記憶の欠片 第2章 当代玉依姫

 昼休みを告げるチャイムが響き、一目散に教室を飛び出した珠紀は、屋上へのドアを前に深呼吸をひとつ。
(先輩、もう来てるかな?)
 早く逢いたくて駆けてきたのに、そのドアの向こうに真弘が居るかも知れないと思うと、ノブを回す手が止まる。
 今朝、真弘はいつものように迎えに来てくれた。いつもと違ったのは、神社の石段の下で待っているのではなく、玄関まで来てくれたことだ。
 眠そうな顔で朝の挨拶をする真弘の頬からは、昨日負った擦り傷がきれいに消えていた。守護者の回復力を改めて目にした珠紀は、もしかしたら記憶の方も戻ったのではと思った。
 その期待を読み取ったように、「言っとくけど、思い出したわけじゃねえからな」とすかさず言われ、少なからず落胆したのは言うまでもない。
 いつもならとりとめなく話して歩く通学路も、今朝はどこか気まずい空気が漂っていた。
 昨日のケガは大丈夫ですか? とか、今朝はご飯食べてきたんですか? とか、記憶のない真弘とでも成立しそうな無難な話をふっていたせいもあるけれど、「あぁ」だの「まあ」だの短い言葉が返されては、沈黙が落ちる。
 少し足早に歩く背中を追いながら、出逢った頃の真弘を思い出してみる。もともと一定の距離から先へは簡単には踏み込ませてくれないタイプではあったけれど、なんというかそんなによそよそしい雰囲気はなかったはずだ。
 一度だけ真弘から「あのよぉ」と何か言いかけた。話しかけてくれた嬉しさのまま、はい、と答えてみたものの、「やっぱいい」とそのまま黙り込んでしまった。いつもならば、「言いかけてやめるなんて先輩らしくないですよ」とその顔を覗き込んだであろう珠紀も、記憶のない真弘への接し方を考えあぐねているので、そんなひと言すらスムーズには出てこない。
 記憶をなくしたことで、想いだけでなく、珠紀の存在そのものが彼の中でリセットされてしまったのをつくづく感じ、今日逢ったら、二人はつきあっていたのだということを伝えてみよう、という考えはすっかり挫かれてしまった。
 もしも、記憶が戻らなかったらどうしよう。
 昨夜は床に入ってからも、そんなことばかり考えてなかなか寝付けなかった。
 思い出さなくても、真弘はもう一度自分を好きになってくれるだろうか。
 これが逆の立場だったら、珠紀は絶対に真弘を好きなる、と思った。気付くのに少し時間はかかるかもしれないけれど、優しくて、温かくて、大きくて、傍にいると安心できる大切な先輩。近くにいれば、絶対にまた恋をするだろう。
 けれど、好きになってもらえるか、と考えると、途端に自信がない。贄にならなければいけない、命がかかった特殊な状況の中だったから。そんな中で深く関わらざるを得ない守護者と玉依姫だったから、好きになってくれたのかもしれない。鬼斬丸もない今、玉依姫を好きになってくれるだろうか。

「鬼斬丸がないなら、もう玉依姫はいらないでしょう?」
 玉依姫として村で生活したいと言った珠紀に、母は呆れたようにそう言って反対した。
「あなたにそんな力があるとわかっていたら、間違っても宇賀谷の家になんて預けなかったわ」とも。
 正面から話してみて、母が季封村のことも玉依の血も嫌悪しているというのがよくわかった。なんでそこまで、と思うほどだ。
「なんで玉依姫になるのがそんなにダメなの? お母さんが継ぐはずだったものでしょう?」
 玉依姫にならずに村を出た母を責める気持ちなどまったくない珠紀は、純然たる疑問でそう口にした。
 母が村に居た頃は、鬼斬丸の封印はそこまで危うい状態にはなっていなかったはずなのに、どうしてこんなに頑なに玉依姫を嫌うんだろう。
「お母さんは、玉依姫になろうなんて思ったことは1度もないわ。なんであの家に生まれたというだけで、玉依姫にならなければいけないの?」
 母の言い分は、ある意味もっともだ。珠紀も村に行った当初、まったくそう思わなかったといえば嘘になる。ただ珠紀の場合は、村に着いてすぐ事態が動きだし、皆に守られるだけの自分が嫌で自ら渦中に飛び込んだ。皆──守護者と、共に戦える自分で在りたかったから。
「それは……。でもそんなこといったら、守護者のみんなだって……」
「そうね。守護五家も同じことが言えるわね。でも、ねえ珠紀。それを言うなら、あなたは村に戻るべきじゃないわ。せっかく鬼斬丸がなくなったのに、玉依姫が村に戻れば、守護者の方たちは役目を果たさなければならなくなるじゃないの」
 考えてもみなかったことを言われて、珠紀は言葉に詰まった
 季封村には玉依姫が居るのは当然だと思っていたけれど、鬼斬丸がなくなった今、玉依姫はあの村での存在意義をなくしたといえなくもない。
「珠紀。あなた、おばあちゃんに何を言われたか知らないけれど、玉依姫を継ぐ義務なんてないのよ。あなたのおじいちゃんだって、玉依に殺されたようなものなんだから」
「え?」
 意外な言葉に、思わず顔をあげて、母の顔を凝視した。
 ほとんど記憶にない祖父のこと。玉依に殺されたってどういうことだろう。
 珠紀の視線に、母は気まずい顔で、とにかく、と話を切り替えるように言った。
「お母さんは反対です。あんな何もない村で生活なんてやめときなさい。どうしても逢いたい誰かがいるっていうなら、遊びにでも行けばいいじゃないの」
 真弘のことを話したわけでもないのに、何かを察しているようにそう言った母は、幼い子供に言って聞かせるような表情だ。
「義務とかで言ってるんじゃないよ。誰かに言われたからでもない。あの村で、玉依姫として生活したいの」
 それに、と言葉を切った珠紀は、ここで退くわけにはいかないとばかりに母親をまっすぐ見つめて言った。
「継ぐも何も、私はもう玉依姫なんだよ」
 口からツルリと滑り出た言葉に、本当にそうだろうかと頭の隅で考える。鬼斬丸を壊すにあたって、確かに玉依姫の力を得た。でもそれでもう、玉依姫になれたのだろうか。実の所よくわからない。
 そんな自信のなさを残しつつも、いくら説得されても頑なに譲らなかった珠紀に、最初に折れたのは父親だった。
 やがて、いくつかの条件が出された上で、ついに村に戻ることが許された。
 曰く。
 大ケガするような何かがあったら、即刻玉依姫をやめること。
 なるべく家に電話して、近況報告すること。
 学期間の長期休みの時には、少しは家に戻ってくること。
 学校の成績を下げないようにすること。
 そうして村での暮らしを再開したものの、母に言われたあの言葉は、珠紀の心に棘のように刺さったままだ。

『せっかく鬼斬丸がなくなったのに、玉依姫が村に戻れば、守護者の方たちは役目を果たさなければならなくなるじゃないの』

 守護者の皆が珠紀を疎んじているとは思わない。むしろ村に戻った彼女を、喜んで温かく迎えてくれた。
 けれど、母の言っていたことも正論だと認める自分もいる。鬼斬丸もないのに玉依姫がいることで、彼らを守護者という役割に縛り付けてしまうことになりかねない。
 記憶をなくした真弘の、あのどこかよそよそしい態度。もしかしたらあれは、鬼斬丸がない村で、恋愛感情や仲間意識を抜きにした時の、守護者としての玉依姫に対するごく普通の態度なのかもしれない。
 
「行かないのか?」
 背後から声がかかり、びくりと肩が揺れる。
「拓磨……」
「……ばか。そんな顔してんな」
 自分はどんな顔をしていたのだろう。
 眉を顰めた拓磨は、励ますように珠紀の肩をぽんと叩くと、青空へと続くドアを開けた。

 屋上では、すでに真弘が1個目の焼きそばパンを食べ終えようとしているところだった。
「あれ? 祐一先輩は?」
 珠紀は屋上を見渡して、もう一人の先輩が見当たらないことを確認すると真弘にそう尋ねた。
 購買でパンを買ってから屋上に来る真弘より、祐一が遅く来るというのは滅多にないことだ。
「さあ、授業が長引いてるんじゃね?」
「って先輩、サボったんですか?」
「昨日は遅かったし、今朝は早かったしで、眠くて授業どころじゃねえっつうの」
 真弘の言い分に、珠紀も頷けないでもない。
 今日は陽射しが暖かで、寝るには絶好の気候といえた。
 それを享受したのが、欠席しての屋上だったか、出席しての教室だったかの違いだ。
「でも先輩。受験するのにそんなんで大丈夫ですか?」
 珠紀は真弘の隣に腰を下ろして、お弁当を広げる。拓磨もその向かいに座ると、購買で買ってきたらしいパンをいくつか取り出した。
 真弘は二個目の焼きそばパンを頬張って、不思議そうに珠紀を見た。
「ふへん?」
 口の中のそれを慌てて飲み下した彼は、「俺がか?」と確かめるようにこちらを見ている。
「はい。受験するって言ってましたよ。早く思い出さないと、勉強とかいろいろ大変ですよね」
「思い出すもなにも、今更手遅れじゃ……痛っ!」
 真弘のげんこつを頭に受けた拓磨は、顔をしかめた。
「このウルトラスーパー天才の俺様が本気になれば、受験なんて楽勝なんだよ」
「だったら早めに本気になった方がいいっすよ」
「なんだとぉ? 拓磨、おまえには先輩に対する敬意っつうものがねえ。教育してやる。歯ぁ食いしばれ!」
 興奮した真弘が、手に持った焼きそばパンを振り回して叫ぶ。
 初めて村に来たばかりの頃ならいざしらず、今の珠紀にとってはこんなやりとりは見慣れたものだ。
 いつもの、日常の風景。
 五目ご飯をひと口食べて箸を止めた珠紀は、記憶がないことなどまったく感じさせない拓磨と真弘とのやりとりを、少し羨ましい気持ちで見つめた。
「焼きそばパン、中身落ちそうっすよ」
「うぉ!? っぶねえ。……なんだ、珠紀。食欲なさそうだな。手伝ってやる」
 箸を止めたままでいた珠紀の弁当に手を伸ばした真弘は、海老しんじょ揚げを口に放りこむ。
 マヨネーズを隠し味に入れたもので、以前作った時、真弘が絶賛してくれたものだった。
 結局ろくに眠ることのできなかった珠紀は、今朝は早く布団を抜け出して、美鶴と並んで台所に立った。
 冷蔵庫にあった食材をあれこれ使って作ったお弁当は、真弘が好きだと言ったものばかりだ。
「さっすが美鶴の料理はうまいなあ!」
 何か勘違いしているらしい真弘は、ご満悦の顔で次の獲物を狙うように珠紀の弁当箱に視線を落とした。
「おいしいですか? もっと食べてもいいですよ?」
「おぉ。おまえも一応女なんだから、見習っとけ?」
 肉ごぼう巻きをつまみ上げた真弘は、これもうまい、と満足げだ。
「残念でした。今日のお弁当は全部私作です。そうですか、そんなにおいしいですか」
 うんうんと頷き、種あかしとばかりに笑って言うと、途端真弘がむせだした。慌てたようにペットボトルのお茶で流し込む様を、可笑しい気持ちで見つめる。
「ど、道理で美鶴にしては、ひと味足りないと思った」
「おいしいって言ったじゃないですか。先輩が前においしいって言ってくれたものばっかり作ってきたのに!」
「ま、まあ、あれだ。その心がけは後輩として立派だ。褒めてやろう」
「もぉっ! 吐き出してください、返してくださいっ。なんならお金払って下さい!」
 心なしか赤い顔で偉そうに言う姿がなんとなく癪で、珠紀は真弘の制服の襟元を両手で掴んでぐいぐいと引っ張った。
「おまえっ、先輩に対する態度にしては馴れ馴れしすぎんだろ」
「彼女に対してその態度は冷たすぎますっ!」
 言おう言おうと思いつつタイミングを逃し続けたひと言を、ついに珠紀は口にした。
「んなこと覚えてねぇっ」
 真弘の性格を考えれば、珠紀のこんな発言を受けて少しくらい狼狽えてもよさそうなものだ。それが驚くことなくすかさず言うあたり、既に誰かにふたりがつきあっていたことを聞いたのだろうか。
「覚えてなくても事実です。そんなことばっかり言ってると、可愛い彼女に逃げられますよ」
 逃げるどころか、今は追いかけ中ではあるけれど。この際自分は『可愛い』彼女だ。
「嘘言ってんなよ。なんで俺が玉依姫と……、とにかくっ。思い出すまで俺は単なる先輩だ、守護者だ、いいな?」
 真弘はそう言って珠紀の隣から立ち上がると、屋上の手すりに腰掛けた。
 
『なんで俺が玉依姫と』
 
 思わず言ったであろう真弘の言葉が、珠紀の頭の中で繰り返される。
「珠紀?」
 動きを止めた彼女を気遣うような拓磨の声に、我に返った。
 真弘はといえば、敢えてこちらを見ないようにしているのが透けて見える。
 珠紀は目の前のお弁当を無言で片付ける。そうしてつかつかと歩み寄り、真弘の前に立った。
 記憶がないのだから、仕方ない。理性はそう宥めるけれど、だからと言って、自分のことだけ忘れてしまった真弘に、無性に腹が立つ。
「な、なんだよ?」
「……」
「まあ、俺様ほどの男に惚れるおまえの気持ちはよぉくわか……っ!」
 お弁当袋で一発殴り、珠紀は屋上を後にした。