「だいたいこんな感じでした」
そう言って珠紀が描きあげた絵に、宇賀谷家の居間は静まり返った。
夕食を済ませ、もう一度今日真弘達が襲われた状況を整理して、今後の対策をたてようという話になった。
真弘は襲われた状況もまったく覚えていない為、必然的に珠紀だけが説明することになる。
村で起きている幽霊騒動と関連がありそうなのか。
襲ってきたのはカミなのか。
敢えて守護者と玉依姫を狙ってきたのか。
整理すべき事柄は多いが、まず襲ってきた相手が何者だったのかを知る為、その姿を珠紀に問うものの、どうも要領を得ない。ならばと絵で描かせてみたが、かえって混乱を招く出来映えだ。
「おまえ……幼稚園児レベルだぞ?」
沈黙を破って真弘が言うと、珠紀は「だから下手くそですけどいいですかって言ったじゃないですか」と唇を尖らせた。
「大丈夫だ。二足歩行だということはわかる」
真顔で言う祐一に続くように、
「目が2つというのもわかるぞ」
「足が3……2本で尻尾があるんですよね?」
拓磨と慎司が続くが、微妙にフォローになっていない。
「いっそよくわからないって言ってくれた方が嬉しいです」
頬をひきつらせた珠紀は「なにか、見た覚えがある動物っぽい感じだったんですよ」と考え込んだ。
「動物、ですか?」
「はい……。あっ! わかった! フェレットです、フェレット!」
ようやく思い出したと目を輝かせて連呼する珠紀を見つめ、フェレットの姿を思い描く。
人を襲うというより、どちらかといえば愛くるしい生き物が頭の中で小首を傾げる。緊張感のかけらもない。
「それがすっごく大きくて、真弘先輩の倍くらいはあったと思います」
「それはかなりの大きさだな」
真弘が頷くと、拓磨が「せいぜい3メートルちょっとか」などと呟くので、その頭を思い切り殴りつける。
「痛っ!」
「俺の倍と言ったらゆうに4メートルはあるだろう。それで?」
「「「……」」」
「……。爪が鋭くて、目が金色で、なんかこう、シャーッ! て感じでした」
シャーッ! が、獣が他を威嚇する声を表したらしいということがわかるまでに、3秒ほどかかる。
いくら大きくても爪が鋭くとも、フェレットが毛を逆立てて威嚇する姿は、やはりどうにも迫力に欠けていた。
「シャー…ですか」
苦笑した卓の言葉に、珠紀は力強く頷いた。
「真弘先輩は、本当に全然覚えていないんですか?」
珠紀の説明に限界を感じたのだろう。慎司が真弘に尋ねた。
真弘ももう一度絵を眺めながら考えてみるが、記憶は完全に抜け落ちているようで、まったく覚えていない。
「悪ぃ。全然覚えてねぇ。けど、こんなオモシロ動物みたいな奴にこの俺様がやられたんだとしたら、マジむかつく」
真弘の言葉に、守護者の面々は哀れみにも似た眼差しで同意を示した。
「それにしても、覚醒した守護者があっさりと倒されてしまうとなると、ずいぶん力のあるカミのようですね」
『覚醒した守護者』というのにひっかかりを覚えた真弘が言葉を発する前に、珠紀は「でも」と口を開いた。
「確かに強かったと思うんですけど、真弘先輩がやられたのは、なんというか……先輩が攻撃しようとして、一瞬迷ったように見えたんです。そのせいで」
「なんで俺がそんなの相手に迷うんだよ!」
目の前に敵がいたなら、叩きのめすまでだ。それを迷って、反撃に遭うなど自分に限ってあり得ない。
そう思ってすかさず口を挟めば、負けじと珠紀も言い返してくる。
「知りませんよ! そう見えたんですっ。相手の攻撃が早くて、そう見えただけかもしれませんけど」
「それじゃあ俺の攻撃が遅いみたいだろうがっ。失礼な奴だな」
きつい口調で言ってはみたものの、珠紀に腹が立ったわけではない。
ただ、カミを前にした自分が、守るべき玉依姫と共にありながら、まんまとやられたという事実が面白くなかった。
しかも、記憶喪失などという妙な事態に陥っているのだから、いっそ情けない。
「まあまあ。幽霊騒ぎもあることですし、強い敵と見なして警戒していた方がいいでしょう。鴉取君の記憶が、外傷によるのか、それともカミに奪われたのかということも、現時点では判断できませんしね」
「祐一先輩は、なにか見ませんでしたか?」
その場に真っ先に駆けつけたという祐一に珠紀が問うと、切れ長の目が思案するように空を見る。
しかしすぐに軽く頭を振って、いや、と答えた。
「俺は『フェレット』は見ていない。蠢く闇の塊にしか見えなかった。珠紀が言っていた男も見ていない」
珠紀は、襲われた時に助けに入った男がいたのだと夕食を食べながら話していた。
「おい、そいつ本当に人間だったのか?」
拓磨の疑問はもっともなことだ。カミとの戦いに割って入るなど、並の人間に出来ることではない。
そんなことができるのは、守護者のように特殊な能力のある者か、人外の異形くらいのものだ。
「たぶん」
答える珠紀も、どこか自信がなさそうだった。
「慌ててたし……真弘先輩の方が心配で、あんまりよく覚えてない、かな。もう一度会えばわかると思うんだけど」
「典薬寮が動いている、ということはないでしょうか?」
慎司の口から意外な単語が出てきたことに、真弘は驚いた。
典薬寮は、季封村からは完全に手を引いているはずだ。それなのに、なぜこの場面で、そんな組織の名があがるのだろうか。
「典薬寮? なんでそんなのが……って、これも俺が忘れてるような話か?」
「ええ。鬼斬丸の件では、典薬寮もかなり関わってきたんですよ。犬戒君の言う通り、あちらが関わっている可能性も考えられます。調べてみた方がいいかもしれませんね」
卓の言葉に、皆思うところがあるような表情で頷いた。
なくした記憶は、日数的には大した期間でもなさそうなのに、いったいどれだけのことがあったのだろうか。
あの鬼斬丸を壊したというのだから相応の密度で事態は動いたのだろうと想像出来るが、まるで蚊帳の外にいるようで面白くない。
ふと珠紀に視線をやれば、疲れた顔で細く息を吐いていた。
彼女も真弘と一緒に襲われたのだ。疲労があるのは当然だろう。
真弘の視線に他の守護者も気付いたようで、気遣わしげな眼差しがさりげなく彼女に寄せられる。
「ま、今日のところはもういいんじゃねえか? 今回はちょっと下手打ったけどよ。この真弘先輩様がいるんだ。この次会った時はかるーく叩きのめしてやるって」
「……でも先輩、一撃でやられてましたよ?」
「うるせえ。ちょっと油断しただけじゃねえか。たまたま……」
「たまたまで死んじゃったらどうするんですか!? 今日だって、先輩倒れたまま全然動かないし、私…」
涙ぐむ珠紀に、返す言葉を失って真弘も黙った。
「とりあえず現状ではわからないことが多すぎます。私たちも慎重であるべきでしょう。珠紀さんも、これまで通りくれぐれもひとりで行動するのはやめてくださいね?」
潤んだ目を拭った彼女は、消え入りそうな声で「はい」と頷いた。
失った記憶分季節が進んだと実感できる程度には、空気が冷たさを宿している。こんな風に夜道に虫の音が響くのも、もうあとわずかのことだろう。
宇賀谷家からの帰り道。
真弘と祐一の二人になって少しした頃、おもむろに祐一が口を開いた。
「真弘。一応言っておくが、おまえは珠紀とつきあっている」
「つきあってるって、仲間としてだろ?」
「……」
「まさか……男女の仲ってことじゃない、よな?」
「珠紀の腹にはお前の子が」
「へぇ、俺の……。……んだとっ!?」
「まだいないとは思うが」
「祐一っ! 人が忘れてるからって、からかって遊んでんじゃねえぞ」
記憶喪失などという珍しい状況に陥った幼馴染みをからかいたくなる心情は理解できないでもないが、さすがに突飛すぎる内容だ。
真弘は呆れたように息を吐いた。
「つきあっているというのは本当だ。珠紀の学校の送り迎えは、おまえがしていた」
表情を読みにくいその顔を、まじまじと眺める。
「明日の朝、ちゃんと迎えに行け」
朝は得意ではない。始業時間など関係なく、目が覚めたら学校に行く。そんなことが多かった。
なのに毎朝迎えに行くということは、遅刻しないですむ時間に起きるということだ。
そんな面倒なことをしていたなどということも信じられないし、なにより自分がよりによって玉依姫とつきあっているというのは、やはりどうにも納得いかない。
『死んじゃったらどうするんですか!?』
先ほど目にした、怒りと哀しみの混ざった表情で言った珠紀を思い浮かべる。
守護者が、玉依姫を守って死ぬなど仕方のないことだ。
玉依姫は守護者を道具にして鬼斬丸の封印を護り続け、守護者はその為に命も惜しまない。そういうものだと教えられ、長い時間かけて納得してきた。
なのに当の玉依姫に、死んだらどうするのだと言われるのは滑稽な気がした。
真弘にとって、死はいつもすぐ隣にあった。
玉依姫の為に、世界の為に。それは約束されていたことであり、他の選択肢など始めからなかった。
「……なぁ、とりあえずよ。俺が忘れてる鬼斬丸壊した話とか聞かせろよ」
半分寝ながら歩く祐一は、珠紀がこの村に来てからの出来事をかいつまんで話し出した。