飄 風

 藤原の邸に着いて早々降り出した雨を、ヒノエは、げんなりと見つめた。
 この様子では、明日まで降り続くに違いない。
 まだ解決したわけではないけれど、ようやくすべてがわかったからには、一刻も早く望美を連れ戻したかった。急いた心のままにあんな文を送ったものの、この雨の中に連れ出せば彼女に風邪をひかせかねない。
(今夜は諦めるしかない、かな…)
 なんにしても湛快や丹鶴に事の顛末を報告しないことには、望美に逢わせてさえ貰えないだろう。
 ヒノエは望美に逢いたい気持ちを抑えながら、湛快たちのいる寝殿に向かった。
 
 邸からの連絡に急いで戻ったヒノエを待ち構えていたのは、聞いていた通り美しい女だった。
 あの噂のせいだろうか。どこかやつれた印象のその女は、ヒノエを見るなり切迫した声で懇願した。
「お願いでございます。別当殿とあの子に、逢わせてくださいませ」
「別当…殿?」
「お願いにございます。湛増殿とあの子に…」
 泣き崩れた女を前に、誰かがヒノエの名を騙ったのだということがようやくわかり、女が落ち着くのを待つ間、ヒノエは望美への文をしたためた。
 
「坊やの母君と会えたそうですね。積もる話はできましたか?」
 御簾をくぐったヒノエに、丹鶴は開口一番そう言った。
「ご機嫌麗しゅう存じます。母上」
 先日、挨拶もない、とふくれた丹鶴を思い出し、ヒノエは常ならば口にしないような挨拶でこたえ、彼女の前に腰を下ろした。
「すべて解決したような表情をして…。父君はあなたじゃなかったということかしら?」
「ずいぶん耳が早いね。親父は?」
「今宵は那智にお泊まりですよ。多富気のご当主とは、幼馴染みともいえる間柄だとか」
 隠居していても、やはり湛快の力は相変わらずのようだ。ヒノエが真実を知るのと同時に、あるいはそれよりも早く、事の顛末を知ったのだろう。
「やっぱりまだ隠居させるんじゃなかったぜ」
「ほほ、自分も濡れ衣を着る羽目になったのだから、今回ばかりはじっとしていられなかったということでしょう?」
 袖で口元を覆う丹鶴は、面白そうに目を細めるばかりで、ようやく事実が判明した安堵が見えない。
 もしやと思いつつ、ヒノエは問うた。
「母上、まさか最初から知ってたんじゃ…」
「まさか。けれど、おかしいとは思っていましたよ?あの坊やは殿方と見るやすべて「父様」と呼ぶんですもの。それからこれを」
 丹鶴はヒノエに、一枚の紙を差し出した。
「なんでもっと早く出さないんだよっ」
「まぁ…そんなに大きな声を出すものではありません。坊やが起きてしまうでしょう?」
 几帳の奥を指し示した丹鶴は、だって気付かなかったんですもの、とあっけらかんと笑った。
「坊やの帯の中が袋のようになっていて、その中から出てきたのです」
「これがあれば、もっととっくにわかってただろうが」
 それは牛玉宝印だった。
 牛玉宝印は、本宮・新宮・那智でそれぞれ描かれた八咫烏の数が違っている。
 その誓紙は那智のもので、藤原湛増の名であの女を必ず妻として迎え、幸せにする旨がしたためられていたが、明らかにヒノエの筆跡とは異なっていた。
「別に隠していたわけではないのよ。見つけたのは今朝なのですから」
 それならそれで今朝すぐに連絡をくれればいいものを。
 そうは思ったものの、今更言っても仕方のない。
「じゃあ、望美はあの子の父親はオレじゃないって知って…」
「えっ?」
 几帳の陰から聞こえた声に、ヒノエは思わず言葉の先を呑み込んだ。
「ふふ、声をたてては駄目と申しましたのに」
「望美…?」
 腰を浮かせたヒノエに、なりません、と丹鶴が制す。
「天岩戸をこじあけるようなことをすれば、二度と邸の敷居はまたがせませんよ?」
「そのつもりなら、とっくに攫って帰ってるよ」
 藤原の邸に忍び込んで、強引に逢うことも出来ないわけではなかった。
 今までそれをしなかったのは、真実がわからなかったからだ。わからないままに無理に逢って話し、かえって望美を傷つけることになるのが嫌で、そうしなかったにすぎない。
 ヒノエが再び腰を下ろすのを見届けて、丹鶴は再び口を開いた。
「望美さんには、まだ何も話しておりません。あなたが自分の口で、説明してあげなさいな」
「そのつもりだよ。そうは言っても、まだ本当には全部済んじゃいないからね。明日また迎えに来るよ。ね、望美?」
「あら、今宵は泊まっていけばいいものを」
「親父が多富気に行ってんなら、こっちはこっちでもう一方を抑えちまえば、明日で全部ケリがつくからさ」
 几帳の陰に居る望美は出てくる気はないようで、見つめていても身じろぐ気配すらない。
 がっかりしつつ、こんな我慢も今日までと思えば諦めもつくというものだ。
「さて、愛しい姫君の誤解だけは解けたからね。オレは帰るよ」
「──っ、ヒノエくんっ」
 ヒノエが立ち上がると、望美がひょっこりと顔を出した。
 久方ぶりに見る彼女を、抱きしめたい衝動に駆られたヒノエは、そんな己に苦笑する。
 今、触れてしまえばとても離せそうにないし、かといって、この一連の出来事を引き延ばすのは、もう一日でもごめんだと思った。
「その…あ、雨、雨降ってるし、気をつけてね」
「ああ。望美、明日は天岩戸があったって、攫って帰るぜ?」
 頬を赤らめた天照は、再び岩戸の陰に隠れてしまった。

1 2 3 4 5 6 7
  • URLをコピーしました!