飄 風

 長い間熊野を留守にしていたツケは大きく、婚儀以来、ヒノエはひたすら仕事に追われる日々だった。
 あと十日たらずで本宮の祭祀があるし、夏越の祓までには滞っていたすべてのものを常通りにしてしまわなければならず、片づけても片づけても、涌き出るようにやらねばならないことが舞い込んでいた。
 けれど今、ヒノエが湊に座り込んで溜息をついているのは、そんな疲労感からではない。
 あの出来事以来、もう五日も望美に逢っていなかった。
 時間を見つけては藤原の邸に足を運んでみるも、望美は頑なにヒノエに逢おうとはせず、申し開きをすることもできずにいた。
 そもそも、申し開きできることなのかすら、まだわからないままだ。
 あの日、ヒノエが昼に一度戻り、再び出掛けてから、その女は訪ねてきたのだという。
 熊野では見かけたことのない女で、京人のように洗練された、とても綺麗な女だったらしい。
(烏を置いとくべきだったぜ…)
 邸の者がいれば望美には十分目が届くし、烏を配しておくこともないだろうという判断が、仇となってしまった。
 烏を置いておけば、女の後をつけて、どこの邸に住まう者か調べるくらいはしたはずだった。
 もっともそんなことを考えてみても、後の祭で、今はどうにかしてその女を捜し出すしかない。 
 女が残した、元は耳飾りだという首飾り。それは確かにヒノエの物だった。
 以前は好んで、よく身につけていた物で、特別に作らせた一対のそれは、同じ物が他にあるはずのないものだ。
 そういえば、あの耳飾りはどうしただろうか。
 落としたのか。
 女にくれてやったのか。
 気に入ることはあっても、およそ執着することなどなかったヒノエは、それすらまったく覚えていない。
 女も同じだった。
 どうやっても手に入れたいなどと思ったのは望美が初めてのことで、それまで妻にしたいと思った女になど出逢ったことはない。
 望美は、訪れた女がヒノエが『妻にしてやる』と約束していたと言ったらしいが、それだけはないと誓って言える。
 しかし、首飾りは確かに己の物で、それが証だと言われてしまえば、ヒノエ自身あの子供が自分の子ではないと否定することはできなかった。
「よぉ、大将。そこでボケーっとアホ面さらしてんなら、どいてくれ」
「んだとぉ?」
 水夫衆なら縮み上がりそうな剣呑な声音も、この男には通じない。
「クック、嫁に逃げられたって? ご愁傷様」
 ヒノエは舌打ちして立ち上がると、自分よりも頭ひとつ背の高い男を睨み上げる。
 見るからに不機嫌な頭領の様子など少しも気に掛けないように、サカキはさも楽しそうに言葉を続けた。
「母親を捜してるって? あれだな、昔の女の家を一軒一軒訪ね歩くか?」
「まさか、からかいに来ただけってんじゃねえだろうな? 烏の若頭が、手ぶらってこともないだろ?」
 サカキはヒノエの五つ年上で、烏の長の孫にあたる。
 今現在、一族を取り纏めているのは長でも、実働部隊を動かしているのは、このサカキだ。
 幼い頃から共に野山を駆けながら烏の使う抜け道を教えてくれたのも、国同士の力関係や時勢の見方を教えてくれたのも、この男だった。
 烏は、熊野を守護する者に味方し、守る一族だ。だからといって、彼らは熊野別当の配下として、意のままに動くだけの存在ではない。
 些末な私利私欲の為に烏を利用し続け、烏の長の不興を買ったおかげで、別当の座を退く羽目になった者もいたと聞く。
 ゆえに、彼らを動かすのは熊野を守る為か、一族に危険がある時に限るべきで、ヒノエはこの件に関して烏になんら命令を下してはいなかった。 
「別当殿からは、特になんの命もなかったはずだぜ?」
 舌打ちをして髪をかきあげたヒノエは、そうだな、と肩を竦める。
「ま、餌はまいといたさ、大将。何か釣れたら、届けてやっからよ」
「ああ、頼むぜ」
「しっかし、あれだな。本家の嫡男は嫁に逃げられ、分家では誓紙を取り消せないかって聞いてまわってる輩がいるってぇし…烏の一族も、そろそろ藤原を見限る時かねぇ」
「誓紙を?どこの阿呆だい、そいつは」
 『逃げられた』などという言い回しに引っかかりを覚えつつも、ヒノエは『誓紙の取り消し』などという、熊野では考えられないことを言っている人間がいることが気になった。
 誓紙とは、牛玉宝印のことで熊野の神への誓い──起請文だ。
 一度神に誓ったことが、そう容易く覆せるはずもなく、誓いを破れば熊野の神の使いである八咫烏が現れて、その者を補陀落の彼方へ連れ去ると言われていた。
「多富気んとこの、三男坊だよ」
「多富気──ねぇ。那智だって祭祀も近いだろうに…罰当たりがいたもんだ」
 多富気といえば、那智を預かる藤原の分家筋にあたる。あの家の三男とは、どんな男だっただろうか。
 そんなことを思いながら、呆れたように鼻を鳴らしたヒノエの頭をサカキが軽くこづいた。
「可愛い花嫁を早くも泣かしてるお前も、充分罰当たりだろうが」
 ヒノエはヒノエなりに、あの女を捜してはいた。
 子供の歳は、丹鶴の見立てて三歳。
 他国から子連れで熊野詣に訪れた者や、その年頃の子がいた邸も水軍衆に力を借りて調べてはいるが、それらしい情報はまだ得られない。
 通った女を考えてはみたが、なにしろあの頃は花々を手折る楽しみを覚えたばかりで、いちいち相手のことなど覚えてもいない。
 色恋は、時を彩る花のようなものだと思っていた。
 愛で、愉しみ、ほんのひと時退屈を忘れるさせる泡沫のようなもの。容易く手に入り、留めておこうと執着するほどでも、欲しがって手を伸べるようなものでもなく、やがて色褪せ、散りゆくばかりのはずだった。
 手酷いことをしてきたつもりはないが、今こうして望美という存在を得てみれば、やはり酷いことをしていたのかもしれない。
「罰、か…」
 考え込んだヒノエに、サカキは吹き出して笑った。
「お前にそんな表情をさせる姫さんなら、こりゃぜひとも引き合わせて貰いたいもんだ。せいぜい頭を下げて、帰って来て貰うんだな」
 謝る程度では、到底あの天岩戸は開かれないだろう。
 ヒノエは恨めしげに太陽を見上げ、深い溜息を放った。

1 2 3 4 5 6 7
  • URLをコピーしました!