記憶の欠片 第5章 護る決意 守られる覚悟

「真弘先輩っ」
「ケガはねえな?」
 安堵を浮かべ頷く珠紀を一瞥した真弘は、再び目の前の男に視線を投げた。
 珠紀の近くには守るように遼が立っており、それはあまり面白くない光景だったが、とりあえずは彼女の無事な姿に胸を撫で下ろす。
 しかし、他の守護者の姿が見えないのが気がかりで、真弘は振り返らないまま問いかけた。
「他の奴らはどうした?」
「みんなは結界を壊しに行きました」
「壊す? フフ、無駄ですよ。カミの血をひく化け物に、この結界を壊すことなどできません」
 余裕の声音で断言する男の態度に、怒りが煽られる。あからさまに化け物扱いされることには今更腹もたたないが、贄の儀で命を失った者たちをしたり顔で利用していることや、仲間に、そして珠紀に危害を加えていることを許せるはずがない。
「なめたこと言ってんなよ?」
 銃口をこちらに向けたままの賀茂に、低く告げる。
 友の遺した最後の言葉は、今もまだ耳の奥に残っている。彼は今も妖に囚われているのだろうか。それとも、先ほどの出来事で消えてしまっただろうか。わからない。
 それでも、守るべき者を定めている真弘に迷いはなかった。
「結界だろうとなんだろうと、おまえが作ったものごとき、あいつらが絶対ぶっ壊す。で、だ」
 ゆっくり言葉をきった真弘は不敵に笑い、強く地面を蹴って賀茂に躍り懸った。
「おまえをぶん殴るのは、この鴉取真弘様だぁっ!」
 拳を振り上げた真弘の前に、突然大きな影が割って入り、翼を広げてギリギリ空中に留まる。
「そういや、おまえがいたな」
 賀茂を庇うように降り立った妖の目は血の色そのもので、禍々しい光を放っている。
「おい! また囲まれるぞ」
 警戒を滲ませた遼の言葉通り、再び数を増した贄の儀の犠牲者達が周囲に集まり始めていた。
 舌打ちしながら軽い音をたてて地面に降りた真弘の耳に、「おーちゃん!」という切羽詰まった珠紀の声が響いた刹那、蒼い閃光がすぐ横を駆け抜けた。
 次の瞬間響いた銃声は誰を傷つけることもなく、ただ宙に舞った拳銃が離れた草むらに落ちて行った。
「よくやった! クリスタルガイ!」
「ニッ!」
「ふん。抵抗する分、ゴキブリより性質が悪いですね」
 妖の背後で引き金をひいた男は、手首を押さえながら薄く嗤う。武器を失ったというのに、その余裕は少しも損なわれていなかった。それは当然といえば当然のことで、結界により力を奪われながら戦わなくてはならないこちらの方が、圧倒的に不利なことに変わりはない。
 それがわかっているからこそ、賀茂は嗤っていられるのだろう。
「んだとぉ? おい、いい気になってんなよ? そいつはカミだ。いつまでもおまえの言うことを聞いてるわけじゃねえぞ」
 目の前の妖は、つまるところカミに属するものだ。カミとも思えない動きが垣間見えたのは、恐らく取り込んだ魄達による作用だろう、というのが卓の見解だった。
 カミの中には人に害を為さないものも多いが、主人に服従する式神などとは根本的に違う。どういう気まぐれでこの妖が賀茂に味方しているのかはわからないが、いつ掌を返すとも知れない危うい存在であることに変わりない。
 絶対の優位ではないのだと知らしめるようにニヤリと笑った真弘に、「言いたいことはそれだけですか?」と声が返った。
「化け物の戯言につきあうほど、私も暇ではないんです。終わりにしましょう。この世界にあなた方は不要な存在です」
「てめ……」
 反論しようとした、その時。
「なんなんですかっ!?」
 溜まりかねたように珠紀の声が切り込んだ。
「化け物だとか不要だとかっ! あなたこそ何様なのよっ!」
 食ってかかる珠紀は、足音荒く真弘の隣にやってきた。
「なんでこんなことするのっ!? 静かに眠っていた人達を起こして苦しめるなんてっ」
 ふと眉をあげた賀茂は肩をすくめると、心外だと言わんばかりの表情で答えた。
「苦しめる? 真実をお教えして、願いを叶える手助けをしているだけですよ」
「願いって……」
「犠牲になった方々は何も知らずに眠っていました。本当に命を捧げるべき者がいたと……化け物1匹の命を長らえさせるべく自分達が殺されたのだと知らずにね」
 とんだ犬死だ、と吐き捨てるように言った男は、真弘をまっすぐ見据えた。
「彼が死ねば……玉依姫共々この世からいなくなれば、犠牲になった方々も今度こそ心安らかに眠れるでしょう」
「違いますっ。みんなが願ってるのは、そんなことじゃない」
「黙りなさい。代弁者でも気取るつもりですか?」
「黙りませんっ。だってあなた、全然わかってないっ」
 まるで魄達の本当の願いを知っているような口振りの珠紀は、一歩も退かない。解放にこそ至っていないが、彼女は魄達に同調してその心に触れたのかもしれない。真摯な横顔は、怒気をはらむ声とは裏腹に泣き出す寸前にも見えた。
「わかっていますよ。真っ先に死ぬべきは、鴉だった」
 賀茂の視線は、切っ先を突きつけるような鋭さと冷たさを宿していた。
「鬼斬丸は破壊され、確かに世界の危機は去りました。けれど、それはたまたまだ」
「たまたまって……」
「たまたまでしょう?」
 珠紀の反論を許さないとでも言うように、賀茂が畳みかける。
「命を惜しんで逃げまどい、幸運にも鬼斬丸の破壊に成功し、世界は救われた。そして……誰より死ぬべきだった化け物が、今ものうのうと生きている」
「……」
「崇高な考えでもありましたか? 世界の為に……人類の為に戦ったわけではないでしょう?」
「それは……」
「我が身可愛さに動いた結果、幸運にも世界が救われたにすぎない」
 賀茂の言葉通り、確かにそこには大きな幸運もあったかもしれない。けれど、たまたまなどという言葉で済ませられるほど生易しいものではなかったはずだ。
 なにひとつ覚えていない真弘が知るのは、皆に聞かされた事実の羅列でしかない。それでも、仲間が、珠紀が、そして自分が、命を懸けて際どく勝ち取ったものだということはわかる。
 だからこそ、賢しげに単なる幸運だと断じる賀茂の態度は許せなかった。
「……そうですよ」
 真弘の怒りとは対照的に、先ほどまで相手に掴みかかりそうな勢いだった珠紀の、小さな声が耳に届く。それは彼女に似合わない、自嘲めいた声音だった。
「珠紀?」
「私は……私は、世界を守りたいなんて思ったことないです」
 少し震えた声で、けれどきっぱりと言い切った珠紀は言葉を続ける。
「自分が玉依姫だって……世界を救うためだって言われて……。でも私は、真弘先輩を犠牲にするくらいなら、世界なんて滅べばいいって思った」
「なんだと?」
 目を見開き、信じられないものでも見るような表情の賀茂は、ただそれだけを呟いた。
「世界なんて知らない。私は真弘先輩に生きててほしかった。世界より誰より先輩が大切だったから、だから私は頑張れたんです」
 真弘は彼女の噛みしめるような一語一語に、胸が熱くなるのを感じた。
 珠紀の発言は贄の儀の犠牲者達に取り囲まれるこの場においては、どこまでも自己中心的で、相手の怒りを煽りかねない言葉ばかりだ。
 それでも今、彼女の言葉がこんなにも胸に響く。どうしようもなく嬉しい。
 いつ、諦めないと決めたのか。何をきっかけに、世界よりも大切だと思ってくれたのか。共に過ごしてきた時間を忘れ去った真弘に、わかるはずもない。
 記憶を失っても、そのままで構わないと思っていた。日常生活にはなんら問題はないし、珠紀と一緒にいるのにも支障はない。
 でも今、覚えていないことがこんなにももどかしい。
 真弘は初めて心から、記憶を取り戻したいと願った。同時に、珠紀の言葉にはほんの少し嘘があるとも感じた。
 真実は覚えていない。けれど、わかる。たぶん彼女は、世界が滅んでいいとは思わなかっただろう。いや、もしかしたら、本当に思ったのかも知れない。でも少なくとも、開き直って諦めたりはしなかったはずだ。だからこそ、道は開けた。
「ふ、……ふふ……」
 あっけにとられたようにこちらを見ていた賀茂の肩が、小さく震え出す。やがてそれは大きく揺らぎ、男は狂ったように笑いだした。
 淀んだ霧に包まれた沼地に立ちこめる、犠牲者達の怨嗟の言葉。そこに響き渡る、男の高い笑い声。それはとても不気味な光景だった。
「……ない」
 言葉もなく見守る3人の前で、ふいに笑いやんだ賀茂が何か呟く。その目には、暗い光が宿っていた。
 真弘は珠紀を庇うように翼を広げる。いつの間にか遼も、いつでも珠紀を守ることができる場所に移動していた。
「やはりおまえらは、この世界にいらない」
 隠そうともしない憎悪が、彼の背後からゆらりと立ち上っているように見えた。
 急激に強まった結界の効力が、自身から力を奪っていくのを感じる。この姿も、そう長くは保っていられそうにない。けれど、ここで退くわけにはいかなかった。
「世界に必要とされてるかなんざ、どうでもいいんだよ」
 膝をつきそうになる己を奮い立たせながら、真弘はこちらを見据える賀茂を睨み返した。
 封印の一部でしかない命。それを知ってからはいつも、終わりを意識しながら生きてきた。
 でも今ここに在るのは。今、生きているのは、そんなものの為ではない。
「こいつが必要だと言ってくれる。それで十分だ」
「……私だって、そんなに多くを望んだわけではありませんよ」
「……」
「玉依姫。なぜあなたは贄の習慣など許してきたんですか? なぜたったひとり差し出せば済んだものを、多くの命を犠牲に?」
 なにかが溢れ出すように、賀茂は問い続ける。
「なんのために鬼斬丸の封印を守ってきたんですか? なんの為に……なんの為の玉依姫だ? 化け物を生かす為に化け物が封印の番をしていたとでも? なぜおまえの為に……なぜ……」
 男が答えなど期待していないのは誰の目にも明らかだった。ただ自分の中に渦巻く何かを吐き出しているかに見えた賀茂は、叩きつけるように叫んだ。
「なぜ殺したっ! なんで彼女を殺したんだっ!?」
「──っ!」
「おまえが……おまえさえ死ねば、彼女を死なせずに済んだものをっ!!」
 怒りに燃える男の目からは涙があふれ、絶望と悲しみをぶつけてくる。そこにあるのはただ、慟哭だった。
 その姿に、言葉に、初めて男の憎悪の正体を理解した。
「一番に贄になるべきだったおまえが、なんで生きているっ!?」
「……」
「……。……生きてて、何が悪いの?」
 何も言えない真弘の隣で、珠紀がぽつりと口にした。
「先輩が生きてて何が悪いんですか? 先輩が死ねば、犠牲になった人が生き返るんですか? 私達にだって選択肢があったわけじゃないっ。なかったから探したんですっ。生きていて欲しかったからっ。諦めるなんてできなかったから、だからっ……それの何が悪いんですかっ!?」
「黙れっ」
「黙りませんっ! こんな力が……こんな結界を張るくらいの力があるなら、なんでその人を助けようとしなかったの!?」
「おまえがそれを言うのか!? 玉依姫であるお前が! 彼女を差し出せと命じた玉依姫が!!」
「……」
「世界だぞ!? 世界中の人間とたったひとつの命なら、どちらを選べばいいかなんて誰でもわかるっ!! 身勝手な選択をして、生き延びてっ! それで許されると思っているのかっ!?」
 血を吐くように叫んだ男は、肩で息をしながらこちらを睨みつける。返す言葉もなく唇を噛んだ珠紀は、そのまま黙り込んだ。
「贄の儀は、こいつがしてきたことじゃない」
 あの儀式は珠紀が玉依姫になる前から、脈々と続いてきたものだ。後ろ暗いその歴史が、彼女ひとりの責任であるはずがない。
 ならば誰の責任なのか。儀式を執り行った玉依姫か。それとも、諾々と贄を差し出し続けた村人なのか。
 進んで贄にならなかった自分が悪いのだろうか。真っ先に真弘を贄に選ばなかった静紀の罪だろうか。
 わからない。
 ただひとつわかることは、男がその岐路に立った時、世界の為にかけがえのないものを諦めたということだけだ。
 自分達は同じ場所で、互いの手を離すことは出来なかった。珠紀が、離さないでいてくれた。
 たったそれだけの、そして決定的な差だ。
 けれど、と思う。男がもしも諦めなかったなら、道は開けただろうか。
 開けたかもしれない。あるいは、守護者でも玉依姫でもなかった彼らの前には、やはり道は開けなかったかもしれない。
 そんなことを考えたところで、今となっては悔恨にしかならないだろう。目の前の男も、きっとわかっているはずだ。わかっていて、それでも恨まずにはいられない。それほどに、大切な相手だったのだろう。
「……」
「……」
 睨み合う両者の均衡を破るように、ふいに何かが弾けた気配がした。途端に閉塞した空間に、風が吹き込むような心地よさを覚える。
 賀茂の張った結界が、消失したのだ。
「馬鹿な……」
「勝負、あったな」
 何も知らなければ勝ち誇りながら言えたであろう台詞を、真弘は苦い思いで口にした。
 結界が消失したということは、守護者の力を思うがままに使えるということだ。しばらくすれば、他の守護者も戻ってくるだろう。そうすれば、珠紀を守りながら妖達の動きを抑えるのもそう難しいことではないはずだ。
「まだ……終わりではありませんよ」
 目を伏せた賀茂は、唇を歪ませて笑いを形作ると、緩慢な動作で両手を胸の前で合わせる。その指先を絡めて印を結び、何事か唱え始めた。
「おいっ、やめとけ!」
「先輩?」
 珠紀は真弘が焦る理由がわからないとでもいうように、小首を傾げた。
 賀茂は十中八九、先ほど破壊されたものと同じ結界を張ろうとしているに違いない。
 しかし、あの結界はかなりの力を消耗するはずの大技だ。結界の破壊で、術者にも相応の反動があっただろうし、術を補助していた依り代は既に失われただろう。
 そんな状況で再び術を使えば、賀茂自身ただでは済まないのは明白だ。
 気に食わない相手ではあるが、多少の事情がわかった今、そのまま見殺しにはしたくない。
 けれど真弘の心配を他所に、賀茂は着々と術式を進めていった。
「死にたいんだろう。そういう匂いがする」
 遼の言葉に珠紀もようやく事態を把握したのか、「おーちゃん!」と叫び賀茂を止めようと試みた。
「ニッ!?」
 賀茂めがけて弾丸のように飛んだオサキ狐は妖に弾き飛ばされ、器用に回転して着地した。
 立ちはだかる妖の向こうで、男がガクリと片膝をつく。それが合図だったように沼地の空気が淀み出し、真弘は再び力が奪われていくのを感じた。
 様子を伺うように取り囲んでいた人影が、殺意を持って徐々にその輪を狭めてくる。その人波の中から無数の小石が浮き上がり、一斉にこちらめがけて飛んで来た。
 咄嗟に珠紀を背に庇い、真弘は風の刃でそれらを薙ぎ払う。
「大丈夫か? 珠……」
 振り返ると、遼が珠紀を抱き寄せて、その腕の中で庇っている。
「人の女に気安く触ってんじゃねえっ!」
 すかさず彼女の細い腕をとり、自分の方に引き寄せると、呆れたようなため息と共に「そんなことを言っている場合か?」という言葉が降ってくる。
「うるせえっ! だいたいおまえは……──っ!」
 再び襲いかかる無数の石からギリギリ腕の中の珠紀を庇ったものの、そのいくつかは真弘の翼を痛めつけた。
 先ほどまでの嬲るような攻撃とは違い、確実に仕留めにきているのを感じ、冷たい汗がその背を伝う。
「おいっ、雑魚は任せたからな」
「おまえはどうするつもりだ?」
「おまえだ? 先輩と呼べ、先輩とっ! それから敬……」
 敬語で話せと言いかけて、襲いくる礫を際どく躱す。
 言ってやりたいことは山ほどあるが、そんな暇はなさそうだ。
「俺はあの妖をぶっ飛ばす」
「先輩、待ってください」
 腕の中の珠紀が慌てたように声を上げる。その顔は青白く、結界は確実に珠紀をも消耗させていることは明らかだ。それでも、彼女は魄を解放することを諦めてはいないらしい。
「わぁかってるって。ギリギリまで待ってやる」
 笑って言えば、珠紀も微笑んで頷く。それに頷き返した真弘が「カタつけんぞ?」と言って腕をとくと「はい」と力強い返事が返った。
「ぃよっし! その前に、だ」
 真弘は珠紀の両腕をそっと掴むと「補充させろ」と囁いて唇を寄せた。
 目を閉じる寸前、なんのことかわからないとばかりに「え?」と間の抜けた顔をした珠紀が見えたが、それもすぐに閉ざされる。唇には、いつかと同じ柔らかな感触。そして体中に響く、少し早い己の鼓動。
 奪うように、与えるように、互いの中で何かが溶け合うのを以前よりも明確に感じる。
 本当ならもっとゆっくり味わいたいところだが、そういう状況でもない。名残惜しさを感じながら身を離せば、珠紀は恥ずかしそうに少し俯き、上目遣いで「補充出来ましたか?」などと訊いてくる。その様はとても可愛く、抱きしめたい衝動に駆られたが、すべては魄を解放し妖を常世に送りつけてからだ。
 真弘は強い風を巻き起こし、珠紀に近づく人影を薙ぎ払うと、妖目掛けて力強く翼をはためかせた。
 
 
 賀茂の張った結界は、依り代がない為か、それとも賀茂自身の力の限界なのか、最初に張ったものほど効力は強くなかった。その為、玉依の力を得た真弘は対等ともいえるレベルで妖と渡り合うことが出来た。
 それでも、珠紀が魄を解放するまでは完全に叩きのめすわけにはいかず、そんな微妙な力加減をして戦えるほど簡単な相手でもなかった。
「──っ!」
 鋭い爪が、肩の傷口を抉るように掠める。乱れる呼吸を整えながら、真弘は横目に珠紀の様子を探った。
 立ち尽くし魄に同調しているらしい珠紀と、それを守るように応戦する遼の姿が映る。
 遼はやはり守護者なのだろうか。
 その戦いぶりにふとそんなことを考える真弘に、再び妖の爪が迫る。風の刃を叩きつけると、いくつかの爪の先が鈍い音をたてて割れ落ちた。
「そう何度も食らうかっつうんだよっ!」
 間合いを詰めようと飛び立った真弘に、妖はいくつもの力の塊を飛ばしてくる。気配だけで形の見えないその攻撃は、黒い翼を打ちのめし、真弘は地面に叩きつけられた。
 同じ攻撃が珠紀に向かって放たれる。真弘はすかさず風を巻き起こし、それらをどうにか相殺し、しきれない分は自らの体で受け止めた。
(まだか……!?)
 心の中で珠紀に問い掛ける。そんな問いが、彼女に届くはずもない。それでも真弘は神経を研ぎ澄まし、ただその瞬間を待つ。
 やがて、それは唐突に訪れた。
 妖の中で、何かがほどけた気配を感じた。本能が、今だと告げる。その瞬間を逃さず、真弘は渾身の一撃を妖目掛けて叩きつけた。
 幾千幾万の悲鳴が重なったような断末魔が、淀んだ空気を震わす。
 地面に倒れ伏した妖は、獣の姿すら形作ることも出来なくなり、蠢く闇の塊へと変じていく。
「やったか……?」
 肩で息をする真弘が勝利を確信し、ホッとしたその瞬間。あろうことか闇の塊が、思いも寄らぬ俊敏さで珠紀に襲い掛かった。
 安堵していただけに、真弘は完全に出遅れた。
「珠紀っ!」
 魄の解放で、力を使い果たしたのだろうか。地面にぺたりと座り込んだ珠紀を、闇の塊がすっぽり包む。
「珠紀っ!!」
 その傍へと駆け寄るも、闇を攻撃するわけにはいかない。中には珠紀が囚われているのだ。
 遼と肩を並べ、ただ呼び掛けるしかない真弘の前で闇が蠢く。
「おいっ!」
「珠紀! 珠紀っ!!」
 途方に暮れて見つめる漆黒の闇に、ふと蒼く小さな光が灯った。
 わけもわからずただ息を呑むふたりの前で、蒼い光は徐々に数を増していく。やがて闇色がすべて蒼い光に塗り変えられたかと思うと、弾けるように散り散りに飛び立ち、周囲を漂い出した。
 賀茂の張った結界が消失し、沼地を覆っていた霧が晴れていく。
 いつの間にか、夕闇が立ちこめる時間になっていたようで、周囲の景色は薄暗く沈み始めている。それらを仄かに照らしながら、蛍のような光が無数に漂う。
 蒼く儚い光が舞う中。その只中に、珠紀がゆっくりと立ち上がる。
 いつの間にか千早に緋袴を纏った彼女は、まるで何かを抱きしめようとでもするように、両手を静かに差し出した。
 厳かとも言えるその雰囲気に、真弘は珠紀に呼び掛けることも出来ずに、ただ瞠目する。
 こんな光景を見たことがあるように思う。それは、儚く朧な記憶。遠い昔。たとえば神世の時代のような。
 巫女装束で沼の前に立つ長い髪の少女は、頬を濡らして軽く空を仰ぐ。
「ありがとう……。ごめんなさい」
 小さく呟く珠紀の前髪を、吹き抜けた風がふわりと揺らした。

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