飄 風

 薄墨に、周囲が溶けこみ始める日暮れ時。
 今日も可愛い新妻が、笑顔で出迎えてくれるものだと信じて疑わなかったヒノエを待ち構えていたものは、邸の者たちの困惑表情と、文机の上に置かれた一枚の紙だった。
 
『実家に 行きます』
 
 ただ一文。
 まだ筆に慣れない望美が綴った、豪快な「実家」という文字と、添えられたような「行きます」のひと言。
(実家…?)
 本来それは、生家をさすものだ。
 けれど彼女は、異世界から招来された龍神の神子姫。逆鱗を失った今、そう易々と帰れるはずがない。
「あの…おかえりなさいませ…」
 数瞬止まった思考をどうにか動かして、文を手にしたまま考え込む主に、部屋の入り口に控えた女が遠慮がちに声を掛ける。
 ヒノエは文を手にしたまま、そこから目を離すことなく、「これは?」と問うた。
「はい、その…奥方さまは、当分お戻りになられないとのことで…」
「もど…らない?」
 ドクリと跳ねた鼓動を押さえ込むように、どうにか声を吐き出す。
 逆鱗がないのに、時空を越えて、彼女は「実家」に帰ってしまったのだろうか。
 産再来から半月あまり。
 儀式を経ても、望美は神子としての力を失ったわけではない。逆鱗がなくとも応龍に呼びかければ、あるいは時空を越えて天津彼方へ渡ることもできるのかもしれない。
 それこそを何よりも怖れていた主の胸中など知るはずもない女は、ひどく簡潔に答えを返した。
「はい。奥方さまからは、追って来ないようにと伝言を賜っております」
 追ってくるなと言われるまでもなく、天女が月に帰ってしまったというなら、逆鱗を持たない唯人の身で追いかけることなど出来るはずがない。それは望美自身知っているはずだ。
 ならば。
「実家って…どこのことだか訊いてるかい?」
 追いかけられる場所だからこそ、彼女はそう言い置いて行ったのではないか。
 「実家」がいわゆる「実家」ならば、ずいぶんマヌケな質問をしている、と思う。それでもせめて届く場所に、追うことが出来る場所にいて欲しいと願いながら問えば、女は、藤原のお屋敷にございますと恭しく答えた。
 ヒノエは、すぐに踵を返した。
 常ならばその場で事の顛末を訊くくらいのことはしたはずだが、今はとてもそんな余裕がない。
 藤原邸で何かあったのだろうか。
 それとも、望美自身にだろうか。
 理由はわからないが、わざわざこんな文を残し、しかも追ってくるななどと言い置いて行ったなら、単に遊びに行ったということでもないはずだ。
 逸る心のままに厩に向かうと馬番の姿はなく、二頭の馬が仲良く並んで桶に盛られた草をはんでいた。
 この田辺の邸には、馬が三頭いる。一頭はヒノエが元々常用していた黒鹿毛の千利。もう二頭は婚儀の祝いにと八葉たちから贈られた、栗毛の多喜と葦毛の吹喜だ。
「京や鎌倉まででも駆けられる馬ですよ。ヒノエに愛想が尽きたら、いつでもこの馬で駆けてきてください」
 祝いの席に駆けつけた弁慶は、そう言って望美に馬たちを引き合わせた。
 二頭は馬に目の利く九郎が選んだというだけあり、吹喜はヒノエの千利と同じくらい早く走るし、多喜は重い荷をものともせず歩く。よく言葉を解す賢さで、一度往復しただけで田辺の邸から藤原の邸への道を覚えてしまったほどだ。
(多喜で出掛けたのか…)
 急いでいる時は吹喜だね、と笑って言った望美の様子を思い出しながら、そこまで火急の出来事ではなかったのだろうかと考えつつ、ヒノエは馬番に鞍をはずされたばかりであろう己の馬に、はみをつけ鞍を載せた。
 戻ったばかりで、食事を中断されての外出に、千利が不服そうにいななく。
 その背に飛び乗り、いなすように首筋を撫でていると、戻った馬番が馬上の主を認め、両手に下げた桶の水をはねさせながら駆け寄って来た。
「お出かけでございますか?」
「ああ。望美は多喜で?」」
「はい。未の刻頃にお出かけになりました」
 それならば、もうあちらに着いているだろう。
 馬番の言葉に頷いて応えたヒノエは、千利の腹を蹴り、藤原の邸を目指して駆け出した。

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