3 さいごの日/ひとつだけ嘘をついた

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いつもならこんな朝は布団に籠城している。誰かが呼びにきたって、意地でも掛け布団を手放さない。そんな寒さだ。

もう、朝起きて出陣や演練やそういう予定を考えることもない。
ノルマが終わらないとか、経費や資材が足りなそうだと頭を悩ませることもない。

もう──明日はこない。

最後にもう一度、みんなと四季を楽しみたいと季節だけ早送りしてみても、過ぎる時間の長さを変えられるわけじゃない。
結局、本当の意味ではなにひとつ覚悟もできないままに、ずるずると最後の日に引きずり出されてしまったような気がする。
この一日を始めたくはない。始めたくないけれど、私がここに籠もっていても時間は容赦なく過ぎてしまう。
時計に視線をやれば、いつもの時間よりも一時間以上も早い。その割には障子の外が明るい気がして身を起こせば、人影が映っていた。

「起きたのか?」

気配に気付いたらしい鶴丸から声がかかる。のろのろと身を起こして、「開けてもいいか?」の問いかけに「いいよ」と答えると、すぐに障子が開かれた。

「おはよう。はは、いつも通りの寝ぼけた顔だなぁ」
「はいはい、どうせいつも通りですよ。おはよ」

鶴丸は、出陣でもするように羽織まで着ていた。
ここしばらく、彼が出陣したり演練に行ったりすることはなかったから、この姿を目にするのは久しぶりのことだった。

「きみにしてはずいぶんと早起きだったな」
「鶴丸こそ、この寒いのになんで廊下に座ってたの」
「きみを起こしにきたに決まっている」
「なら、起こせばよかったのに」
「まだ早いからな」

鶴丸の背後に見える庭は、すっかり雪に覆われていた。
真っ白な庭を背に、それよりなお白い綺麗な神様はやっぱり絵になるなとぼんやり思う。

「なぁ、なんで最後が冬なんだ」
「春から始めたら最後は冬でしょう?」
「きみが好きなのは春だろう」

もうひとつ季節を進めればいいじゃないか、と不思議そうに首を傾げている。
そのひとつ先に、もう進めないから。
震えてしまうのは寒いせいだと。こんな息さえ凍りそうな中でなら、いくらだって言い訳できる。
冬は、弱い私を匿ってもらうための季節だ。

「春も好きだけどね」

立ち上がって、庭を見遣る。
そっと鶴丸を見つめてから、細くゆるゆると息を吐く。
ずっとずっと見つめ続けた。叶えないと決めた恋。

「私は……私は白が好きなんだよ」

まだ雪は降り続いている。その雪に視線を逃がして、あぁ好きだ、と思う。 
白は、誰より大切なあなたの色。

「確かに、見事に白く染まったな」
「綺麗だよねぇ。寒いけど」
「きみが木蓮が一等好きだと言うのも、白いからか?」
「それもあるけど……」

あのぽってりとした花弁は、どこか鶴丸の羽織を連想させる。
そんなことを思ってよく眺めていたせいか、鶴丸の中で、私の一番好きな花は木蓮だと認識されたらしい。

「なんでだろうね。うん、でもこの庭では、木蓮の花が一番好きだよ」

ふと、縁にいくつもの雪兎が並べられているのに気付いた。
大きさもまちまちのそれらは、行儀良く並んで赤い目をこちらに向けている。

「可愛い! どしたの、それ」
「さっき前田たちがきて並べていった。きみ、そういうの好きだろう」
「うんうん。ふふ、たくさん並んで可愛い」
「きみが作ると、子豚みたいになるからな」
「そうだけど、ひどい」

雪が降るといつも作った雪兎。私が作るとどうにも不細工で、よくみんなに笑われた。
こんな風に積もった日には、雪合戦もよくやった。刀剣男士のそれは東西戦に分かれてやるずいぶんと本格的なもので、遊びの域を超えていたから私なんかが参加しても足手まといで。それでも、東も西も、こっちに入れといつも誘って混ぜてくれた。鶴丸は大抵同じチームにいて、その背にまとわりついて盾にしたのも一度や二度じゃない。庇う為に抱き寄せられて、白い衣装を更に白く雪まみれにさせる彼に、いつだってひとりでドキドキしていた。

「もうみんなも待ってるかな?」
「なに、そう急ぐこともないさ。いつもよりはずっと早い」
「そうだけど……。支度するよ。ちょっと待っててね」

しばらく袖を通していなかった巫女装束を前にする。
最初の頃は毎日これを着て仕事をしていたけれど、いつの間にかラフな服装で過ごすようになって、身なりにうるさい幾人かには時々お小言をくらっていた。
それでも、政府のお呼ばれと、刀剣男士を降ろす鍛刀の時だけは必ずこれを着るようにしていたものの、ここしばらくはそんな機会もなくて、本当に久しぶりだ。
白いそれに手を伸ばし、私にしては珍しい艶めいた爪先に手を止める。
昨夜加州が、現世に帰ってもちゃんと自分でやってよね、と彩ってくれた爪の先。
私に似合いそうな色を選んだのだと贈ってくれたそれを使う機会はないけれど、それでもこうして春めいた色のそれは、凹みそうになる私の心を支えてくれる。
さっと化粧をして身なりを整えれば、久方ぶりに審神者らしい姿の自分が鏡の中に居た。
これが最後だ。今日で全部が終わる。
あと少し、みんなが誇ってくれた、大切にしてくれた審神者でいよう。

広間に行くと、全員がずらりと戦装束で迎えてくれた。
みんながみんなこの姿でいるのは新年最初の朝くらいのもので、だからこそ、どうしようもなく今日がそういう日なのだと意識してしまう。
上座へと進み、正座をする。お正月ですらこんなことはしない。
両手を前につき丁寧に頭を下げる。

「皆様の働きのお陰で無事戦を終えることが出来ました。私のような未熟者を今日まで助けてくださって本当にありがとうございました」

審神者になったばかりの頃は、割とみんなに丁寧な言葉で話していたはずなのに、いつの間にかあんなにくだけて話すことが出来るようになったのか。
みんなが、主というだけでなく、姉のように妹のように扱ってくれたから、私は心安くここでの生活を送り、審神者の仕事を頑張ることができた。
時々はもう嫌だと駄々をこねてさぼるのを、叱ってくれたり、手伝ってくれたり、労ってくれたり。
たくさんたくさん貰うばかりで、何も返せなくてごめんなさい。
だから、現世に帰って幸せになる私のことを喜んでくれるみんなが安心してくれるように、終わる瞬間までそういう『私』でいるからね。

「朝食の後、準備が整った方から本霊へとお送りいたします。私は朝食が済みましたら、鍛刀部屋にてお待ちしております。よろしく御願い致します」

朝食は豪華だった。
別に鯛の尾頭付きが、とか、そういうことではない。
ただ、私の好きなものが何皿も何皿も、ほんの少しずつ食べきれる量を考えて並んでいた。朝からこれだけの品数を作るなんて、今日の食事当番は本当に大変だったろうと思う。
胸がいっぱいで、ホントのところおなかなんて全然すいていないと思ったけれど、食べ始めてみればご飯はどうしようもなくおいしくて。
生きているっていうのは、そういうことなのかもしれない。

いつもよりも少しだけ静かな朝食時が終われば、本当に終わりの時間だ。
鍛刀部屋にやってきた彼らと、ひとりずつ言葉を交わす。
いくら話しても話し足りないのはお互いにわかっていたからか、誰もが言葉少なだった。もう二度と会えないから、また、とは言えなくて。
さようならとありがとうを告げると、最後まで優しい神様たちは私の未来を言祝いでくれた。

いつもなら、みんなで午後のお茶でもする時刻。
残す二振りのうち、先にやってきたのはまんばちゃんだった。
審神者の心構えもなにもなかった時から、ずっと傍で支えてくれた初期刀。その彼が、頭に被った布を取ってまっすぐ私を見つめた後に「選択肢を増やしても誰も責めないぞ」と言った。

「まだ今なら間に合う」
「……知ってる」

知っている。
ここでこのまま消えていく他にある、もうひとつの選択肢。
彼は、願えばきっとそうしてくれる。だけどそれをしてしまうのは私が許せなかった。
審神者として、何ひとつ損なうことなく、白い神様を白いままで返したかった。それが諦めることを決めて今日まできた、たったひとつ譲れない私の矜持だ。
ゆるゆると首を振ると、知っていたというように「そうか」と返る。

「写しの俺を、今日まで傍に置いてくれたこと、感謝している」

そう言い遺し、全部を知ったうえで支えてくれていた神様は還っていった。

◇   ◇   ◇

「おお、来たな。きみ、また昼も食べてないだろう。大丈夫か」
「来たな、じゃないよ。あんまりいつまでも来ないから、迎えに来たんだよ」

てっきり部屋の中にでもいるのかと思った鶴丸は、寒い縁に腰掛けて庭を見ていた。

「なに茶くらいいいじゃないか。光坊がおにぎりをこさえてくれてあるぞ。きみの好きな栗入りのどら焼きもある」
「鶴丸は? 食べたの?」
「きみを待ってた」

隣に座ると、そらとおにぎりを手渡される。
すっかり冷たくなった、もうここにはいない光忠の作ってくれたおにぎり。
ラップをとって、かぶりつく。
塩加減も握り具合もちょうどよくて、夜食にとおねだりすると小さめに握ってくれたことを思い出す。

「茶はここに置くぞ」
「うん、ありがとう」
「浮かない顔だな」

私と同じようにおにぎりを口にしながら、鶴丸がこちらを見てため息交じりにそう言った。

「そりゃ……やっぱり寂しいよ」
「そんな顔に送られたんじゃ辛気くさくていけないな。とてもじゃないが、本霊になんて戻れそうにない」
「えぇっ、ちゃんとみんな送ったよ」
「俺は送られるなら笑顔がいい。きみがちゃんと笑って送れるように気持を整えてからにしてくれ」
「そんなの……それじゃあいつまでたっても還れないよ?」
「お、それもいいな」
「ちょっと!?」
「はは、冗談だ」

朝には足跡だらけだった庭も、新たに降りしきる雪で再びまっさらに覆い隠されてしまった。

あと少し。
あと少しだけ。
そうしたら、きっと。

「ね、鶴丸。雪だるまを作ろう」
「は?」
「せっかくこんなに積もってるのに、なんだかもったいないよ。ね?」
「雪だるまって、きみそんな格好で雪遊びなんぞしたら、いくらなんでも風邪をひくぞ?」
「いいよ、風邪くらい。どうせ今日でおしまいだもん」
「おしまいって……そりゃここでは最後かもしれんがきみには明日からの生活があるだろう。帰って早々寝込むつもりか?」
「だいじょぶっ! 馬鹿は風邪ひかないって言うじゃん。ね? 雪だるま作ろ?」

鶴丸の返事を待たずに、置いてあった少し大きい庭履きの雪をはらって、庭へと降り立つ。足先からも這い上がる冷たさを無視して、私は雪玉作りを始める。
しぶしぶという様子で庭に降りてきた鶴丸も、雪を転がして雪だるまを作り始めた。
ふたりで、それぞれころころころころと転がして、少しずつ雪玉を大きくしていく。
雪玉が大きくなるにつれ、真っ赤になっていく手が、冷たさを通り越して痛みを訴え始める。それを無視して、早く感覚がなくなってしまえと願いながら、ようやく胴体になりそうな大きさになった雪の塊をぺたぺたと触って形を整える。
痛みを感じなくなり始めた指先に、心の感覚もなくなってしまえばいいのにと願った途端、強くその手を掴まれた。

「なっ」
「きみなぁ……」

包まれた両手に、幾度も息を吹きかけられる。撫でては息を吹きかけて、私の熱を呼び覚ます。

「……そんなにしなくたって大丈夫だよ」
「どこが大丈夫だ。震えてるじゃないか」

そう言うと、羽織を脱いだ鶴丸は私の頭にそれを被せて寄越す。

「そんなに震えてまで作るものじゃないだろう。あそこから見ているといい。驚きの結果をきみにもたらそう」

私を縁へと押しやって、鶴丸は自分で作っていたものと、私の続きとを作ってくれる。
驚きと言うから奇抜なことでも始めるかと思ったら、案外まともな雪だるまへと仕上がっていく。
石や枝で顔を作る。
仕上げとばかりに、私が作っていた方には手折った椿を頭に挿した。
それからふたつを前にして、少し考えるような仕草をした鶴丸は、首につけていた鎖をはずすと自分が作っていた方の雪だるまへとつけ始める。雪だるまの太い首には到底回せるものでもなくて、金色のそれを雪に埋め込むようにつけて、納得したように頷いた。

「どうだ?」

得意げにこちらを見る鶴丸は二つの雪だるまよりも可愛くて、ぱちぱちと手を打って賛辞を送る。
鶴丸は、また一枝、椿を手折るとこちらに戻ってきて、私の髪に挿してくれた。
雪をはらって縁にあがる鶴丸の、どこか満足げな視線が向けられる。

「なに?」
「現世に帰ったら、普段からそうしてちゃんと装えばいい。きみがちゃんとした格好をするのは、演練か会議の時くらいだったからな」
「そこはほら、どんなきみでも綺麗だよくらい言っとこうよ」
「どんなきみでも綺麗だ」
「ありがとうゴザイマス」
「はは、言えと言ったくせにそんなに赤くなるとはなぁ」

そりゃなるよ、と思う。
冷めた茶をすすって、気持を落ち着ける。

本当は、幾度か考えた。
例えば、私が審神者じゃなかったら。鶴丸が神様じゃなかったら。そうしたら、そうしたら、と。
だけど、そもそもそれじゃあ出会えなかった。私が審神者だったから。鶴丸が神様だったから私たちは出会った。
だからやっぱり、例えば始めからやり直しても、結末は変わらない。

「鶴丸。あの首飾り、あのままでいいの?」
「持って帰らねばならんというほどでもないだろう」

金色の鎖をつけた雪だるまに、花を挿した雪だるまがそっと寄り添っている。
冷たいはずの景色が暖かく見えて、そうして、少し羨ましくなる。
あの子たちは、最後まであそこでああして傍にいられるんだね。

「静かだな。ここがこんなに静かだなんて初めてだな」
「私は最初はまんばちゃんとふたりだったからね。こんなもんだったよ。それが少しずつ増えて、鶴丸みたいに騒がしいのがきて」
「おい」
「ふふ、楽しかったよ。毎日本当に。おまけの時間とも思えないくらいに」
「おまけなのか?」
「おまけだよ……。こんな風に現世を離れた特別な場所で、特別な時間を過ごしたんだから」

本当に。例え何度やりなおして、こうして同じ結末にたどり着くのだとしても、私はやっぱり審神者になる方を選ぶ。
それだけは言える。その選択を後悔していないと、胸を張って言える。

「なあ。最後だから、これだけは言わせてくれないか」
「うん?」
「俺は……俺はきみが…っ」

咄嗟に、両手で鶴丸の口を覆った。
それは、駄目だ。それだけは。
抗議の眼差しをこちらに向けた鶴丸は私の両手を掴むと、そっと手のひらに口づける。
外気に触れて冷たい筈の唇が、ひどく熱く感じる。
その熱だけで、もうどうか留めてと願う。
お願いだから、手が届かないままでいて。手が届かないからと最後まで言い訳させて。全部を諦めると決めた私が、今更何かを望まないように。

「俺はきみが」

訴えるように見つめると、目を瞠った鶴丸は痛みを堪えるような顔をして私の手を握りこむ。
そのまま両手を祈るように己の額に押し当てて「……きみが、主でよかった」と呟いた。

「ありがとう……私のところに来てくれて。私の刀になってくれてありがとう」

◇   ◇   ◇

「政府の奴らはいつ迎えにくるんだ?」
「夜までには来るでしょ。鶴丸はそろそろ帰りなよ」
「誰がきみの護衛をするんだ」
「もう護衛はいらないんだよ。大丈夫」
「そう追い立てるものじゃないぜ?」
「追い立ててるわけじゃないけど、よい子は暗くなるまでにおうちに帰らなくちゃ」

冗談めかして言えば、白い神様は軽く肩をすくめた。

雪はいつまでも降り続く。
部屋に入るかと言われたけれど、ここがよかった。ここで、雪に包まれていくあの雪だるまを眺めていたかった。

「本霊に戻ったら、鶴丸はここにいたことも全部忘れちゃうのかな」
「どうだろうなぁ……。忘れないんじゃないか? 忘れられる気がしない」
「そっか。たくさんの鶴丸が本霊にもどっていろんな思い出を共有できたら、当分退屈はしないだろうね」
「きみより面白いことがあるとも思えんがな」

ふと伸びてきた指先は、触れる前に握りしめて膝へとかえっていく。そう望んだくせに、それに傷ついている自分が馬鹿みたいだと笑えてくる。

「私は鶴丸のおもちゃじゃありませーん」
「玩具だったら、懐にでも入れて持って帰るんだがな」
「はは、やだよ、そんなの」

あぁ、そうだね。そういう私だったら、どんなによかっただろう。
何をそんなに意地になっているんだと、心のどこかから声がする。
まんばちゃんも、誰も責めないと言っていた。確かにそうだろう。
だけど、やっぱりそれを言わない自分でなければ、この神様に相応しくないと思ってしまうんだ。

「手合わせだけか?」
「なに?」
「もっとここでやってみたかったことがあったんじゃないか?」
「あー……」

言えば叶えてくれそうな願い事はいくつか浮かぶ。
どれも、鶴丸にしか願えないことで、けれども、口に出来そうにない。
だから、当たり障りのない願いを差し出した。

「そういえば、乗馬もしてみればよかった」
「馬か……昨日のうちに訊けばよかったな。まぁ馬なら現世にもいるだろう」
「……そうだね。うん、帰ったらやってみるよ」
「まぁ、そうだな。ここでしか出来ないことなんてないだろうな。帰れば、ここより遙かに自由で出来ることも多いだろうからな」
「そうだね」

現世はこの閉ざされた世界に比べれば、物も選択肢も多いだろう。
だけど、そこにはあなたはいない。
そう考えたら帰れずに終われるというのは、そう悪いことじゃないような気がした。
鶴丸のいない日々を、生きなくていいんだから。

ひとつだけ。
ひとつだけ、願ってみようか。
今日で終わる私に、ひとつくらいなら許して欲しいと言い聞かせながら、「ねえ」と震えないように気をつけながら声を出す。

「名を教えたら神隠しされてしまうの?」
「名があった方が楽だというだけで、その気になればいくらでもやりようはあるな」
「なんだ……そうだったのか……」
「だからって俺たちみたいのに易々と真名を握らせないってのは間違いじゃないぜ? 現世に帰ったってきみに霊力があるのは変わらないんだからな。やたらと知られないにこしたことは……」
「名前を呼んで」
「きみ、人の話を……は? 名前?」
「名前を知られたら神隠しされちゃうもんなんだって思ってたけど、そうじゃないんでしょう? だったら私、鶴丸に名前を呼んでほしい」

もう何年も、誰にも呼ばれることのなかった私の名前。
主や主君やきみやあんたでなく、本当は私が呼びかけるように、みんなにも名前を呼んで欲しかった。
鶴丸に、名前を呼んで欲しかった。

「いいのか?」
「駄目なの? 神隠しされちゃう以外に何か問題があるの?」
「いや、……まあ、そうだな。よし、お安い御用だ。きみの名はどんな字を書くんだ?」

大きな手のひらが差し出される。
私の手よりはひと回り以上大きい、ごつごつとした男の人の手。
眺めて首を傾げると、「ここに書いてみてくれ」と言われ、そっと指を滑らせる。

「あー、逆さじゃわかりにくいな。どれ」

鶴丸が私の背後にまわった。背中に鶴丸の温度を感じ、息が苦しくなる。高鳴る鼓動を宥めながら、一画ずつ丁寧に文字を綴った。

「『   』……か?」

あぁ。鶴丸の声だと、私の名前が宝物になったみたいな音がするんだ。
好きな人に呼ばれる名前は、こんなに特別に響くんだね。

「ありがとう」

肩越しに振り返って御礼を言うと、ふと真顔になった鶴丸は微笑んで『   』と呼んでくれた。
目を閉じて、その音を耳の奥に閉じ込めようと「もう一度だけ」とねだる。最期の時にも、そっと取り出して響かせることが出来るように。

『   』

「ありがとう。ありがとうね、鶴丸」
「……もう、大丈夫だな?」

笑って頭を撫でてくれた掌はすぐに離れ「さて、そろそろ還るか」と立ち上がった。

「送ってくれるんだろう」

差し出された掌を呆けたように見ていると、私の手を取って立ち上がらせた。

「きみの手は冷たすぎるからな。部屋に着くまではあたためてやろう」

そう言って、そっと歩き出す。
こんな風に手を繋いで歩くのは初めてだ。
いつもの廊下が、違う場所に見えた。
白く染まった庭はいろんな音を吸い込んで、聞こえるのは二人分の足音と、衣擦れの音と、うるさいくらいの私の鼓動。
掌が熱い。そこから送り込まれる熱が、体中の体温を押し上げていく心地だ。
この廊下が、もっと長ければいい。ずっとずっと、鍛刀部屋に着かなければいい。
でも、そんな願いはどこにも届かない。
ただ、少しだけ力をこめた指先を強く握りかえされた。

木戸を開くと、火が燃えさかる室内はずいぶんと暖かかった。
いつもならニコニコと出迎えてくれる精霊たちも、もうその姿はない。
ただ部屋の奥で、赤い炎が揺れている。
繋いだ指先は、そっと離された。

「あ、鶴丸。これ、羽織」
「きみにやろう」
「でも……」
「あの鎖と一緒だ。どうせ持っては行けんだろうさ。きみはずっと寒そうだしな」
「……ありがとう」

ここで、初めて鶴丸に出会った。

『よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか?』

薄紅の花弁をまき散らしながら現れた神様は白くて美しくて。それなのに、子どものように顔いっぱいに笑っていた。

清く穢れを焼く炎がゆらゆらと揺れる。
炎の中からぱちりとはぜる音が、もう少しだけと引き延ばしたがる私を追い立てる。

「刀を」

恭しく差し出した両の手に、『鶴丸国永』を受け取りそのまま正座をする。
捧げ持ちながら、もう一度その姿を焼き付けるように、私の正面に立つ彼を見上げる。
金色の目は、ひたとこちらに向けられていた。
お互いに口を開かない。もう何も言えなかった。言わなくて、いいような気がした。
口の中が乾く。軽く唇を舐めてから、私は目を閉じて祝詞を奏上し始めた。
空気が、震える気がした。それと一緒に心が震える。

意識を集中する。
大切な大切なこの人を、確かにかの場所に送り届けることができるように。

あと少しで奏上が終わるというその時、ふと額に熱を感じた。額に、口づけられていた。目を開けた私の前には、初めて会ったあの時と同じ、子どものような笑みがあった。

「驚いたか」

次の瞬間、鶴丸のその身すべては無数の花弁となって舞い散り、私の視界を薄紅に染める。はらはらと舞って、やがてすべてが消え去った。

「待っ……」

他のみんなはただ手の中から消え去ったのに、本当にこの神様は。

「もぉ……最後まで……」

笑いが漏れる。喉の奥が熱い。熱くて熱くて、もう留められそうにない。

「つる、まる?」

しんとした部屋の中。炎の中からはぜる音だけが響く。

「鶴丸? もう、いい?」

呼びかける。いないことを確かめるように、知らしめるように。

「もう、泣いてもいい?」

誰も答えない。もうここには私しかいない。だから。

「もう……鶴丸のことが好きだって、言ってもいいかなぁ?」

羽織の前を、ぎゅうとかき合わせる。
目に見えない花弁をかき集めるようにして床に突っ伏して、私はようやく声をあげて泣いた。

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