飄 風

「思ったよりも早かったですこと」
 足音荒くやってきた息子に、丹鶴は畳の上でおっとりと目を細めた。
 室内では見知らぬ男童が、藁で編んだ馬を手に遊びに夢中になっていた。
 どこの子供を預かっているのかと訝しく思ったものの、今は望美のことが先決だ。門番の男に彼女の到着を聞き少なからずホッとしてはいたものの、やはり姿を見るまでは安心できない。
「母上、望美はどこですか?」
「ま、挨拶もなくそれですか? 私はあなたをそのような礼儀知らずに育てた覚えはありません」
 豊かな黒髪を揺らし、つんとそっぽを向く仕草は、それなりの歳の女とも思えない振る舞いだが、そんなことは今に始まったことではない。
 少しばかり呆れつつ、常通りの母の様子にそれほどの事体ではないのかもしれないと考えたヒノエは、「母上」と溜息混じりに呼びかけた。
「望美さんならば、東の対におりますよ」
「では」
「会いたくないそうです」
「は?」
 いいからそこにお座りなさい、と己の正面を指した丹鶴は、怪訝な表情で座すヒノエを見届けると、一人遊びに夢中な子供の方へ向き直り、その白い手でそっと招きながら声をかけた。
「坊や、こちらにおいでなさいな」
 呼びかけられた子供は、年の頃は二歳か三歳か。
 丹鶴の呼びかけに、馬の玩具を手にしたまま顔をあげた。そうして首をめぐらせ、初めてヒノエの存在に気付いたとでもいうように、ぱっと顔を輝かせる。
「ととしゃまっ」
「──っ!?」
 ととしゃま、ととしゃまと歌うように繰返しながら、まっすぐトテトテとヒノエに歩み寄ると、腕の中にぽすんと飛び込んでくる。その幼子の重みを、呆然としながらも条件反射のように受け止めたヒノエは、しばしそのまま固まった。
「あらあら、よく懐いていること」
 感心したような母親の声に、ようやく我に返る。
 それは。
 つまり。
「オレの子っ!?」
 動転したままに腕の中を見れば、大声にびっくりした子供は、けれどすぐに楽しそうに、にぱっと笑みを浮かべた。
 なにがなにやらわからない。
 望美を追って来ただけのはずが、どうして今、自分の子供なるものが、この腕の中にいるのだろか。
 混乱した頭のままに、改めて幼子をまじまじと見つめる。
 大きな目で一心にこちらを見つめる男童は、ヒノエの頬を楽しげにピタピタと叩いた。頬に触れる柔らかなぬくもりを、させたいままにさせるうち、そうかこれが原因かと思い至り、長く息を吐きだした。
「ととしゃま、あしょぶ?」
 抱き上げて膝から下ろして見つめてみても、自分の子だなどいう実感がわくはずもない。
「ほぉ、可愛い嫁が来たと思ったら、もう孫か?」
 背後から、揶揄するような声が響く。
 振り返るまでもなく湛快が帰ってきたことがわかり、ヒノエは舌打ちした。
「あら、今日は遅くなるのではなかったのですか?」
「おう。面白れえことになってるって聞いたからな。へえ、そういや、お前のガキの頃によく似てるじゃねえか?」
 大方、烏が知らせたのだろう。
 湛快はヒノエの隣に膝をつくと、息子にまとわりつく子供の頭を撫でながらその顔を覗きこんだ。
(似ている? そうだろうか…)
 考えようとしても、混乱した頭ではうまく考えることもできない。
 男童は突然現れた湛快を興味深げに見上げると、ヒノエに向けたのと同じ人懐こい笑顔を浮かべた。と、次の瞬間、その場が凍り付いた。
「ととしゃまっ!」
 小さな手をいっぱいに広げて、幼子が今度は湛快にしがみつく。
「……おい」
「あなた…?」
 湛快の首に腕をまわそうと、一生懸命背伸びしてしがみつく子供の様子に、丹鶴のこめかみがピクリと動いた。
「あんたか、クソ親父っ!」
 沸点に達した感情のままに、すっくと立ち上がり声を荒げる。
 湛快に手を伸ばしていた子供の動きがぴたりと止まり、怯えたように眉が寄せられたのも今のヒノエには目に入らない。
「ばばばばば馬鹿言うな!」
「な・に・が「よく似てるな」、だ! アンタの子だからだろうがっ!」
「ま、待て! ぜってぇ違う! ああ、違う! 権現さまに誓って言うが、違うぞ? 丹鶴」
 平家の怨霊に取り囲まれても、ここまでの態は見せないであろう勢いで狼狽えた湛快は、そう言って冷ややかな目をした奥方に向き直った。
「ふ、ふえぇん」
 怒気や困惑の入り交じった異様な雰囲気に耐えきれず、子供はとうとう泣き出して、丹鶴へと駆け寄った。その小さな体を受け止めながら、丹鶴は呆れたように溜息をもらす。
「あらあら、身に覚えがある方たちは大変ですこと」
 幼子の背中をあやすように撫でるその手の優しさとは対照的に、なんの感情もこもらない冷たい声が発せられ、湛快もヒノエも二の句が継げない。
「………」
「湛増。望美さんはこちらにいるし、田辺の邸はひとりで過ごすには広いでしょう? 久しぶりに父上と水入らずというのもいいんじゃないですか? ねぇ、あなた?」
 暗に息子の邸に行ってしまえと湛快に告げる丹鶴は、にっこりと、少しも笑っていない目で微笑んだ。
「ちょ、ちょっと待て。こら、お前がよそでガキなんぞ作るからっ!」
「それはこっちの台詞だろっ。親父があちこちでさかってるから、こっちが迷惑…」
「とにかくっ」
「……っ」
「……!」
「この子の母親を探して、連れて来てくださいな。望美さんの話では、これを見ればわかると話していたそうですよ?」
 そう言って丹鶴が差し出したものを見つめ、ヒノエは静かに息を呑んだ。

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