飄 風

「帰りましたよ。明日も来ると言っていました」
 池の鯉を見るともなしに見ていた望美は、丹鶴の声に振り向いた。
 その腕には、先ほどまで昼寝をしていたはずの男童が指をしゃぶって抱かれている。
 申し訳ないと思いつつも、子供の世話は丹鶴や邸の女房に任せきりにしていた。子供の世話などしたことのない望美ができることは限られていたし、なによりもその姿を見続けるのは、やはり少し苦しかった。
「起きちゃったんですね」
 望美は丹鶴の言葉には敢えて答えず、歩み寄って子供の顔を覗き込んだ。
 未だ名前すらわからないこの子供は、夜や寝起きは母親の姿を求め、手がつけられないほどに愚図る。
 今もまだ寝起きで機嫌が悪いのか、望美が頬をぷにと指で突いても、プイとそっぽを向いてしまった
「ええ。愚図って皆が困っていたので、庭を散歩しようかと連れてきました」
「そうですか。私も一緒に散歩しようかな」
 藤原の邸に来てから五日あまり。
 忙しいはずのヒノエは、毎日こちらの邸に足を運んでいた。
 穏やかな昼下がり。暑くも寒くもないこんな日は、絶好の散歩日和だ。
 それでも少しも晴れない気持ちを引きずりながら、池の縁を丹鶴と並んでゆったり歩く。
 なにも訊かない丹鶴に、望美はひとつ息を吐いて切り出した。
「本当は、こんなことじゃいけないって…認めなくちゃいけないってわかってるんです」
 側室を持つことも、そういった存在が子供を産むこともある。それがこちらの世界の習慣ならば、認めてしまうしかない。
 こんな風に、いつまでも夫たる男と逢うことすら拒んでいてはいけないと、幾度も自分に言い聞かせていた。
 けれど、頭ではわかっていても、どうしても心が納得しない。
 ヒノエが一番大切にしているのは熊野だということは納得しているし、そんな彼だから好きになったのだ、と思う。
 寂しくないといえば嘘になるけれど、それでいいと思えるのは、三番目や四番目がないからだ。
「言葉は、一度話せば言霊となります。わかっていないことを、わかっているなどと言うものではありませんよ」
 望美の心を見透かすように、労るような笑みを浮かべ丹鶴が窘めた。
「はい…ごめんなさい」
「ほほ、本当に望美さんは素直な姫君だこと。怒ってよいのですよ。天津彼方の世界では、認めなくてはいけないことではないのでしょう?」
「はい」
 目の前を白い蝶が過ぎり、それに手を伸べた子供は丹鶴の腕の中で身をよじる。
 丹鶴が歩みを止めてそっと降ろしてやると、歓声をあげながら男童は蝶を追いかけ駆けだした。
「ここは熊野。郷に入りては郷に従えというけれど、怒りたい時には怒っていいのです。殿方は甘やかすとつけあがりますから」
「……」
 自分はどうしたらいいのだろう?
 はしゃぐ子供の姿を見つめながら、もうずっと答えの出ない問いを、望美は再び己に投げかけた。
 逢ったら、怒って責めてしまいそうな気がした。泣いて、感情をぶつけてしまいそうなのが嫌だったし、そうしてはいけない気がした。
 でもいっそ、そうしたらよかったのかもしれない。
 泣いて、怒って、少しくらいは言い訳を聞いて。
 そうすれば、こんなモヤモヤした気持ちを割り切ることができただろうか。
(きっと、無理だね…)
 自嘲めいた気分で俯いた望美に、丹鶴は子供から目を離すことなく言った。
「あの子も、あっという間に大きくなってしまうのでしょうねぇ」
「そう、ですね」
「ねえ望美さん。私、湛増のことはなんでもわかっているような気がしていたの」
「え?」
「湛増は邸を出ていることも、熊野を離れていることも多かったから、なにをしているか全部を知っていたわけではないけれど…」
 男童をからかうようにひらひらと手が届きそうな場所を舞っていた蝶は、ついに手の届かない高さに飛び去ってしまった。
 しばらく空に手を伸ばしていた子供は、やがて諦めたように手を下ろすと、望美の方に向き直り一目散に駆けてきた。
 戸惑いながら跪くと、小さなぬくもりが望美の首筋にきゅっと抱きつき、ちょうちょうさんいっちゃったの、と残念そうに報告した。
「あの子がこんなにたったひとりを大切に想うだなんて、思いもよらなかったわ。あなたの為なら、あの子は深草の少将のように百夜通いもしそうだもの」
「深草の…少将?」
「ええ。好きになった姫君の心が欲しくて、百夜通うと約束した殿方のお話」
「ああ、小野小町…でしたっけ?」
 そこまで聞いて、望美は古典で習った話を思い出した。
 男に求愛された小野小町は、百夜通ったならばその想いを信じましょうと答えた。深草の少将は、雨の日も風の日も彼女のもとに通ったが、百夜目の大雪の日には姿を見せず、翌日雪に埋もれ、冷たくなって見つかった、という話だ。
「ふふ…誰に似たのか考えるまでもないけれど、あちらの姫こちらの姫とふらふらしていた湛増がねぇ。わからないものだわ」
 独りごちるように頷いた丹鶴は、子供を抱き上げた望美の頭をそっと撫でて微笑んだ。
「十夜でも百夜でも、ここでゆるりとして過ごしなさいな。久しぶりに子供の相手をするのも楽しいし、こうして望美さんがいてくれるのも嬉しいわ」
 丹鶴は、望美がもう生まれた世界に帰ることができないと知っているのかもしれない。
 その心遣いが嬉しくて、なんだか泣きたいような心地になりながら頷いた。
「明日は、貝合わせでもしましょうね。私、本当は娘が欲しかったのよ。なんならずっとここに居て欲しいくらい」
「そ、それはちょっと…」
「あら、帰るつもりはあるのね。それならあの子も喜ぶわ。教えてあげないけれど」
 二人だけの秘密とばかりに、唇に指をあてて悪戯っぽく微笑む丹鶴の顔は、まるで少女のようだった。
 なんとなく、ヒノエは案外丹鶴似なのかもしれないなどと思いつつ、望美も釣られて微笑んだ。

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