば結界術。そういうものを習うなら、卓がいいでしょう。他の守護者に術の扱い方を教えたのは、卓なのよ」
 そう言った静紀は、懐かしむように柔らかな笑みを浮かべた。しかし、それはすぐに消え去り、表情の読めない先代玉依姫の顔になった。
「先日の典薬寮の件、皆に話していないそうね?」
「はい」
「そう」
「いけませんか?」
 わけもなく責められているような心地になりながら、珠紀は言った。
 彼等に言えるはずもない。あなたたちを人間だと思えない人たちが、監視し、排除しようとしています、などとは。
 目の前にいる彼女ならば、はっきりと、そう宣告したのだろうか。
「いいえ。それがあなたの判断ならば、それもいいでしょう」
「玉依姫は……、玉依姫は鬼斬丸の封印以外には、いる意味がないんですか?」
「……。今の玉依姫はあなたです、珠紀。必要なことは、あなたに流れる玉依の血が教えてくれます」
 自分は答えなど持たない、と突き放すような言葉だ。けれどその声は、けして冷たくはなかった。
「あなたはあなたの信じる道を進み、そうして鬼斬丸をこの世からなくしました」
 信じる通りにやってみなさい、という祖母の言葉に、珠紀は頭を下げて部屋を辞した。