記憶の欠片 第3章 3度目の口づけ

 偽の真弘が出現して以来、守護者達は放課後に妖や幽霊を探し回り、珠紀は美鶴と共に蔵の書物を端から調べる日々が続いていた。
 しかし、なんの手がかりも得られぬままに、村の中では意識不明で病院に運ばれる者が徐々に増え、病は鬼斬丸を壊した祟りなのではないかと囁かれ始めていた。
 相変わらず村では幽霊を見たという話も出ているらしいのに、珠紀たちの前には何も現れないままに日ばかりが過ぎていく。
 珠紀は徐々に心の内に積もっていく焦りに、学校など休んで術の習得や調べ物をしたい衝動に駆られていた。
 それでもそうしなかったのは、親との約束があったからだ。
 鬼斬丸の件で奔走していた頃は、授業中も上の空だったことが多く、そのツケは今になって響いている。半月後に控えた期末テストはかなり厳しそうだというのに、この上更に出席日数まできわどくさせては、即刻村から連れ戻されてしまうに違いない。
 もっとも、学校を休んでしまえば真弘に逢うことも出来なくなるわけで、そう考えれば学校に来る時間も意味があるのだと思えた。
  
「春日、ちょうどよかった。今呼び出そうと思っていたところだ」
 次の時間は体育だ。
 更衣室で着替えた珠紀は、体育館に向かうべく、ひとりで廊下を歩いていた。
 常ならばクラスの誰かと一緒に向かうところだが、近頃では珠紀と級友との間には明らかな溝が生まれている。もっともそれはもともとあったもので、鬼斬丸の祟りという噂が出始めたことで、表面化しただけなのかもしれない。
 無視をされるとか、面と向かって文句を言われるわけではない。ただ、誰も必要以上に珠紀と話そうとはしないだけだ。珠紀が足を踏み入れただけで、教室の楽しげな雰囲気が一変するのを毎朝のように感じていた。
 拓磨がいてくれたおかげで、それについて深刻に思い悩むことはなかったものの、男女分かれての授業ともなれば、必然的にこうしてひとりで行動することとなる。
 珠紀を呼び止めたのは、ちょうど職員室から出てきた、クラスの担任だった。
「家から連絡があって、宇賀谷の婆様が倒れたそうだ。この病院に運ばれたと連絡があった」
 慌てた様子で差し出されたメモには、病院の名前と、電話番号が記されていた。
(おばあちゃんが……倒れた?)
 昨夜、風呂上がりに顔をあわせた静紀は別段変わった様子もなかった気がするが、なにがあったのだろうか。
 手元のメモに目を落としつつも、あまりに急なことで状況がよく飲み込めない。
 そんな珠紀に気付くことなく、担任は急かすように「松川先生には私から伝えておくから、このまま早退しなさい」と体育教員の名を挙げ、珠紀の肩を軽く叩いた。
「よろしければ、私が病院までお送りしましょうか?」
 背後から、やわらかな印象の声が掛けられた。
 振り返れば、チャコールグレーのスーツに身を包む長身の男が立っている。年は30に届くかどうかといったところだろうか。服装や雰囲気は教師のそれだが、この学校では見たことがない男だ。
「賀茂先生」
「来月からまたお世話になります」
 そう言って珠紀の担任に軽く会釈した男は、誠実そうな笑みを浮かべた。
「ちょうどこれから帰るところなんです。車で来ているので、よろしければそちらの生徒は、私が病院まで送っていきましょう」
「あの……」
「来月から産休に入る先生の代わりに、臨時教員として赴任してこられる賀茂先生だ」
 いったい誰なのかと戸惑ってふたりの顔を交互に見上げると、担任は手短にそう紹介した。
 賀茂は珠紀の前までゆったり歩んでくると、気遣うような眼差しで珠紀を見下ろした。
「薬師寺総合病院でしょう? バスでは本数がないし、これからタクシーを呼んだところでかなり時間がかかる。ご家族になにかあってからでは、後悔しますよ? 急いで向かった方がいい」
 なにかあってからでは。
 賀茂の言葉に、珠紀はハッとする。
 確かにその通りだ。凛とした佇まいに忘れそうになるが、静紀はそれなりの年齢だ。急に体調を崩すこともあるだろうし、万が一ということもないとはいえない。
「よかったじゃないか、春日。鞄は後で誰かに届けさせる。すぐ病院に向かいなさい」
「はい……よろしくお願いします」
 賀茂と共に校舎の裏手にある教職員用の駐車場に行った珠紀が助手席に収まると、車は静かに裏門から校外へと走り出す。 
 着替える間も惜しんで、ジャージ姿のまま早退してきた珠紀は、シートにもたれたまま、無意識に両の手を組んで握りしめていた。
 何があったんだろう。
 学校に電話してくるほどなのだから、よほど悪い状態に違いない。
 詳しいことがわからないだけに、嫌な状況ばかりが浮かんでしまう。
 
──おばあちゃん……
 
「ニ!」
 ふいに響いた声に、物思いから引き戻されると、いつの間にか膝の上に姿を現したオサキ狐が、何かを訴えるようにこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「なにがですか?」
 前方から目をそらすことなく、賀茂が口を開いた。普通の人間には、オサキ狐は見えないはずだ。賀茂は、珠紀が話しかけたと思ったのだろう。
「いえ」
 短く答えてなにげなく車窓の外に目をやると、車は山の奥へと向かっていた。
 病院の場所などよくわからないが、少なくとも総合病院などというからには村の外の大きな病院のはずだ。こんな山道を抜けた場所にあるのだろうか。
「あの……病院に、向かっているんです、よね?」
 近道なのだろうかと思いつつ、確かめるように訊くと、横目でこちらを見た男は薄く笑った。
「もちろんですよ」
 答える横顔は、別段あやしい雰囲気などない。ましてや、来月から学校に赴任してくる教師が、滅多なことなどするはずもない。そう思うのに、珠紀の中で何かが警鐘を鳴らしている。
 相変わらず物言いたげにこちらを見上げているオサキ狐を見つめながら、ふと疑問が生じた。
 メモに書かれた病院名を、なぜこの男が知っていたのか。
 思い至ると、現れたタイミングも、あまりに都合がよすぎるように思えた。
「あのっ」
「あなたが探しているものの所へ、案内してさしあげますよ。おとなしくしていなさい。玉依姫」
 玉依姫。
 その呼び名に、不審は決定的なものとなった。
 シートからやや身を起こした珠紀は、少しでも男から距離をとりたくてドア側に身を寄せる。
「……あなた、何者?」
 珠紀の警戒に呼応するように、膝の上のオサキ狐も緊張感をみなぎらせ、いつでも相手に飛びかかれるように身構える。
 男はこの場に不似合いなほどに落ち着いた声音で、珠紀を窘めた。
「あなた? 教師に対してその口の利き方はどうかと思いますよ?」
「嘘をつかないでっ」
「嘘ではありません。私はあの高校の教員です。来月からね。ただ」
 もったいつけるように言葉を切った男は、横目で珠紀を見ながら含み笑いを漏らす。
「所属は典薬寮ですが」
「──っ! おーちゃ…」
 呼びかけようとした瞬間、ぐんとアクセルを踏み込まれた。
 急な加速に、半身を起こしていた珠紀の体がシートに沈む。
「運転中に妙なことはしない方がいいんじゃないですか? お互いの為に、ね?」
 賀茂はそう言って、車のパワーウィンドウを開け放った。
 突如吹き込んだ強い風に乱された己の髪に気をとられた瞬間、賀茂は珠紀の膝の上にいたオサキ狐の背を素早く鷲掴みにして外に放り投げた。
「おーちゃん!」
 呼び掛けた珠紀の額に冷たい指先が触れたと感じた途端、珠紀の視界は黒く反転した。
 
 湿った土の感触を頬に感じながら目を開けると、草原に寝かされていた。
 身じろぎかけて、後ろ手に手首が縛られているのに気付き、一気に先ほどまでのことを思い出した珠紀は頭をもたげた。
「ここは……」
 忘れるはずもない場所。目の前にあるのは、かつて鬼斬丸が封印されていた沼だ。
 もっとよく周囲を見ようと体を起こしかけたが、足首まで縛られていてうまく起き上がることもできない。
「お目覚めですか? ちょうどいい。そろそろあれが帰ってくる」
 足下側からした声に首を巡らすと、賀茂が数歩離れた場所から無表情にこちらを見下ろしていた。
「どういうことですか? 典薬寮がこの村に干渉するのを、認めた覚えはないんですけど」
 きつく縛られた手首が痛む。
 これはもう干渉とかそういう類の話ではないのだとわかっていながらも、珠紀は精一杯の虚勢を張って、男を睨み付けた。
「認める? フフ、面白いことを言うんですね。あなたごときに認めてもらう必要なんてないですよ。異形の分際で、偉そうに」
「異形?」
「異形が気に入らないなら、化け物とでもお呼びしましょうか? 玉依姫」
 芦屋の言っていた排除の対象は、守護者だけを指していたのではなかったのだと、珠紀は瞬時に理解した。
「玉依姫。呼び名だけは綺麗ですね。とても村人の命を代々食い散らかして生きてきた女の呼び名とは思えない」
「何を、言って……」
「まんまと欺されましたよ。私はね、始めはあなたに……あなたたちに同情しました。鬼斬丸を封印できないならば、玉依姫とその守護者が命をもって封印する。鬼斬丸に関わる直接の担当部署ではなかった私でも、そのくらいは知っていた。だから、高校生で贄になるなんて、可哀想だと思っていたんですよ。でも違った。あなたたちこそが、贄になるべきだった」
 男は、珠紀に口など挟ませないとばかりに言葉を続けた。
「鴉取、でしたか? 彼を贄にしていれば、多くの村人は死なないで済んだんじゃないんですか? なぜあなた方がそれをしなかったのか、理解に苦しみます。まさに人の情を解さない、化け物の所行だ」
 見下ろす瞳に宿るのは紛う事なき、憎悪だった。そんなものを向けられたことのない珠紀は、本能的な怯えを抑え込んでどうにか声を絞り出した。
「そん、なの……、そんなこと、あなたに言われる筋合いはありません」
「筋合い? ではあなたは、贄になった人間にも、同じことが言えますか?」
「それは……」
「典薬寮でも、あなた方のことを世界を救った者だと評価している人間もいるんですよ。馬鹿馬鹿しい。そんなものは結果論に過ぎない。命を惜しんで、逃げ惑って、たまたま元凶を壊すことに成功しただけだ」
 たまたまなんて生易しいものではなかった。傷ついて、苦しんで、ギリギリまで命を削って成し遂げたことだ。
「何も知らないくせにっ」
「知っていますよ。本来贄になるべき異形が逃げ回ったばっかりに、多くの罪もない村人が、ただの場つなぎに捧げられた。違いますか?」
 違う、とは言い切れない。確かにそうだ。ロゴスと戦っている間にも、神隠しは続いていた。
 神隠しとは何か、それを止めるにはどうすればいいのか。知ってもなお、あの時、珠紀はそれをしようとは欠片も思わなかった。
 間違っていたのかもしれない。でも、間違っていたとしても構わない。
 正しくなくても、間違っていても。
 村人よりも、世界よりも、なにより守りたかったのは、あの時ただひとりだった。それは、今も変わらない。
「そうだとしても、鬼斬丸はなくなりました。これからはもう……」
「これから?」
 珠紀の言葉を無機質な声で問い返した男は、傍らに歩み寄ってきた。
「これから、だと!?」
 黒い革靴が、珠紀の腹に蹴りこまれる。衝撃に、息が詰まった。
「ふざけるな! 化け物を生かす為に、人の命を犠牲にしたことが正しいとでも言う気か!?」
 痛みを庇うように身を丸めたその背にも、強い痛みが走った。歯を食いしばって耐えるのがやっとで、声をたてることもできない。
「あれを贄にして、とっくに封印すればよかったんだっ! 鬼斬丸を壊せるならば、なぜもっと早く村に来てそうしなかった!」
 最後にもう一度珠紀を強く蹴り飛ばした男が、長く息を吐き出す気配がして、衝撃は止んだ。
 珠紀は痛みと、込み上げてくる吐き気を堪えながら、恐る恐る賀茂を見上げる。
 そこには、今まで見たこともないような、ぞっとするほど冷たい笑みがあった。
「玉依姫。鬼斬丸がなくなったこの世界に、あなたはいらない。せめてその命をもって、死んでいった村人に償わせてさしあげますよ」
 償う。誰に。何に。
 一方的に与えられた暴力に、恐れが先走って思考がうまくまわらない。
 それでも、今ここには誰もいない以上、自分でどうにかするしかないのだ。
「ああ、帰ってきたようだ。捧げられた命は戻らない。多くの犠牲者に糾弾されながら、みじめに食われて死ねばいい。大丈夫ですよ。すぐに仲間達も送り届けてあげますから」
 男のその言葉が合図だったように、じわりと空気が重くなる。淀んでまとわりつくような気が満ちて、周囲に霧が立ちこめていく。
 近づいてくるのは、凶悪な殺気。
 霧はどんどん濃くなっていく。
 やがて傍らにいるはずの賀茂の姿が白くかき消され、入れ替わるようにして現れたのは、残酷なほどによく知る相手だった。
「よぉ、珠紀。ひっでえ格好だな」
 制服姿の真弘が、呆れた顔でこちらを見下ろしていた。