産再来

二人並んで神職の言祝ぎを受けた後、望美が九日間を過ごした社を後にした。
木々のせいで月明かりも届かない山道は暗く、ヒノエは松明を片手に、もう片方の手は望美の手をひいて歩いていた。
「静かだね、姫君。疲れた?」
社を出て、二言三言交わしたきり黙りこんでいる望美にそう声をかけて振り返ると、それまでこちらを見ていたらしい視線がふいとはずされ、かぶりをふって答える。
「う、ううん。全然平気」
本当は、疲れていないということもない。
体はそれほど疲れているはずはないのに、思ったよりも緊張して気疲れしたらしく、ようやく二人きりになってみるとじわりと疲労感のようなものを感じていた。
けれど話すこともせずに歩いていたのはそんなことのせいではなくて、望美はただ気恥ずかしいのだ。
見慣れない直垂姿は、よく知る同じ歳の少年を、『熊野別当』の名にふさわしい青年へと変えてしまっていた。
半歩前を行く彼の力強い腕にひかれて歩きながら、望美は足下に注意をはらうのも忘れてついつい彼に目を奪われては躓き、その度に大丈夫かい? と支えられ、胸を高鳴らせていた。
「そう? ……。さて、産再来も済んだことだし、このままお前を連れ込んで共寝っていうのも悪くはないけど」
「えぇっ!?」
「ま、それは婚儀が済んでからのお楽しみ、ってね」
炎に照らされる悪戯な横顔は、相変わらずのヒノエだった。
だから望美はなんだか笑ってしまう。
「もぉ……ヒノエくんはいつも通りだね」
「なにがだい?」
「私なんて……なんだかいろいろ緊張したのに、ヒノエくんってば全然普通なんだもん」
階の下で微笑んだ彼も、こうして自分の手をとって歩く彼も、やっぱりいつも通り余裕綽々なのだ。
「ふふ、そう見える?」
「違うの?」
「さあね。姫君にそう見えるなら、そうなんじゃないかな。で、望美はなんでまだ緊張してるのさ?」
「し、してないよ」
「じゃあさっきから何度も躓いてるのは、オレに見惚れてるせいかな?」
「見惚れてなんて」
ないよ、という語尾は、嘘だから少し小さくなる。
「ふーん。いいけどね。ねえ望美、疲れてないなら、少し寄り道していかない? 今日はもうすることもないから、昼間に寝てたっていいからさ。ちょっと朝までつきあえよ」
「だって……明日は結婚式でしょう? いろいろやっておかなくちゃいけないことがあるんじゃないの?」
「花嫁に手伝ってもらわなくちゃならないことなんてなにもないぜ? お前は婚礼の日に、綺麗に着飾って、花のように笑ってくれればいいんだから。ね?」
そういうわけにはいかないだろうとも思いつつ。
そうまで言ってヒノエが誘うなら、なにかあるのだろうと感じた望美は、
「寄り道って、どこに連れて行ってくれるの?」
了承をこめて瞳を和ます。
「着いてからのお楽しみだよ。多分見られると思うんだ。ま、行ってみようぜ?」
そう言って望美の手をひいたまま、彼は再び前を向いて歩き出した。
 
望美は山道を歩きながら、九日間のことをぽつぽつと話した。
初めての沐浴の後に、祝詞を捧げてくださいと言われてひどく困ったこと。
温泉三昧はうれしかったけれど、日に3度も入るのは段々辛くなっていたこと。
産再来で迎えにこなかった男を恨んで、蛇になった女がいたと聞いたこと。
ヒノエにしてみれば遣いに出した者から聞いていた話もあったし、本当にとりとめのない、些細な話がほとんどだったけれど、それでも望美の声で望美の口から語られるのを聞くのが心地よくて、楽しげに相づちを打っていた。
そろそろ彼女の話題も尽きたという頃、
「このあたりでいいかな」
呟くように言ったヒノエは道をはずれて、今度は林の中へと進んで行くから、望美も手をひかれるままにそれに続く。
真っ黒な闇が薄れていき、濃い蒼い世界へと変わりつつある。
徐々に夜明けが近づいているのだろう。松明の明かりがなくとも、少し先にあるものくらいは見えるようになってきていた。
林の向こうは崖になっていて、崖沿いにもうひとつの道が走っていた。
「さてと」
ヒノエは大きな石と石の間に松明をたてかけた。
何をするのだろうと見守っていると、近づいてきた彼は軽く屈んで望美の膝と背中に手をまわし、すくうように抱き上げてしまう。
「きゃっ! ちょ、ちょっと、ヒノエくん?」
「ほら、暴れるなよ。さすがの姫君も、この着物じゃ無理だろ?」
そう言いつつ、望美を横抱きにしたまま、膝よりも高さのある石をひょいひょいと乗り越えていく。
ヒノエが言う通り、この着物では裾をたくし上げて、跨いだりしなければ進んでいけなさそうな場所で、反論の余地はない。
だからせめて彼の妨げにならぬように、身じろぎせずにおとなしく抱かれていた。
少し進んで腰ほどの高さの岩棚にたどり着くと、ヒノエはそこに彼女を降ろし、自分もその上にひょいと登った。
岩棚からは幾つかの山の稜線が見えた。
「日の出を見にきたの?」
ヒノエの隣に並んで立った望美は、ここに来た目的を尋ねてみた。
「それもあるけどね。もう少ししたらわかるよ」
「そうなの?」
その正体を探るように一心に景色を見ている望美の頬に口づける。
「……っ」
驚いた顔でこちらを見た望美の視線をつかまえて、
「神世降の間、少しはオレのことを想った?」
聞いてみたかったことを口にする。
まわり中がよってたかって『産再来の夜、扉が開くといいけれど?』と声を揃えた九日間。
彼女が心変わりするなどとは思いもしなかったヒノエだが、不安がなかったといえば嘘になる。
呆れるほどに望美のことばかり考えてしまうから、出来うる限り忙しく過ごしてみたものの、それでも九日という時間はなかなか過ぎてはくれなかった。
「それは……少しはね。でも他のこともいろいろ考えた。みんなはどうしてるかなぁとか、譲くんは今頃家にいるのかなぁとか」
「帰りたくなったかい?」
「うーん、少しは」
自分を想ったのも、帰りたくなったという気持ちも。
どちらも同じ『少しは』ならば、どちらがより強いのだろうか。
「正直だね、姫君。それで? オレを選んだこと、後悔した?」
「後悔させない自信があるんでしょ?」
挑むような笑みを、
「当然」
と不敵な笑顔で受けて立つ。
「後悔なんて……するかもしれないし、しないかもしれない」
「……」
「けど……全部捨てても、ヒノエくんが欲しかったの。熊野を大切にする心ごと全部、ヒノエくんが欲しかったんだよ」
強気な口調で、どうだと言わんばかりに胸を張りながら。
瞳だけは頼りなげに揺らすから。
「姫君に欲しがってもらえるなんて光栄だね」
そっと彼女を抱き寄せて、
「オレも……熊野とお前しかいらないよ」
その耳元で囁いた。
 
周囲はだいぶ明るくなって来ていた。
山際は薄紅に染まり、まもなく稜線を朝の光が走るのだろう。
「ほら、望美。見てみなよ」
腕におさまる彼女に声をかけ、体をくるりと反転してやる。
「……」
望美は初めてヒノエが見せようとしたものの正体を知った。
「ヒノエくん。これ……」
そこには山々を覆うように広がる、雲の海があった。
「綺麗だろ? 今日は天気もよさそうだから見られる気がしたんだ」
景色に心奪われる望美を背中から抱きしめ袖で包んでやると、ほんの少し寄りかかるように体重を預けてくる。
「初めて見たよ……。熊野は、綺麗なものがいっぱいあるね」
蒼から紫、薄紅へと変わる空のグラデーション。
山々を包む雲海は、空の色を映したように折り重なり、波を描き、とても幻想的な光景だった。
「ああ。お前に見せたいものは、まだまだたくさんあるからさ。楽しみにしてなよ?」
「うん」
 
美しい熊野。
彼が守る土地。
そして、これから私が生きていく場所。
 
初めて熊野に来たときに、彼が見せてくれた夕暮れもとても綺麗だった。
あの景色を共に眺めたとき 私は龍神の神子だったけれど、今はもうそうではない。
 
「ふふ」
ふいに肩を揺らして笑った望美に、なに? とヒノエが問うた。
「あのね。同じ方向を向いていけるのが嬉しいなって」
「……?」
「『龍神の神子』でなくなっちゃうことがね、ホントは少し不安だったの」
「不安?」
「うん。ヒノエくんは龍神の神子でなくなっても、大切だって言ってくれたけど、私はヒノエくんと逢った時にはもう龍神の神子だったでしょう? 龍神の神子じゃない私なんて知らないのになぁとか」
「でも、望美は望美だろ?」
そう答えて首筋に口唇を寄せると、くすぐったいのか望美は少し身をよじった。
「うん、それでも龍神の神子でなくなっちゃったら、私に価値がなくなっちゃうような気がしてたの。でも……うれしいことなんだって、今わかった」
納得したように頷く望美の言葉の意味が、ヒノエにはわからない。
「嬉しいこと?」
「戦のあいだ、平家に勝つっていう目標は同じだったけれど、私はみんなを守れるように、みんながいる源氏に勝って欲しかったの。でもヒノエくんは平家に勝つのは私のためでもあったかもしれないけれど、巻き込んでしまった熊野のためでしょう? だから同じことを目指しててもやっぱり少し違っていたと思うんだ」
龍神の神子が為すべきこと。
八葉としての務め。
源氏の戦女神が為すべきこと。
熊野別当としての務め。
彼女が言う通り、一見同じ場所を目指しているように見えて、実は重なる場所とそうでない部分があった。
「でもこれからは、私はもう龍神の神子じゃないから、ヒノエくんが好きで、ヒノエくんが守る熊野が好きで、それを一番大切に思ってていいから、だから嬉しい」
 
─── やられた
 
『龍神の神子』を『ただの女』にしてこの腕に捕まえたと少し安心していた自分に、思わず苦笑する。
彼女は既に先を見ているのだ。
これからの日々で、自分に並び立つ者として。
前を行くでなく、後ろに従うのでなく、同じものを見つめる。
それは彼女の、ささやかな決意表明でもあった。
だから。
「オレは今までもこれからも、お前が大切だよ」
ヒノエはそう言って、彼女を抱く腕に力をこめた。
「熊野の次に、でしょ?」
「ふふ、熊野はオレだけのものじゃないけど、お前はオレだけのものだからね。大切にする方法が違うと思わないか? イロイロと」
含みを持たせた言い方に
「なんだかえっちくさい言い方」
なにか思うところがあったのか、望美はひとりごちた。
「えっち?」
「なんでもないよぉだ」
ヒノエの腕をほどいて抜けだし、正面に立った彼女に、
「まずは、覚悟しとけよ?姫君。明日は婚礼だぜ?」
にやりと笑ってみせる。
「覚悟って?熊野で生きていく覚悟ならしたってば」
「そうじゃなくて。今日はよく寝ておけってこと」
なおも不思議そうな表情をする望美にわかるように、ヒノエは告げた。
「オレは婚礼の夜に花嫁を寝かせるほど、甲斐性ナシじゃないつもりだぜ?」
「!! もう、ヒノエくんのバカ!」
真っ赤になった望美をもう一度腕の中につかまえて、ヒノエは龍神の神子でなくなった彼女に、祝福の口づけを贈った。
 
 

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