ヒノエが熊野に帰った翌日。
日が落ちてから、藤原邸では久方ぶりに親子3人が揃い、ささやかな宴となった。
「まさかお前が神子姫さんを連れ帰るとはなぁ。なあ、たづ?」
湛快は、そう言いながら自分の妻に空の杯を差し出した。
「ほほ、己が息子ならば当然という表情をしておいでですわね」
上機嫌の夫の杯になみなみと酒をついでやりながら目を細める。
丹鶴は若い頃、熊野で1、2を争うほどの美女とうたわれた巫女だった。
年齢は既に三十代も後半に差し掛かっているはずだが、どこかで時間をとめてしまっているのではないかと思われるほどに美貌は少しも衰えない。白い肌に艶やかな黒髪のその姿は、どう見ても二十代後半といった様子だ。
巫女として神仕えをしていた頃は、託宣がよく当たるということでも評判で、熊野詣にやって来た貴族たちはこぞって丹鶴の託宣を求めたほどである。だから湛快の妻になるために神世降すると決まった時には、それを惜しむ声もずいぶん多く聞かれた。
あまり人には知られていないが、神世降を済ませても、巫女としての力が失われるわけではない。湛快がそれまで争いの絶えなかった三山をまとめあげることができたのは、本人の実力もさることながら、丹鶴の託宣の力も影響していたのは確かである。
「それにしても神子姫さまもお気の毒に。なにも着いた翌日から神世降を始めずともよいでしょうに。そのようなせっかちな男に育てた覚えはありませんよ?」
たしなめるように視線を巡らせば、ヒノエも杯を傾ける。
「善は急げっていうしさ。熊野に来るのが初めてってわけでもないし」
いいんじゃないの? と気にする風でもない息子に酒をついでやりながら、
「これだから男は……。よいですか? こたび神子姫さまはこの地に嫁ぐのですよ? 聞けば異世界から来た姫君とのこと。それを熊野に嫁ぐなど不安も多いでしょうに。夫になるあなたがこれでは、先が思いやられますね……」
母親というよりも女の表情で、丹鶴ははまだ会ったことのない望美に心底同情した。
花嫁の輿入れに必要なものは、本来生家が用意する。
けれど異世界から来た望美ではそれが叶わないため、婚礼衣装や調度品、諸々必要な品を準備したのは丹鶴である。
『龍神の神子を花嫁として連れ帰る』
そんな先触れが熊野に着いたのは、十日前のことだった。
でかしたと喜ぶばかりで、そういう準備にはまったく役にたたない夫を横目に、丹鶴はすぐにあれこれ準備にとりかかった。
なにしろわざわざ先触れを出して宣言するくらいだから、帰ったらすぐに婚礼をするということだろう。
神世降の日数を考えても、熊野に迎えてから準備したのではとても間に合わない。
本当ならば望美に会ってから仕立ててやりたかった婚礼衣装も、既に用意してある。急ごしらえになるよりはいいだろうと思いつつ、それでもせめて望美に好きなものを選ばせてやろうと思い、夫に聞いていた濃紫の髪の彼女に似合いそうな、朱鷺色と若草色と紅梅色の染めの着物、三種を作らせてあった。
丹鶴はこの婚礼をとても喜ばしく思っていた。
息子を信じていないわけでもなかったが、なにしろあの夫の血をひいているのだ。
熊野別当として、立派とも思えるし尊敬に値する湛快も、夫として考えれば別当時代はあちらの女、こちらの女と気の多いただの男だった。それもひとつの甲斐性ではあるけれど、だからこそ正妻にはそれなりの度量が求められるというものだ。
噂に聞く我が子の所行もそれなりのもので、丹鶴は常々、嫁に迎えるならば息子の手綱をしっかりもてるような嫁がいいと思っていた。
以前、望美が熊野に来た時に、彼女に会った湛快は『別嬪さんだが、それだけじゃない、いい瞳をした姫君だったぜ。あの姫君が源氏の戦女神だってんなら、案外今の状況もひっくり返るかもしれねえな』と丹鶴に話していた。
あの頃、戦局はどちらかといえば平家が有利で、丹鶴自身も密かに神降ろしをして占ってみたが、これといった結果は得られていなかった。
ところが、気付けば状況は刻々と変わり、『熊野は中立』と決めていたヒノエがついに水軍を出すことを決め、源氏は見事勝利した。
十中八九、『龍神の神子』がいたからこその結果である。
それほどのことを成し得た姫君ならば、これから先、熊野別当の妻として、きっとうまくやっていけることだろう。
夫同様、丹鶴もヒノエには「でかした」と誉めてやりたい気持ちだった。
「オレがついてるんだ。姫君に不安な思いをさせるはずがないだろ」
「着いてそうそう九日も狭い場所に押し込められて、不安に感じない姫君がいるものですか。産再来の夜に、扉が開くといいですねぇ、ヒノエ?」
意地悪にも聞こえる丹鶴の言葉は、けれどもっともな言葉でもある。
実のところヒノエ自身も、焦りにも似た気分に急かされるままに、望美に神世降を強いたことを少なからず後悔していた。
こんな風にコトを為すのが、ひどく自分らしくないやり方だとわかってもいたが、今回ばかりはそうせずにいられなかったというのが正直なところだ。
神世降は九日間。
この間、女は社と禊ぎ場を行き来する以外は外に出ることもできず、同じく神に仕える巫女たちとしか接触をもてない。
そして九日目の夜を『産再来』と呼び、男は日付が転じて十日目になる時に、女を迎えに行くのだ。
迎えに行った男の前で、女のいる神殿の扉が開かれなければ、求婚を断られたということになる。
返答に窮したように黙って酒を口にする息子に、丹鶴は容赦なく追い打ちをかけた。
「せめて少しくらいは日を置いて、ゆるりとさせてあげてからにすればよかったものを」
「仕方ねえよな? ぼやぼやしてて、横からさらわれちまうのが怖くて、急いだんだからよ。弁慶をむこうにまわしてよくやったと褒めてやるつもりだったが、お前もまだまだケツの青いガキってこった」
それまで母子の会話を面白そうに眺めていた湛快が口を挟む。
「うるせぇ」
そうは言いながらも、こちらにもヒノエは反論できない。
望美が『龍神の神子』である以上、神世降を経て婚礼を済ませなければ、一緒に住むことはできないのだ。
すべてを早く終わらせて、彼女を捕まえてしまいたかった。
龍神の神子の名から。元の世界から。
自分だけの姫君にしてしまいたかった。
子供のような独占欲だとわかっている。
わかっていながら、それに目を瞑ってすべてを手配したのだ。
やはり、せめて数日はゆっくり過ごしてからにしたほうがいいかもしれない。
そんな迷いは、船酔いで辛そうにしている望美を見ているうちに、別の不安へと変わっていった。
─── やはり帰ると言い出さないだろうか
熊野がイヤだとか。
オレがイヤだとか。
そんなことは思わせないつもりだったし、自信もあったはずだった。
望美を前にすれば、あれこれ経験してきたはずの男女の機微もなんの役にも立たない。
望美に関してはいつだって自信が揺らぐ。
だからこそ、蒼い顔で眠る彼女を置いて行ってまで、翌日からの神世降の準備を済ませてしまったのだ。
黙り込んでしまった息子に、思いついたように丹鶴が訊いた。
「ところで、神子姫さまは神仕えをしたことがないと聞きましたけれど……拝詞や祝詞など奉じられるのですか?」
ハッとした表情をして、動きを止めたヒノエの様子に、再び盛大なため息をおとした母は、
「せっかく用意した婚礼の調度品が無駄にならないといいけれど」
あきれ果てたという声で呟いた。