産再来

本宮で、あちこちから寄進された物の目録に目を通していたヒノエは、こちらをじっと見ている視線を感じてふと顔をあげた。
「なんだよ?」
「いえ、あなたがそういった仕事を強制されずにやるのは珍しいと思いまして」
青年は楽しそうに言うと、持ってきた書類を手渡した。
熊野の男にしては珍しく、さほど日にも焼けていないその白い手に、
「また、男に口説かれたって? ヒナも隅におけねぇな」
耳にしたばかりの話を思い出しながら、ヒノエはニヤリと笑った。
「誰のせいだと思っているんですか? もうこんなコトは大概にして頂きたいものですね」
ヒナにも本来の仕事があるものを、たまたま女装して烏の真似事をしてから、すっかりある貴族に気に入られてしまい、その貴族が京から熊野詣にくるたびに接待役にかり出されていた。
それだけでも本人にはひどく不本意なことなのに、こともあろうにその女装姿を見た別の者から恋文まで届くようになっているこの頃である。
「戦も終わったし、もうあいつから情報をひきだす必要もなくなるからな。ま、今回が最後のご奉公ってやつだろ? せいぜい色目をつかってやれば? 次に来たときには、お前はいなくなったとでも言ってやるからさ」
喉の奥で笑いながら、渡された書類を読み始めたヒノエに、
「人のことを笑っている場合ですか? 先ほどお屋敷にお伺いして丹鶴さまにお会いしましたよ?」
ヒナも負けじと聞いたばかりの話を口にする。
「あなたがいくつも失敗を重ねているから、産再来の夜に神子姫さまが愛想をつかして出てきてくださらないのではと、ずいぶん心配しておいででした」
「……そんな心配、いらないね」
そう答える彼の声音はどこか拗ねたような響きで、
「用意周到なあなたらしくないですね」
からかいのひとつも口にしたくなる。
「普段ろくにやらない仕事をしてまで、忙しく過ごしていたい心境ですか?」
「うるせぇ。お前こそ仕事があんだろ? ここはいいから、そっちへ行ってこいよ」
シッシと手でおいやる仕草をして、再び書類に目を落とす彼に、
「ええ、そうしますよ」
答えて背を向けてから、さも今思い出したというように告げてやる。
「そういえば、あなたの待っていた物が湊に着いたそうですよ?」
「なっ、先に言えっ」
ヒノエは書類を放って、文机を飛び越え駆けだしていく。
「これはどうするんですかっ?」
先ほどまで彼が目を通していた書類をさして声をかけると、
「後で見るから、置いとけよ」
振り返りもせずそのまま行ってしまった。
「まだ必要なのは3日も先でしょうに」
ヒノエが到着を心待ちにしていたのは、産再来の夜、迎えに行った神子姫に袖を通してもらうための衣だということをヒナは知っていた。
いつも年の割には大人びていて、頭領として、別当として申し分のないヒノエがこんな風に落ち着きなく振る舞う様はそうそう見られない。
思わずからかってみたくなるのが人情というものだ。
きっと駆けつけた湊でも他の者にからかわれるに違いない。そんなことを考えつつ、ヒナはくすくすと笑いながら、ヒノエが放りだした書類を綺麗に束ねなおした。
 
 
 
 
 
本日2度目の沐浴を済ませた望美は、着替えを手伝ってくれた巫女に髪をすいて貰いながら、少しふやけた自分の手を眺めて、ほぉとひとつため息を落とした。
温泉には日に3度入る。神様の為に舞うのと、食事をする以外に唯一できることだから、それは望美にとって貴重な楽しみだった。
それにしても。
 
─── 温泉の効能はなんだろう?
 
本来は儀式の為の沐浴なのだから、温泉の効能など二の次なのだが、彼女が気になるのは目下そのことである。
せっかく毎日3回も入ってるんだから、美肌とか、傷跡を治しちゃうとか、そういうんだったらいいのになぁ。
そう考えてみても、自分の手を眺めるにつけ、剣をふるっていた手がいきなり美しいそれに変わったという様子もない。
初めての沐浴で、着替えを手伝ってくれた巫女は、望美の二の腕に走る刀傷に思わず、まぁ、と声をあげた。
源平の戦で、小さな怪我はよくしたが、刀傷というのはそれが唯一で、まんまと跡が残ってしまった。
 
─── そりゃ、驚くよね
 
神世降に臨む女性で、そのような傷跡がある者などいるはずもない。
今まで傷跡が残ってしまったことを気に病んだことはなかったが、普通の女性が見て思わず声をあげてしまうようなものなのだと改めて気付いてから、望美は自分の容姿についてあれこれと気にしていた。
剣をふるうようになってから、手にマメを作ったりしているうちに少しごつくなってしまった気がするとか。
腕や足に筋肉がついて、逞しくなってしまったような気がするとか。
トリートメントなんてできるはずもない髪はすっかり傷んでしまったとか。
考え出すとあれもこれもとキリがない。
 
「もうあと3日ですね」
「あ、はい」
ぼんやりと考え事していた望美は巫女の声で我に返り、慌てて返事をする。
「産再来の翌日にはすぐに婚礼だそうで……。楽しみですね」
「えぇ……はい」
楽しみなのは確かだが、素直に頷けない。
婚礼ということは、夜にはつまり、その、そういうことをするんだよね。
なのに、こんな女の子とも思えない傷跡があるような姿、見せたくないなぁ。
望美が怪我をした時に、手当をしたのはヒノエだった。
だからそんなことを思うのは、今更と言えなくもない。けれど治療の為に肌をさらすのと、そういう時に見られるのとではやはり大違いであり、彼女にとっては大問題だった。
 
「九日目までに気が変わって、結婚しない巫女さんもいるんですか?」
なんとはなしにそう訊ねると、髪をすく手を止めた巫女は、
「まぁ……龍神の神子さま。もしや」
困惑して言い淀む。
誤解を察した望美は、
「違う違う! 私じゃなくて、ただ聞いてみただけですよ?」
慌ててつけたした。
それに安心したのか、巫女は再び髪をすき始めた。
「そういう方もおられるようですね。九日目に殿方が迎えに来た折りに、扉を開けねばよいだけですから」
「そうなんですか」
扉を開けずに、男を帰してしまう女は何を思うのだろうか?
やはり神様に仕えているほうがいいと思い直して、婚礼をとりやめる気になるのだろうか?
望美は再びぼんやりと考え出した。
自分は神様に仕えていたわけではないけれど、『龍神の神子』と呼ばれていたから、今こうして神世降の儀式をしているわけで。
これが終われば、もう『龍神の神子』ではなくなるということだ。
『龍神の神子』でない、ただの春日望美になる。
京に来るまで当たり前だったそれが、今はなんだか不思議なことのように感じる。
なにしろ京に来てからは、自分の価値は『龍神の神子』という名前にこそあったように思うのだ。
『龍神の神子である春日望美』でいた時よりも、『ただの春日望美』として生きてきた時間のほうが長いはずなのに、いざそれに戻る日が近づくにつれ、彼女のなかで違和感はどんどん大きくなっているように思えた。
「髪は結いますか? それともこのままになさいますか?」
「このままで大丈夫です」
結うといっても、後ろで束ねるだけだ。
そうしなければいけないと決まっているのでもないと聞いてから、髪はそのままにしているのが常だった。
「では、髪飾りをおつけしましょうね」
「お願いします」
されるがままに、金細工の髪飾りをつけてもらいながら、
「産再来の日に男の人が来なかったらどうなるんですか? その……他の女の人とかのほうがやっぱりいいとか」
再び思いついて質問した。
「普通そういったことはございませんので。不義理なことをすれば、神罰がくだりますし。ただ、伝承のようなものはございます」
「伝承?」
「はい。産再来の夜、他の女に心をうつした男は、巫女さまを迎えにはこず、他の姫君と他所の土地へと逃げたのです。待っていた巫女さまは夜が明けて、10日目の1日をひたすら待ち続け、とうとう11日目に日付がかわるや嘆きのあまりその身を蛇へと変じて、男を追い、殺めてしまったとか」
そうなんですか、と頷く望美に、
「神子さまにはそのようなご心配は不要ですわね。毎日お遣いの方がお見えになって、神子さまのご様子を訊いて帰られますのよ」
「え? そうなんですか?」
「えぇ。別当殿は、産再来をよほど待ち遠しくお思いなのでしょうね」
楽しそうな巫女の声に、望美はほんのりと頬を染めた。

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