産再来

ぐるぐる、ゆらゆら。

天井がまわっているような気がする。
こうして寝ている床も、まだ揺れているような感覚が消えない。

「今さら姫君が、船酔いとはね」
笑いを滲ませた声のほうに、抗議の眼差しを向けてはみたものの、気持ちが悪くて口を開く気にもなれない。
「もっと早く言えばよかったのに。我慢なんてしないでさ。船の上でだって、薬湯のひとつくらいは用意できたんだぜ?」
そう言われても、そもそも自分が船酔いするなどとは思いもよらなかった。
乗り物にはけして弱いほうではなかったし、平家との戦のときだって悪天候の中で、かなり揺れる船に乗っていても平気だったのだ。
 
始めはちょっと調子が悪いかな、という程度で。
熊野が近づいていて、ヒノエはあちこちから声がかかって忙しそうなのが見てとれたから、邪魔にならないように海を眺めて過ごしているうちに、望美の気分の悪さは立っているのもツライほど、冷や汗が流れるほどのものになっていた。
 
ヒノエが彼女のそんな様子に気付いたのは、熊野に到着する寸前という頃で。
気付けなかった自分に舌打ちしながら、湊に着くやいなや、後の段取りを他の者に託して、歩くのもままならない望美を、湊からそう遠くない藤原家の別邸へと運び込んだ。
別邸は、ヒノエ自身湊の近くに身を置いていたほうが都合のいいときに使う程度の小さな邸だった。それでも下働きの者は常に出入りしていて、家の手入れにはぬかりがない状態だった為、こうして急に使うことになっても少しも問題はない。
すぐに褥を整えさせると、そこに望美を横たえた。
 
「薬湯なんて……飲んだ途端に吐いちゃいそう」
散々吐いて、既に胃の中がからっぽの望美が、げんなりとして答えると、
「まだ海の上で揺れてるような感じ、とか?」
船酔いした人間がよく口にすることを問うてみる。
「うん、なんか……そんな感じ」
ヒノエ自身は船酔いをしたことがなく、船酔いの感覚というものはよくわからないものの、望美がひどく辛そうだということは見ていればわかる。
「そいつは重症だね。寝ちまえよ。目が覚める頃には治ってるからさ」
熊野に着いたら、ヒノエの両親に会って挨拶しなくてはいけないな、とか。
婚礼って言ったって、そんなあっさり熊野別当を務める人のお嫁さんになんてなれるものなんだろうか、とか。
いろいろと考えていたはずなのに、具合の悪さが全部を凌駕してしまう。
「うん」
だから望美は彼の言葉に素直に頷いた。
「ほら、傍についててやるから」
眠りなよ、と。
彼女の頭を撫でてそれを促す。
「優しいね」
「オレはいつだって姫君に優しくしてたつもりだけど?」
「うん……そうだね」
蒼白い顔のまま、望美は小さく笑って頷くと目を閉じた。
 
目を閉じたらやっぱり揺れているようで、クラクラした。
床が揺れている感覚が気持ち悪くて目をあけるたびにヒノエの優しい瞳にぶつかって、安心して目を閉じる。
そんなことを繰り返すうちに、望美は髪を撫でられる感触に導かれるように、ゆるりと眠りに落ちていった。
 
 
◇   ◇   ◇
 
 
辺りが暗くなる頃、望美が目を覚ますとヒノエの姿はなかった。
下働きの者だという女性が持ってきてくれた白湯を口に含みながら、傍についててくれるって言ったのに、と少々面白くない気分でいたところに彼が帰ってきた。
起きあがって、椀を手にしている様子にホッとした表情をしながら、
「オレの神子姫さまは、ようやく人心地ついたって感じだね」
望美の傍までやってくると、部屋に控えていた女に目配せして下がらせた。
「ついててやるって言ったのに……堪忍な。ちょっと用事をすませてきたんだ」
いてくれるって言ったのに。
そうは思ったものの、彼の立場を考えれば自分にかかりきりになどなれるはずもない。仕方ないとわかっているから、そう思ったことはこっそり胸の内にしまっておく。
「ううん。それより、ごめんね? ヒノエくんのおうちにご挨拶に行かなくちゃいけないなとかいろいろ思ってたんだけど……ヒノエくんも予定が狂っちゃったでしょ?」
「準備をね、してきたんだ」
ヒノエは望美が両手で持っていた椀をそっと取り上げて枕元の床に置くと、彼女の手をとり口唇を寄せた。
「お前を早く、オレだけの花嫁にしたくて、ね?」
口づけたまま送ってくる視線はひどく艶めいて見えて、望美はドキドキしながら思わず視線をそらした。
「じゅ、準備って?」
「我れのみや かく恋すらむ かきつばた 丹つらう妹は いかにかあるらむ」
「……ヒノエくん?」
和歌で答えられても、望美にはまったく意味がわからない。
そらした視線を再びヒノエに向けると、変わらずにこちらを見ている眼差しにぶつかった。
それだけで心臓はますます拍動の速度をあげてしまう。
「姫君は? オレのものになるのが、待ち遠しい?」
「結婚しても、私は私のものだもん」
照れながら、そんな言葉でヒノエの問いをかわす望美に思わず笑みが洩れて、
「お前のそういうところ、好きだぜ?」
ヒノエは、彼女がますます照れてしまうような言葉を口にした。
 
 
 
「『かむよくだり』と『うぶさらい』?」
馴染みのない言葉に、ヒノエの言ったことをそのまま聞き返す。
今日はこのまま別邸に泊まることになった望美は、ヒノエと夕餉を共にした後、婚礼までの段取りを聞いていた。
「ああ。神仕えをやめて、花嫁になるにはその為の儀式っていうか……まあ禊みたいなもんなんだけどさ。それが『神世降』。最後の夜、日付が変われば『産再来』。男に嫁げる身になるってこと」
「神仕えって? 私が龍神の神子だから?」
「まあね。望美は仕えていたわけじゃないけど、神子姫さまにかわりはないからね。ただの男がいきなり娶るわけにはいかないんだ」
すぐに婚礼ができるわけではないとわかり、少しがっかりして、けれどどこかホッとしながら望美は答えた。
「そうなんだ。それで、その儀式はいつ頃なの?」
「明日からだよ? 姫君。神世降の九日間は逢えないからさ、今夜はゆっくり過ごそうぜ?」
ニヤリと笑ったヒノエに、
「明日っ!?」
望美は目を丸くするばかりだった。
 
 
─── かくして『神世降』の儀式が幕を開ける。
 

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