記憶の欠片 第5章 護る決意 守られる覚悟

 珠紀はひとつ息をついて目を閉じた。霧の向こうでは戦いが繰り広げられているはずなのに、耳に響くのは少し早い自分の鼓動ばかりだ。
 皆には大丈夫と言ったものの、やはりこれからやろうとしていることを思えば、不安の方が大きかった。
(大丈夫。真弘先輩が近くにいてくれる)
 言い聞かせてみても、不安は消えない。それは真弘に対する信頼が揺らいでいるわけではなく、ただ己の力が信じられないからだ。
 玉依姫なのだから出来るはず。幾度そう繰り返したところで、言葉は寄る辺のない呪文のように珠紀の内に漂うばかりで、少しの支えにも励ましにもならなかった。こんな結界の中で、しかも頭痛に苛まれながら、本当に出来るのだろうか。
「ニィ」
 足下からあがった声に、目を開けて視線を落とすと蒼い瞳が自分もいると主張していた。
「そうだね、おーちゃんもいたよね」
 忘れられていたのが不服だとでも言いたげに短く鳴いた使い魔に、こわばる笑顔を向ける。
「ごめんね。君も頼りにしてるよ」
「ニッ!」
 応えるように鳴いたオサキ狐は、ふいに振り返り身構えるような素振りをした。
 ハッとして珠紀も振り返ると、いつの間に現れたのか制服姿の狗谷が立っていた。
「狗谷君」
「……何をしている?」
 今日のことは、彼には伝えていなかった。
 珠紀が遼の存在を伝えた後、美鶴は狗谷家について調べていたらしく、故意に消し去ったのではないかと思えるほどの不自然さで、何もわからなかったと言っていた。ただ、守護五家以外の家、主に分家から守護者が出た例は過去にもあったこと、それでも同時に5人以上並び立った記録はなかったことを告げた美鶴は、油断しないほうがいいと念を押していた。
「何って……狗谷君こそ、こんなところで何してるの?」
「妙な匂いがしたからな」
「ここにいたら危ないよ。狗谷君ならわかってるんじゃない?」
 何か感じるものがあってこの場に現れたのだろうが、賀茂の施した結界は、彼に影響を及ぼさないのだろうか。
 そんな珠紀の疑問をよそに、「あいつ以外の奴らは逃げたのか?」などと口にしながら、遼は真弘のいる方を顎で指した。
 いつから居たのかわからないが、他の守護者が珠紀を残して走り去るのを見て、心配して姿を現してくれたのだろうか。それはさすがに都合がよすぎる考えだろうと思いなおしながら、珠紀は首を振った。
「逃げたんじゃないよ。みんなはこの結界を壊しに行っただけ。これがあると、みんな力が使えないから。……狗谷君はなんともないの?」
「結界……道理でな」
 問いへの答えとは違う小さな呟きが耳に届き、珠紀はやはり遼にもこの結界の効力が及んでいるのかもしれないと思った。
「それで?」
「それで、って?」
「おまえは、あいつらの化け物退治を見物するってわけか」
 挑発的な眼差しで吐かれるのは、棘のある言葉だ。お前は見ているだけなんだろうと断じる視線に、珠紀はムッとしてすかさず反論する。
「見物でこんなところに来るわけないでしょっ。私は、捕まっている人たちを解放するんだよ」
「捕まっている?」
「この沼で、殺された人たち」
 目を瞠った狗谷の反応は当然だと思った。贄の儀のことを、彼は知らないだろう。それとも、これまでの出来事で既に何か気づいているだろうか。
 反応を伺うように見つめていると、すっと目を細めた遼は「それが出来たら、玉依姫として認めろとでも言いたそうだな」などと言って嗤う。
「……」
 認めて欲しいのだろうか。認めて、彼に守護者になって欲しいだろうか。
 少し考えて、珠紀は口を開いた。
「守護者になんて、ならなくていいよ」
 それは心からの言葉だった。
 鬼斬丸があった頃ならば、守護者がその務めを果たさないなどということは許されなかっただろう。しかし、鬼斬丸もない今、それは義務ではないはずだ。むしろ、やめて欲しいとすら思っている。
 玉依姫の為に、守護者だというだけで危険にさらされていいはずがない。
「認めろと言ったのはそっちだろう。それとも、余計な守護者はいらないってことか?」
「……ひねくれてるなぁ」
 こぼれたのは、正直な感想だった。
 彼は、守護者になどなりたくないはずだ。それなのに、いざそれでいいと言えば、まるで必要として欲しいような発言をする。天邪鬼そのものだ。
「なんだと?」
「義務じゃないって言ってるの。義務とか運命とか宿命とか……そういうのはもう全部おしまい。全部、終わらせなくちゃ」
 鬼斬丸を壊せば、それですべてが終わるのだと思っていた。世界を脅かすものも、守護者を縛り続けた宿命も、鬼斬丸さえなくなれば、すべてなくなるのだと。
 けれど実際は、そうではなかった。
 贄の儀を行っていた過去は消えないし、犠牲者たちは今もここに囚われている。
 鬼斬丸がなくなっても、カミを多く擁すこの地では今後も典薬寮との関わりは避けて通れないだろうし、現にこうして思いも寄らない妖の出現に振り回されている。
 そして、その典薬寮には、守護者を妖扱いする賀茂のような人間がいる。典薬寮の中だけではない。村の中にだってそう考える者は多いのかもしれない。
 きっと考える以上にそれらは複雑に連鎖していて、今回のことを解決したとしても、すべてが丸く収まるというものではないのだろう。
 それでも、そんな連鎖はどこかで断ち切らなければいけない。
 鬼斬丸のなくなったこの村で、玉依姫である自分が出来ることなど未だによくわからない。ただ、大切な人を、仲間を守りたい。その気持ちは、珠紀の中で唯一確かなものだった。
「本当にできると思ってるのか?」
「……やってみなくちゃわからない、けど」
 呆れの滲むため息が聞こえ、思わず視線を落とす。できると信じているならば、こんな風に不安を持て余してはいない。そのくせ心の片隅では、出来る者がいるとすれば玉依姫である自分だけだろうと確信めいた思いもある。
「ふん。強気なのか弱気なのか、わからない奴だな」
「そんなこと言ったって……」
 上目遣いに伺い見れば、馬鹿にしているわけでも、からかいの色もない眼差しがこちらに向けられている。顔を上げて、珠紀もまた見つめ返すと、やってみろと低くぼそりと言って視線は逸らされてしまった。
「え?」
「やってみろと言ったんだ」
 思いもよらない彼の言葉に、問うように見つめてみても、彼は周囲に気を配るように珠紀に背を向けてしまった。立ち去る気配はなく、どうやら守ってくれる気らしい。
 周囲の禍々しい気は増大し、いつまでも遼と話してる場合ではなさそうな緊迫感が漂い始めた。
 珠紀は目を閉じると、再び意識を集中し始めた。
 自分を中心に円をイメージする。卓に習った結界だ。一重、二重と思い描いたそれは光を放ち、地面から浮かび上がる。
 光の向こうで振り返って驚く遼の姿も、すでに珠紀の意識の外だ。
 防御する為というよりも、術を使う場を安定させる為の結界だ。ごく初歩的なもので、本来ならばそれほど力を要するものではないはずのそれが不安定に揺らぐのは、絶え間ない頭痛のせいか、もしくは賀茂の敷いた結界の影響かもしれない。それでもどうにか場を作り上げた珠紀は、長く静かな呼吸を繰り返し、妖への同調を始めた。
 己の存在を呼吸に重ねる。溶け込むように消え去るようにイメージしたなら、自分の肉体と意識を少しずつずらしていく。
 禍々しい気を放つ妖の居場所は、探すまでもなかった。相手の波長を探り、自分の意識を溶かし込むようにして同調していく。
「くっ──!」
 同調を始めた途端に、強い気に翻弄される。それは痛みや衝撃ではなく、ひたすら不快な感覚だった。まるで方々から伸びてくる何かに、ざわりざわりと撫で回されるような嫌悪感。そして、それらが珠紀を散り散りにもぎとっていこうとでもするような感覚に、意識が乱される。
 どうにか繋ぎ止めるように持ち堪え、深く探るように同調していくと、人とは異なる思念が散在している場所へとたどり着いた。
(カミ様まで……?)
 妖が食らったのか、賀茂の結界がそれらを吸収して妖に送り込んでいるのかはわからないものの、そこには多くのカミの気配が漂っていた。
 そういえば、と思う。ここのところ神社の敷地内にやけに小さなカミ達が増えていた。妖から逃げてきたのか、賀茂が張ろうとしていた結界を察していたのかはわからないが、おそらくはそれらの力の及ばない安全地帯へと、避難してきていたのだろう。
(教えてくれればいいのに……)
 部屋の中を、何食わぬ顔で歩き回っていたカミたちを思い出す。どうせ避難してくるならば、例えば結界のことを少しでも教えてくれていたなら、少しは対策がたてられたかもしれないのに。
 恨みがましく考えかけた珠紀は、ふと、人はカミに、カミは人に干渉しない、という言葉を思い出した。あれは誰に聞いた言葉だったろうか。守護者の誰かだったろうか。それとも、静紀だったろうか。
 互いに干渉しない。だからこそ。
(気付かなくちゃ、いけなかったんだ)
 カミと人は本来存在する次元が少し違う。それゆえ、普通人間はカミが見えないし、関わらない。
 その普通から、ほんの少しはずれている意味。カミの末裔たる力を、未だ受け継ぎ続けている──意義。
(私が気付けなかったせいで……)
 よぎった思考にするりと寄り添うように、其方ガ悪イノデハナイ、という声が響いた。
 驚いて、声の主を探ろうと周囲に気を配る。
 意識体では、肉体が感じるほどに明確な感覚はなく、上も下も、今自分が立っているのか漂っているのかすらわからなかった。それでも、悪意ある何かに取り囲まれているということだけは感じる。もっともここは、悪意の固まりともいえる妖の中なのだから、それは今更すぎることだった。
「其方ハ悪クナイ」
 強く響く言葉とは別に、周囲にはたくさんのひそやかな声がさざめき始めた。それはすすり泣きのようにも聞こえた。
 嘆き。怨恨。怒り。
 空気を震わすさざめきは、珠紀を浸食しようとでもするように、ざわりざわりと撫で回してくる。それはあまりに一方的で、怖くなった珠紀は本来の目的を忘れ、ただひたすらそれらを拒みながら立ちすくんだ。
 そんな彼女の耳元で、宥めるように何かが囁く。
「恐レルコトハナイ。我ハ其方ノ理解者」
「……誰?」
「玉依姫ノチカラナド、ナクテイイト思ッテイルダロウ?」
 落ち着かなくちゃと心の中で繰り返す。そんな珠紀の何もかもを見透かすような余裕の声音は、穏やかな口調とは裏腹に、ひどく冷たい響きを伴っていた。
「何を言って……」
「玉依姫ナドイラナイト、誰ヨリ其方ガ望ンデイル」
「そんなこと、ない」
 珠紀の返答に、クッと笑いを漏らしたそれは、偽ルナ、と撫で回すように囁く。
「ワカルゾ、感ジル。其方ノ本当ノココロ。カワイソウニ。玉依姫ニナド、ナリタクハナカッタロウ?」
「そんなことないって言ってるでしょっ!」 
「ココニイル者ラヲ殺シタノハ玉依姫ダ。ソンナ者ヲ許セナイノダロウ?」
 その言葉に呼応するように、周囲のさざめきが大きくなる。
 殺シタ。玉依姫ガ殺シタ。玉依姫ニ殺サレタ。
 寄せる憎悪の主は、贄の儀の犠牲者達だ。それらを前に、珠紀は言い訳でしかないとわかっていながらも、どうにか言葉を選び出した。
「殺したくて殺したわけじゃない。……仕方なかったんだよ」
 言いながら、なんて説得力がないんだろう、と可笑しくなる。仕方ないなんて、誰より珠紀が思ってはいなかった。鬼斬丸の封印が世界の存続に直結していたのだとしても、やはり贄の儀が正しいことだったとは思えない。
 その思考すらも見透かすように低く笑った妖は「其方ハ正シイ」と愉しげに囁いた。
「命ヲ軽ンジ、犠牲ニシテイイハズガナイ。ソウダロウ?」
 今までの玉依姫は、命を軽んじていたのだろうか。
 そんなはずはない、と思う。思いながら、あの夜、珠紀を盾に真弘を従わせ、他の守護者を道具のように扱った静紀の行動が思い起こされる。
 もしも玉依姫にとっては、守護者も、村人の命さえも封印の道具でしかなかったのだとしたら。
「そんなはず……ないよ」
 言い聞かせるように口にする。それは自分に向けた言葉だ。
 軽んじていたわけではない。静紀が落とした悔恨の呟きは、心の底では割り切れない何かがあったからこそのものだったはずだ。
 けれど。
「役目ヲ言イ訳ニシテ殺シ続ケタ者ニ、嫌悪ヲ覚エル。ソレハ当然ノコトダ。其方ハ間違ッテイナイ」
 同意を示す声音は、珠紀の隙を見つけだしては、付け入るような言葉を投げる。
「愛スル者ヲ縛リ続ケタ者ガ、憎イダロウ?」
「それは……」
「玉依姫ニナド、ナリタクナイダロウ?」
 ゆるゆると首を振って拒むのに、じわりと染み入るように浸透してくる。惑わされるなと己に言い聞かせる珠紀の耳に、決定的な言葉が響いた。
「鴉取真弘ハ、玉依姫ヲ恨ンデイル」
「──っ! そんなことっ」
 ないと言いかけたものの、その先を紡ぐことは出来なかった。
『真弘先輩は、玉依姫を恨んでいませんか?』
 本当は、ずっとそう訊いてみたかった。
 恨んでいると言われたら、どうしよう。それが怖くて、言い出せずにいた。
 真弘を贄扱いしたのは珠紀ではない。でも、その宿命を伝えたのも、その為に彼をこの村に閉じこめたのも『玉依姫』だった。それは自分ではないけれど、それでも、今は珠紀が『玉依姫』である以上、自分のせいではないと言い切ることに、罪悪感を覚える。
 その罪悪感すら妖の思惑の内だということに、自問を繰り返す珠紀が気付けるはずもなかった。
「玉依姫ナド、イナクテヨイノダヨ」
「玉依姫が……いなくていい?」
「委ネヨ。我ガ其方ヲ解放シテヤロウ」
「かいほう……」
(そうだ。解放しなくちゃ……私はその為に……。……解放? 誰が……なにを?)
 侵入してくる何かに、混沌と捕らわれていく。
「玉依姫ナドイナクナレバイイ」
「……」
「世界ナド滅ベバイイ」
 それは賀茂の声だった気もするし、知らない誰かの声のようにも聞こえた。そう感じる心さえ、どこか遠い。
 溶け込んでくる意識は、死ニタクナカッタ、生キタイ、ナゼ死ナナクテハイケナイノカと訴えている。そうして、まるで導かれるように声を揃える。
「犠牲ノ上ニ続イタ世界ナド、滅ベバイイ」
 違う、と。
 辛うじて繋ぎ止める理性が、流されまいと踏みとどまる。多くの犠牲を代償にしたのだから滅べばいいなんて、それはあまりに乱暴だ。
 反論を嘲笑うように、玉依姫ハ死ネバイイ、死ネ、償エ、殺セ、と蹂躙する勢いで思念が押し寄せ流れ込んでくる。悪意の渦に、飲み込まれる、と思った刹那。
「珠紀っ」
 沈みかけた珠紀の意識は、呼びかけに引き戻された。同時に、何かが珠紀の周囲から邪気を遠ざける。
「……真弘、先輩?」
 遠くて、微かで。それでも確かに、それは真弘の声だった。しかし、我に返って周囲を探ってみても、そこに彼の気配はなく、ただ幾つもの光が珠紀を取り囲むように漂うばかりだ。
 蒼く淡い光はひどく頼りなげで、そのくせ清らかな気を放ち、彼女の周りから確実に邪気を遠ざけているようだった。
『なんかあん時、おまえのまわりだけ少し光って見えたからよ』
 真弘が言っていたことが思い出される。以前、沼で魄達と対峙した時、真弘は珠紀の周りだけが少し光って見えたと言っていた。
 よくわからないが、これらは真弘が見たという光と同じなのだろうか。
 見極めようとじっとその光を見つめる珠紀の耳に、玉依姫、という呼びかけが届いた。
「玉依姫」
「玉依姫」
 鈴の音のように澄んだ幾つかの声が、しきりに珠紀に呼びかける。
「ひきこまれてはなりません」
「同調しては駄目です」
 それらは怨みを宿す声音ではなかった。あるのはただ、温かな気配だ。
 それらの声に混じり、珠紀、と呼ぶ声が聞こえた。真弘の声とは違う、穏やかで、なぜかとても懐かしい声だった。
「……誰?」
「心を澄ませなさい。ここに在るのは、あれに増幅された悪意ばかりだ」
「誰なの? なんなの? なんでそんなこと」
 問いばかりを並べる珠紀に、落ち着きなさい、と幼子にでも言い聞かせるような男の声が再び響く。
 ああ、やっぱり私、この声を知ってる。
 そう思っても、それが誰なのかはわからない。もどかしさを覚えながら響く声に注意を向けると、再びたおやかな鈴の音のような声が、玉依姫、と呼びかけてきた。
「大丈夫です。貴女にならわかるはず」
「わからないよっ。私は玉依姫って言ったって全然まだまだで……」
 確かに力はあるのかもしれない。けれど、それはとても未熟だ。カミの異変の意味にも気づけず、今だって正体不明のこれらの助けがなければ、妖に取り込まれていたのだろう。
 情けなさを覚える彼女の心中を知ってか知らずか、周囲の光から気泡が弾けるようなくすくすとした笑い声が漏れた。
「そうですよ。『まだまだ』です、玉依姫」
「そんなの知ってますっ」
「それでも、今は貴女が玉依姫です。私達に出来るのは、こうしてほんの少し力を貸すことだけ」
「……」
「大丈夫。『まだまだ』限界ではないでしょう?」
「それは……」
「あなたならできます」
 あやふやで、なんの指針も与えてはくれない声の主たちは、「見つけて」と囁いた。
「本当の心を見つけてください」
「本質に目を凝らして」
「そんなの……わからないよ」
 いくつもの声に頼りない答えを返すと、すかさず「ソウダ。其方ニハ出来ハシナイ」という声が響いた。消え去ったわけではなく、すぐ傍で隙を伺っているのだろう。
 声に増幅されるように生じた不安を打ち消すように「珠紀なら出来る」という言葉が聞こえた。
 ああ、またこの声だ、と思う。記憶に深く眠るような、遠い日に聞いた気がする穏やかな声に、温かな掌で頭を撫でられたような安心感が呼び起こされる。
「静紀さんの血をひくお前なら、必ず出来るよ。珠紀」
「えっ?」
「玉依姫。時がないのです」
「急いで」
 生じた疑問を考える間は与えられることなく、急かす声が幾つも響いた。
 闇は珠紀を取り込もうと狙っている。それを辛うじて遠ざけているらしい、光達はあまりに仄かで頼りなく、そういつまでも妖を退けてくれそうにない。
 本当の心。本質。
 それが何を指し、どこにあるのかわからない。でも、後には退けそうにない。だったらやるしかない。心を決めてもう一度意識を集中し、彼らが告げた『本質』を求めて周囲を探った。
 同調していくのではなく、存在する者達の気配を丹念に辿る。
「其方ニハ無理ダ」
「人殺シ」
「ヤルダケ無駄ダゾ」
「オ前ノセイデ死ンダ」
 嘆きや怨みの声の隙間を縫うように、自らの力を広げていく。押し戻そうとする強い力やざわりと触れる不快な感覚に、負けるなと自分を励ましながら踏みとどまり、少しずつ先を目指す。やがて、網の目のように張り巡らされた何かの向こうに、多くの気配を感じた。導かれるようにそれらを探りながら注意深く辿ると、唐突に多くの思念が溢れた場所に到達した。
「──っ!」
 そこは、静かな場所だった。
 ここだ、とわかった。理屈なんかでなく、珠紀の中の何かが、解放すべき者達はここに居ると示していた。
 先ほどまで響いていた恨みや怒りの言葉はなく、静かに満ちているのは深い悲しみの気配だ。
 いつの間にか、淡い光たちが再び周囲に漂っている。
「玉依姫」
「玉依姫」
 呼びかけに小さく頷いて、珠紀は魄を解放する為の出口を探る。
 漂う魄たちは、恨んでいないわけではない。怒っていないわけではない。声高に訴えてはこないだけで、そんな気配も立ちこめている。
 力を周囲へと張り巡らせていくうち、時折そんな彼らの記憶に触れた。悲しみは深く根付き、とても受け止めきれるものではなかったけれど、それを理由に逃げ出すことなど出来るはずもない。
 贄になれと言われた絶望。ぶつけどころのない怒りや、身がすくむばかりの恐怖。そして、願い。
 仕方ないのだと言い聞かせるしかないやるせなさの中で、彼らが守りたかったのは世界なんかじゃなかった。それは珠紀がとてもよく知る感情で、だからこそ、珠紀は初めて心の底から魄達を解放したいと思えた。
 典薬寮を黙らせる為とか、守護者を守りたいからとか。当初の目的を忘れるほどに、強く。玉依姫だからなんていう義務感ではなく、自身の願いとして。
(全部、解放する──!)
 己の内の強い力の在処を、見つけたと思ったその刹那。唐突に衝撃を感じ、引き戻されるのを感じた。
 ひやりとした外気を感じながら目を開けると、視界は白く閉ざされている。
「……?」
 先程まで感じなかったひどい頭痛を覚え、眉を顰めながら周囲を見渡すと、肩で息をする遼の背中が見えた。
「終わったのか?」
 肩越しに振り返る遼を見つめながら、どうやら肉体に戻ったのだということを理解する。
 珠紀が張ったはずの結界は消失しており、どうやらその消失の衝撃で、肉体に戻ってしまったのかもしれないと朧気に考える。
「終わったのかと訊いてるんだ」
 苛立ちを隠さない声に、問いかけられていたことを思い出す。
「あ、ごめん。まだ……」
 珠紀の答えを聞くやいなや、忌々しそうに舌打ちした遼は、ハッとしたように鋭く「伏せろっ」と叫んだ。
 わけもわからず頭を抱えてしゃがみこんだ珠紀の上を、空気を切り裂く何かが走り抜ける。どうやらここは妖の攻撃に晒されているらしい。
 白い霧に揺れる多数の人影に取り囲まれている。贄の儀の犠牲者達だろう。けれどあれらが魄の本質ではないと、今の珠紀は知っていた。ここにいるのは、あの妖が創り出したものだ。
「やるなら早くしろ。あっちはやられたらしい」
「え?」
 そういえば、なぜこの場が危険に晒されているのだろうか。時を稼ぐと言っていた真弘は、どうしたのか。
「まひろ……先輩?」
 周囲を守るように渦巻いていた風も、止んでいる。しかも、真弘の姿は見えず、声すら聞こえない。
「真弘先輩っ!」
 白い霧の向こうから返るはずの声はなく、恨みの声がさざめくばかりだ。
 嫌な予感に、ドクンと心臓が跳ね、途端に早鐘を打ち始める。
「先輩っ! 真弘先輩っ! 返事をしてください!」
 鼓動に急かされるように必死で呼び掛けても、やはり真弘の声は返らなかった。
「おい」
「真弘先輩っ!! 真弘先ぱ……」
「おいっ!!」
 駆け出しそうになる珠紀は、肩に掛けられた手に強く引き留められた。
 遼は珠紀の肩に手を置いたまま、「すぐに決めろ。やるのか、逃げるか」と迫る。
 彼は、まだ守護者ではない。言うなれば当事者でもないのだから、珠紀を見捨てて逃げるという選択肢もあるはずなのに、こうしてここに居てくれるのは少し不思議な心地がした。
「狗谷君……」
 思わずその名を呼ぶと、諦めたような溜息と共に「遼でいい」とぶっきらぼうに言った。その様に、珠紀の張り詰めた心が少しだけ緩む。
 やるのか、逃げるのか。答えなど、決まっていた。
 けれど、それを遼に告げようとした瞬間、彼は何かに気付いたように腕を伸ばし、珠紀を庇うように立つと霧の中へと呼び掛けた。
「出てきたらどうだ?」
「さすがに鼻がきくらしいね」
 現れたのは賀茂だった。皺ひとつないスーツに身を包む彼は、蔑むように嗤っている。
 霧に包まれ薄暗いからか、それとも結界術によって消耗しているのか、その顔色は白く生気もなかったが、眼差しだけは強く冷たさを湛えていた。
「君もなくした側の者だろう? なぜ玉依姫の味方をする?」
「少なくともこいつはあんたみたいに恨みつらみにまみれた、ひどい臭いはしないからな」
「ふっ、所詮化け物は化け物の血に惹かれるらしい。まあ、いずれにしても処分することには変わりないがね」
 そう言うと、賀茂は躊躇いのない仕草で懐から何かを取り出し、まっすぐにこちらに向けてきた。拳銃だ。
「嘘……」
「化け物を狩るには、このくらい用意しないとね。取り敢えず1匹は、あれが処分した。次は君にしますか? それとも玉依姫にしましょうか?」
 取り敢えず1匹。それは真弘を指しての言葉だろうか。
 まさか、と思いながら、震えそうになる声を抑えながら珠紀は疑問を口にした。
「1匹って……どういう……」
「決まってるじゃないですか。真っ先に生け贄になるべきだった鴉のことですよ」
「嘘っ! ま、真弘先輩が、やられるはずないでしょっ」
「嘘? なんで私が……」
 賀茂は嗤いながら、銃にかけた指先を動かすと、安全装置をカチとはずした。
 こんな状況だというのに、珠紀は、ああ、テレビと一緒だ、などと思った。拳銃など普通の人は持ち歩いていないもので、だからこうしてつきつけられていても、どこか現実感がない気がした。
 それでも本能は確実に目の前の危機を訴え、震える足は誤魔化しもきかなかった。
「なぜ、こんなことをする? 何が目的だ」
 珠紀を庇うように腕を伸ばしたまま、遼が賀茂へと問いを向けた。その声音には、少しも怯んだ様子がない。
「なぜ? 化け物を退治するのに理由が必要ですか? 化け物は存在するだけで悪だ。ましてや、これまで多くの命を代償に生きながらえてきたものを、駆除するのは当然でしょう?」 
「そんなの……」
 その返答に、賀茂は言葉が通じない相手なのだとわかった。価値観だとか、そういうものが根本的に違う相手に、いくら言葉を尽くしてもきっと通じない。
 そんな男を前に、湧いてきたのは悔しさや怒りだった。
「おい、逃げろ」
 こちらを見ないままの遼の言葉に、珠紀はゆるりと首を振って「逃げないよ」と答えた。
 妖の内に囚われていた魄達は、擦り切れそうに疲弊していた。
 封印されていた時とは違い、妖は魄達をエネルギーへと変えて行動していた。この機会を逃せばきっと、あの魄達は完全に吸収されて消え去ってしまうに違いない。
 賀茂の背後には、恨み言を口にする人影が相変わらず幾つも揺れている。それらを背に、彼はまるでその代表のような顔で、守護者や玉依姫を殺そうとしているのだ。
 賀茂に真弘の存在の意味を知らされた贄の儀の犠牲者達は、動揺し、ならばなぜ自分達が殺されたのかと訴えていた。でも同時に、それが仕方のないことだったとわかってもいたのだ。
 真弘は──クウソノミコトの末裔が引き継ぎ続けた封印の力は、あくまでも切り札であり、それは本当にギリギリの状態になるまで、先の世界を生きる者達の為に残されておくべき手段だったからだ。
 触れた記憶の多くは、悲しみに溢れていた。けれど、贄になった彼らの多くが願っていたのは、復讐などではなかった。
 犠牲者達が命を捧げてでも、守りたかったもの。
 珠紀が触れたのは、ほんの少しで、それがすべてではない。それでも、欠片なりともそれを知った自分が、彼らを見捨てられるはずがない。
 玉依姫だから、しなくてはいけない何かがあるのだと思っていた。でも、違う。
 贄になってくれた彼らは、今苦しんでいて。そんな彼らに応える方法がひとつでもあるなら、退けるはずがない。
 それは、救いではないかもしれない。自己満足かもしれない。解放したところで、彼らには還る肉体もないのだ。
 すべてを取り戻すことは出来ない。玉依姫に出来ることなどささやかで、なにもかもを救済するほどの力は持ち合わせてはいない。ましてや、自分は守って貰ってばかりの、未熟な玉依姫だ。
 それでも、手が届く場所くらいは守りたい。出来ることは、放棄したくない。
 真弘のことは、心配で堪らない。結界を壊しに行ってくれた仲間のことだって、気に掛かる。でも今自分がすべきことは、逃げることでも、彼らの安否を案じて確かめに行くことでもない。
「……なんでですか?」
 逃げ出したくなる心を抑え込みながら、珠紀は銃を向ける男をまっすぐ見据えた。
「贄になった人達は静かに眠っていたのに……眠っていたかったのに、なんで」
「──っ! 黙れっ!!」
 響く銃声に、咄嗟に目を瞑り身を縮こませる。しかし、痛みも衝撃もなかった。
 恐る恐る目を開けた珠紀の髪を、強い風がなぶる。
「覚悟は出来てんだろうな?」
 怒りの滲む、低く抑えた声が響く。その声に、心の底から安堵を覚えた。
 泣きたくなるほど、大好きな背中。
 そこには大きな翼が、すべてから守るように広げられていた。

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