飄 風

「せめて墨汁があればなぁ…」
 望美は、ほぉと溜息を落としながらせっせと墨をすっていた。
 手習いをしようにも、まずはこうして墨をすらなけらばいけないのが、この世界の辛いところだ。
 
 一年余り──逆鱗を使ったことを考慮すれば、実のところおよそ二年。それだけの時間を京で過ごしながら未だろくに読み書きが出来ないのは、それを今まで必要としなかったからに他ならない。
 婚儀を済ませてからおよそ半月。
 始めの数日は、しきたりに乗っ取った本宮を始めとする熊野三山への挨拶まわりで、ヒノエと共に忙しく過ごした。
 けれど、それらを一通り終えてしまってからは、望美にはやらなければならない仕事というほどのものはない。邸には下働きをする手は他に十分あったし、なにもわからない望美が手伝うほうが却って他の者の足を引っ張ってしまう。
 せめて、婚儀によせて贈られた祝いの品の数々を整理しようと目録を手にして、彼女は呆然とした。
(全然、読めない…)
 望美にとっては古文書に見える筆文字は、読める字が混ざっている気がする、という程度しか解読できないものだった。
 誰から何を贈られたかを把握するだけでなく、生活していく上で、こちらの世界の文字に慣れるのは必須に違いない。
 文字を覚えたい。
 そう言った望美に、ヒノエは「いいねぇ」と笑った。
「なんならこれから改めて、文のやり取りでもするかい?恋の歌とか…ね?」
 ひらがなと、望美が覚えていた百人一首の歌。彼女が書いたそれらの隣に、手習いの手本となるようにひと文字ひと文字、ヒノエが文字を書き入れていく。
 大きさも不揃いな文字の横に並ぶ流麗な文字に、望美は盛大に溜息をついた。
「うぅ…やっぱり全然読めないよ」
「お前なら、すぐに覚えちまうと思うけど?」
「そうかなぁ?」
「ふふ、姫君からの恋文を楽しみにしているよ。ま、文よりも耳元で囁いてくれるほうが、オレとしては嬉しいけどね」
 意識してやっているに違いない艶めいた彼の眼差しに胸を高鳴らせながら、望美はヒノエから視線を逸らした。
「こ、恋文じゃなくて、朔や皆に普通に手紙が書きたいよ。お祝いのお礼も伝えたいし」
「つれないね。じゃあオレがおくるよ。夜ごとの睦言も、姫君の耳にどのくらい届いているか、わからないしね」
「~~~っ」
 含み笑いのヒノエに何か言い返したくても、咄嗟に言葉が見つからない。
 初夜以来、彼とはほぼ毎夜肌を合わせていた。
 始めは穏やかに寄せる波も、すぐに奔流となり、望美を一息に熱の中へと押し流してしまう。囁かれる言葉の意味など、解す余裕のないままに翻弄されつづけ、知らぬ間に眠りに落ちるのか、いつも気付けば朝だった。
「文を書くのがこんなに楽しみだったことはないぜ」
 頬を赤らめる望美の額に口づけたヒノエは、楽しげに言って目を細めた。
 
 来客が告げられたのは、望美が墨をすり終えて、さあこれからと筆を手にしたその時だった。
 
「あの…失礼かもしれませんが、本当にヒノ…、その…当家の主の子供なのでしょうか?」
 望美の言葉に激昂することなく、女は穏やかな声音で、はい、と頷いた。
 
 邸の者に案内されてやって来たのは、思わず望美が見惚れてしまうような綺麗な女性と、小さな男の子だった。
 子供は母親に倣って腰を下ろしたものの、望美と目が合うと、恥ずかしそうに母の袖の陰に隠れてしまった。そんな子供の所作を困ったように、それでも愛しげに見つめた女は、突然の来訪を詫びる挨拶を口にする。
 女は二十代前半ほどだろうか。透けるように白い肌と、品のよい物腰は、邸に籠もって生活するような、それなりの身分を容易に想像させるものだった。藍色の理知的な印象を与える瞳を寂しげに伏せた女は、挨拶を終えると袖の陰に隠れた子供をそっとその前に引き出して、「湛増殿のお子です」と望美に告げた。
 
 
「奥方様がにわかに信じがたいのはごもっともでございますが、確かにこの子は、水軍の頭領、別当殿のお子なのです」
「……」
「あの方は私を妻にしてくださると約束してくださいましたが、こたび貴女さまを娶られたとのこと。仮にも神職のあの方が、嘘をおっしゃったとも思えず今日までこの子を大切に育てて参りましたが…」
 女はそこまで言うとそっと目元を袖で拭い、せめてこの子の行く末をお願い致しますと、床に指先を揃えてつき、深々と頭を下げた。
 訊くべきことはたくさんあるように思えた。しかし、何を訊いても仕方がないようにも思えた。
 ヒノエが今まで数々の浮き名を流してきたことは、その言動から察していた。でも、だからといってその事実を、こんな風に目の前につきつけられる羽目になるなど誰が思うだろう。
 
『私を妻にしてくださると約束してくださいました』
 
『湛増殿のお子です』
 
 沈痛な面持ちの女二人の間で、何も知らない幼子だけが、どこか遠慮がちに、そっと望美の袖を引いて照れ臭そうに目を伏せる。
 その長い睫は、母親譲りなのだろうか。
 望美はそんなことを思いながら、恐る恐る子供に手を伸ばし、頭を撫でた。
「これはあの方が心の証にとくださった、耳飾りの片方を首飾りになおしたもの。しばらく別当殿のお渡りがないままに時が過ぎ、この子もずいぶん大きくなりましたが、これをお見せになられれば、あの方も信じてくださいますでしょう」
 震える声を抑えて言った母親に、幼子はそっと歩み寄り「ととしゃま、くるからなかないで」と垂れた髪を一房掴んで引っ張った。
 望美はその言葉に、なにかを堪えるように俯いて両の手をぎゅっと握りしめた。
 ヒノエと自分が一緒にいる間も、女は彼を待ってこんな風に泣いていたのだろうか。
 子供は、そんな母親を慰めていたのだろうか。
 そんな同情めいた思いと。
 いきなり現れた子供に、ヒノエを「ととしゃま」などと呼ばれたくはないという気持ちと。
 様々な思いが入り交じり、口を開くことが出来なかった。
「そうね。父様がお戻りになるまで、奥方様といい子にして待っているのですよ」
「ははしゃまも、いっしょにいいこでまっているのね?」
「いいえ。母は行かねばなりません。よいですね? いい子で待っているのですよ?」
「うん」
 二人のやり取りに、望美は顔をあげた。
「子供だけ…置いて行くんですか?」
「……。別当殿のお気持ちが、今の私にはわかりません。ただ、子供だけは…」
 どうかよろしくお願い致します、とそう言って女は静かに立ち去った
 誰か一人くらいは、一緒に部屋に居て貰えばよかったかもしれない。そうすれば、もう少し何かいろいろ訊くことができたはずだ。
 そんな風に思考が動き出したのは、女が立ち去ってから、しばし後。邸の者──葵が、望美の元にやって来て、我に返った時のことだった。
「お方さま、そのお子はもしや…」
「はは…ヒノエくんの子だって」
 薄々察していたのだろうか。
 葵はさして驚くこともなく、ただ返答に困ったように曖昧に頷く。
「これは、喜ばなくちゃいけないのかな?」
「は? どういう意味にございますか?」
「だって、この子は男の子でしょう?跡継ぎが出来たって…喜ばなく…ちゃ…」
 言いかけた語尾は、震えて小さく消えていった。
 こちらの世界では、妻は一人とは限らない。
 わかっていたはずのことを、少しもわかっていなかったのだと望美は思い知った。
 ヒノエは確かに「妻は望美だけだ」と約束してくれたし、その言葉を疑う気はない。
 しかし、こんな風に、出逢う前の出来事を突きつけられてしまえば、やはり「責任」をとるべきだろう。
(そもそも、ヒノエくんが悪い!)
 望美の混乱した気持ちは、ヒノエへの怒りとなってふつふつと集約し始めた。
 『妻にする』などと言ったなら、その約束は守るべきだ。
 そんな女が他にいると知っていたら、こんな風に熊野に嫁いでくることなどなかった。
(多分…ううん、きっと…)
「あの…お方さま?」
「帰る…帰ります」
「は?」
 夕刻には、いつものように彼が帰ってくるだろう。
 今はとても逢いたくなんてないけれど、ここが彼の邸である以上、追い返すわけにもいかない。
 ならば。
 望美は手近にあった筆で、『実家に』と書いて手を止めた。
 帰れるはず、ないじゃない。
 逆鱗は、既にない。時空を越えられない以上、望美が帰る場所など、どこにもありはしなかった。
「あの…お帰りになるとは、よもや奥方さまの世界のことにございましょうか?」
「それは…無理だったね」
 ヒノエに嫁ぐということ。
 異世界で、花嫁になるということ。
 それは、こんな時に帰る場所もないことかと、望美はひどく寂しくなった。
「ととしゃまいないくて、さびしいの?」
 幼子が、先ほど母親にしたのと同じ仕草で、望美の髪を一房引っ張った。
「う…ん…」
 どちらかといえば、逆だった。
 彼に逢えば、みっともなく泣いたり、責めたりしてしまうに違いない。それはなんだか悔しかったし、少しでも時間を置いて、頭を冷やしたい気持ちもあった。
 この子を邸の者に預けていくのも、なんとなく無責任な気がするし、かといって望美だけで幼子を連れて、京や鎌倉に行けるはずもない。
(どうしよう…)
 ふと、丹鶴の言葉を思い出した。
『ここを実家だと思って、いつでも遊びに来てくださいね』
 社交辞令だとわかっているけれど、今は他に行ける場所などない。
 わざわざ書き直すのもなんとなく癪で、あながち間違いでもないと思われる言葉を紙に書き足すと、彼女は幼子の手をとって立ち上がった。

1 2 3 4 5 6 7
  • URLをコピーしました!