昨日まで、夜更ともなれば社は闇のなかに溶けこみ、境内にはただ静寂があるばかりだった。
神世降が始まってからは、毎朝日の出と共に起き出す生活だったから、昨夜も既に眠りについていた頃だろう。
そんなことを考えながら、望美は格子越しに外の様子を眺めていた。
参道の両脇に並ぶ灯籠すべてに灯りがともされ、拝殿の入口の両脇と、望美のいる斎館の前とに篝火が煌々と揺らめいている。
いよいよ産再来の時が迫っていた。
ここに来てからは、白い小袖と紅袴、蘇芳の単に白い袿という衣ばかりを纏っていた望美だったが、今夜は特別だからか、夕刻の最後の沐浴の後は、何から何まで白いものを着せられ、髪飾りをつけることはなかった。
室内には巫女がひとり座していたものの口を開くことはなく、望美もなんとなく何も話す気もしないままに、黙って外を眺め続ける。
時折、パチッ、パチッと火にくべられた木のはぜる音がするだけで静まりかえっているはずなのに、ざわざわと落ち着かない空気が立ちこめているような気がするのは自分の心のせいだろうか。
落ち着かせるように、深く息を吸い込む彼女の耳に、
シャーン……
鈴の音が届いた。
座していた巫女は立ち上がり、
「お見えのようですね」
話しかけるともなくそう言うと、望美の隣にやってきて共に外を見遣る。
シャーン……シャーン……
産再来の儀に臨む男を鳥居で出迎えた巫女が、手にした鈴を鳴らし、彼を拝殿へと導いているのだ。
静かな境内に、清浄な鈴の音が幾度となく響いた。
望美は、一目彼の姿を見ようと目をこらしてみたが、篝火の明かりが届かない参道では、いくら灯籠に灯りが入っていても、そこを歩く者の姿までは照らしはしない。
ただぼんやり見える人影と鈴の音が移動していくことで、前を通っていったことだけはわかった。
やがて、
シャラシャラシャラシャラ……
強く空気をふるわす音が聞こえて。
それを最後に、繰り返された鈴の音がやんだ。
ヒノエが拝殿に着いたのだろう。
望美の聞かされている段取りでは、彼がこれから祝詞を奉じることになっていた。
少しして、顔の前に両手でなにかを掲げた巫女が、斎館に近づいてきた。
望美の隣にいた巫女が扉を開き、彼女を中に招き入れる。
「別当殿は、拝殿にお入りになられました。龍神の神子さまは、こちらをお召しになってお待ち下さいませ」
巫女が捧げ持ってきたものは、求婚する男が女に捧げる衣だった。
神世から現世に降り立つ女が、初めて袖を通す着物は、迎えに来る男が用意する習わしである。
巫女の手により広げられたそれは、燈台のほの明かりにやわらかにうつる、萌黄の単と、淡紅の袿だった。
「わぁ……」
望美の口から思わず声がこぼれる。
「美しい衣ですこと。ささ、お手伝い致しますから、お召しになりませ」
促されて、望美はそれに袖を通した。
うぶさらい。
再び現世に産まれ来る儀式。
龍神の神子は神世に脱ぎ置いて、ただの女になった私が降り立つ儀式。
九日間は、あの戦の最中にあなたを待った半月以上の時間よりも長かったような気がする。
「さすが別当殿のお見立ては確かですね」
「えぇ、よくお似合いですわ」
そう口々に誉めてくれる巫女たちに、
「ありがとうございます」
と微笑んだ。
微笑みながら、望美は産再来の夜に男の前で扉を開かない女の気持ちが少しだけわかる気がした。
京において、『龍神の神子』という名は確かに自分の寄り辺だった。
時には重くのしかかったその名こそが、自分が存在する意味であり、免罪符だったのだと今だからわかる。
出逢う運命だったってことだろ?
いつかヒノエが言っていた言葉が思い出される。
同じ世界に『ただの女』として生まれていても、こうなりえただろうか。
それすらも『龍神の神子』だったからこそ紡ぐことのできた運命ではないのか。
シャーン……シャーン……
再び鈴の音が響きだした。
望美の心をふるわすその音は、徐々に近づいてくる。
─── ただの春日望美に戻す音
シャーン……シャーン……
─── 龍神の神子の名を奪う音
シャーン……シャーン……
─── この寄る辺から攫う者
シャラシャラシャラシャラ……
鳴りやむ鈴の音が、彼の到来を告げていた。
本当は少し怖い。
けれど。
心ならとっくに攫われていた。
この身を攫われたくて、今ここにいるのだと、それもわかっていたことだから。
「さあ、望美さま。別当殿がお待ちですよ」
もう神子さまとは呼ばない巫女に、はいと頷いて、望美は自ら格子戸を開け放った。
数段の階の下に、彼は居た。
望美はその姿に小さく息を飲む。
「……ヒノエくん?」
篝火に照らされたヒノエは、直垂を身につけていた。
炎に照らされて定かではないが、濃紺か藍色といったところだろうか。
紅の髪色を引き立たせるその衣は、常とは違った凛々しさを彼に与えていたから、ふわりと微笑み、おいでと手を差し出す姿が、まるで初めて逢う男に見えた。
階を一段、また一段と降りて、差し伸べられた手に己が手を重ねる。
「逢いたかったよ、オレの姫君」
その言葉に、心がほどけていくのを感じた望美は、ようやく彼に笑みを向けた。