飄 風

 翌朝は、まだ薄暗いうちに目が覚めた。
 庭は雨の名残を残してぬかるんでいたものの、今日はいい天気になりそうだった。
 ヒノエはいつ頃来るのだろうか。
 そわそわと落ち着かない心地でいた望美は、そういえば何も待たずとも帰ってしまえばいいではないかと思い至った。
「お世話になりました」
 帰る旨を伝えた望美に、丹鶴は迎えを待てばいいのにと制す。
「まだ道もぬかるんでおりましょう。馬が足を滑らせたら…」
「ありがとうございます。でも、待ってばっかりいるのも嫌で」
「そうですか。では、せめて供の者をつけましょう。坊やはその者と一緒に馬に乗せればよいでしょう」
 望美は再び礼を口にすると、丹鶴に深々と頭を下げた。
 
 まだ田辺の邸には、ほんの半月住んだだけだ。
 それでも見慣れた門構えが目に入ると、心がゆるゆるとほどけていくような心地になる。
 ここまで送ってくれた男に礼を言った望美は、馬から降りると馬上にいた男童を抱き下ろした。
 門をくぐり、馬番に多喜の手綱を預ける。
「ははしゃま、くる?」
 望美の手を握った子供は、じっと澄んだ瞳で見上げてくる。
「きっとすぐに会えるよ」
 柔らかな髪を撫でて答えた望美を、邸内から出てきた葵が「おかえりなさいませ」と出迎えた。
「ただいま。…ヒノエくんは?」
「……? まだお戻りではございませんが。ご一緒にお戻りではないのですか?」
「もしかして…昨日の夜、戻ってないの?」
 葵は、ヒノエが藤原の屋敷に泊まったものと思っていたのだろう。望美の問いに、さっと顔色を変えた。
(昨日はもう真っ暗だったし、雨まで降ってたし…)
「私、探しに行ってくるよ。この子をお願い」
 子供を葵に預け振り向くと、ちょうど門をくぐってヒノエが戻ってきたところだった。
 千利の背にはあの女がおり、ヒノエは手綱を引いて歩いている。
 望美がいることに気付かないヒノエは、馬を止めると馬上の女に手を伸べた。怖々と彼の首に腕をまわす女を地面に降ろしてやり、優しく微笑みかけながら、その手をとって歩き出し、ようやく望美の存在に気付いて顔をあげた。
 望美は弾かれたように駆けだした。
 渡殿を駆け抜け、邸の奥を目指す。
 塗籠の中に飛び込んだ望美は、そのままずるずると扉の前に座り込んだ。
 子供は、ヒノエの子供ではなかったと言っていた。
 それならばなぜ、昨夜戻らなかったという彼が、彼女と一緒に戻ったのだろうか。
 弾む息を宥めながらあれこれ思いを巡らせていると、トントン、と塗籠の扉が叩かれた。
「望美?」
 子供がヒノエの子供ではなかったとしても、彼女を側室に迎えることはできるだろう。
 見られていると知らなかったから、あんな風に彼女に優しく微笑んで、手をとって歩いたのだろうか。
 よくないほうに傾きかけた思考を、かぶりを振って追い払う。
「望美」
 思わず逃げ込んで来てしまったけれど、こんな所に座り込んでいても仕方ない。
 望美は呼吸を整えるように深呼吸して立ち上がると、その扉を開け放った。
 わずかな間でも暗さに慣れた目に、外の光は眩しく感じる。
「おかえり、姫君」
 そこには望美に見られたことを気まずく思っているという気配もないヒノエが、安堵を滲ませ立っていた。
「ただい、ま…」
「逃げなくても、いいんじゃない?」
「だって…」
「ふふ、妬いた?」
 悪びれた様子もなく、望美の顔を覗き込んでくる彼から、ふいと視線を逸らせると、すぐにその視界は遮られた。
「嘘だよ。ごめんな」
 抱きしめられて、ほぉと息をつく。
 ヒノエの匂いとぬくもりに、先ほど邸の門構えを目にした時のような気持ちになって目を閉じたものの、望美は慌てて身を離した。
「ちゃんと全部教えて」
「もちろんそのつもりだよ。おいで」
 ヒノエは頷くと、望美の手を握り、母子の待つ対に向かった。
 
 
    ◇  ◇  ◇
 
 
「ん~、やっぱり寛ぐ~」
 褥に仰向けで転がり、グンと伸びをした望美はそのまま目を閉じた。
 夕餉の後、久方ぶりに湯に浸かり、今までのモヤモヤもすべて洗い流せた気がする。
 藤原の邸にも風呂はあったが、彼女の感覚ではサウナに近い。もっとも、こちらの世界ではそのほうが一般的で、景時の邸にあったのもそれだった。
「田辺の邸の湯殿は、産再来の間にあの子が急いで作らせたのですよ。望美さんは湯に浸かるのが、好きなのでしょう?」
 丹鶴はそう言って笑っていた。
 最初から当たり前にあったと思っていたものがそうでなかったと聞かされて、望美はこそばゆい気持ちになった。
  
 あの女は、斎姫となるべく育てられた姫君だったのだという。熊野に住んでいながら、彼女を知る者がほとんどいなかったのは、神仕えをすべく、ほとんど人目に触れることがなく育ったからだそうだ。
 そんな彼女をたまたま遠目に見た男が想いを寄せて、本来男が触れてはいけないという禁忌を破り、忍んでいったのだという。
 身分もない己では相手にされないだろうと考えた男は、別当の名を騙った。
 やがて孕んだ女は、親の怒りに触れ山深い尼寺に押込められてしまう。
「そこで結婚するわけにいかなかったの?」
「斎姫を孕ませたなんて、まわりに言えなかったのさ。彼女にも、てめえが何者かってことを言っていなかったしね」
 それでもいつか妻に迎えると言いながら、男は女の住まう寺に忍んで通い続けた。
 やがて、別当は龍神の神子姫を妻に迎えるらしいという噂が彼女の元に届き、八方塞がりとなった男は、逢いに行くこともできなくなってしまったのだろう。
 男の足が遠のいて思い余った彼女の行動が、今回の出来事の発端となった。
「じゃあ、「父様」って言ってたのは…」
「尼寺ゆえ、殿方はあの方しかお見えにならず、殿方は皆、そのように呼ぶものと思いこんでしまったようです」
 耳飾りは藤原一族が集まった折に、ヒノエが落としたのを拾ったらしい。高価な物を贈ることができなかった男が、せめてもと贈ったのだと聞いて、さすがに望美も呆れてしまった。
「ま、あいつが本気で惚れていたってのがせめてもの救いだよな。もうすぐ迎えにくるからさ」
「本当に、なにからなにまで…。奥方様にも、本当になんとお詫びを申し上げたらよいやら…」
 双方の家には、湛快とヒノエとで既に話しをつけてあるのだという。
 昨夜、彼が邸に戻らなかったのは、彼女の生家に寄り、そのまま引き留められたからで、彼女を迎えに行ったのは今朝だったのだそうだ。
 熊野の前別当と現別当に間に入られては、認めざるを得なかったということか、こんな事態を引き起こしたことを不問に付してもらう為には仕方ないと考えたのか。
 いずれにしろ、丸く収まったのは確かだった。
  
「寝ちまったのかい?」
「起きてるよ」
 寝そべったまま目を開けると、濡れ髪に単衣を着たヒノエがいた。
 身を起こした望美は、傍らに座ったヒノエの肩に頭を預け小さく笑う。
「なに?」
「ううん。結局産再来と同じくらいかかったなぁと思って」
「いいや。一日多い」
 数えていたのかと思うと可笑しくて、望美はまた笑った。
「姫君は、日々楽しく過ごしたってことかな。オレはろくでもない噂まで立てられて、ったく、散々だったぜ」
「そんなこともないけど…。でも、ヒノエくんが女の人にすごく優しいんだってことは、よおくわかった」
「優しいって?」
「馬から下ろしてあげたり、手を引いてあげたり」
 そのくらいは普通のお姫様相手ならば、して当然のことなのかもしれない。
 けれど、それでも今朝ほど見た光景は、面白いものではなかった。
 口唇を尖らせた望美に、今度はヒノエが吹き出して笑う。
「身重の女は、丁重に扱わないとね」
「身重って…妊娠してたの?」
「ああ、あと三月ほどで産み月らしいぜ?」
 あの細い体で、身籠もっていたなど信じられない。
 それより、なにより。
「父親って」
「ああ、もちろんあいつだよ」
 望美が一通りの顛末を聞き終えた頃、男はやって来た。
 別当の名を騙るなど、どんな男かと思っていたが、気の弱そうな、優しそうな青年だった。
 ヒノエと望美と、そうして騙していた女にも詫びた男は、ととしゃま!と駆け寄った子供を愛おしげに抱き上げた。
「そっか…よかったね」
 夏には、あの子の弟か妹が産まれてくる。
 これからはあの子供が誰から構わず「ととしゃま」と呼ぶことはなくなるだろうし、人目を憚らず親子が揃って過ごせるのだ。
「いい迷惑だったけどな」
「ふふ、そうだね」
 もしも、あの子がヒノエの子供だったなら、自分は今こんな風に笑っていなかったに違いない。
 ふと過ぎった考えをまるで見透かしたように、ヒノエは、ねえ、と望美の手をとって指先に口づけた。
「オレは望美以外の女を妻に迎えたいと思ったことも、そう言ったこともないぜ?」
「うん」
 そうじゃない台詞は、きっといっぱい言ったに違いない。意地悪な考えが過ぎるけれど、今はそんなことは言わないでおく。
「あのね。あの子がヒノエくんの子かもしれないって思った時、すごく悲しかった」
「……堪忍な」
「うん。でもね、それでもやっぱり、私はヒノエくんが好きだなぁって思った。きっとまたこんなことがあっても、私はヒノエくんのこと、好きでいるんだと思う」
 そう言って、頬に口唇を寄せた。
「もう二度と願い下げだよ」
 疲れた声音で言ったヒノエは、照れて俯いている望美の袖をひくと、悪戯っぽく笑い、こっちはないのかい? と口唇を指さす。
 むぅと睨めば、瞳にはからかいの色が浮かんでいる。
 ねだりながらも、望美がするはずがないと思っているに違いない。
 なんだか悔しくて、望美が素早く口づけると、珍しく頬を赤らめたヒノエが驚いたように掌で口を覆った。
 ささやかな勝利の気分を味わって、おやすみ、と彼が何か言う前に褥に横たわる。
 柔らかに髪を撫でた感触がやみ、背中にそっとぬくもりが寄り添ってくる。
 藤原の邸では、あまり眠れない日々が続いた。
 だから本当は、今すぐにでも眠ってしまいたい気もするのだけれど。
 望美は、朝までには寝かせてもらえますように、とこっそり祈りつつ、背後のぬくもりのほうへくるりと寝返りを打った。

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