記憶の欠片 第1章 空白の記憶

訊いてみたいことがある。
 
怖くて言い出せずにいること。
 
傍にいてもいいですか?
 
先輩は『玉依姫』を──
 
 
 
 
 
 
 
 * * *
 
 
 
 
「真弘先輩」
「ん?」
 夕陽に映し出された長い影を、ふたつ並べて歩く。
 鬼斬丸を破壊した後、親元に帰っていた珠紀がこの村に戻ってから10日あまり。
 学校の行き帰りに真弘が珠紀を送るのは、当たり前になりつつあった。
「……」
 言い出さないのを訝しく思い、真弘が足を止めると、並んで歩く彼女も立ち止まった。
「なんだ?」
「あの……」
 何か言いかけてそれを飲み込んだ珠紀は、どこか困ったような顔をして「手を、繋いでもいいですか?」と遠慮がちに口にした。
「お、おぅ」
 そろりと伸べてくる白くたおやかな指先をとり、そのまま繋いで歩き出す。
 前に伸びる影がひとつになったのを目にして、殊更に手を繋いでいることを意識すれば、こそばゆくて、あたたかな気持ちになる。
 同時に、少し様子のおかしいままの珠紀に、真弘は小さくため息を落とした。
「なぁ。なんか俺に言いたいことないか?」
「……なんでですか?」
「いや、ないならいいんだけどよ。なんかあったら言えよ?」
「はい」
 こんなやりとりを、もう幾度も繰り返している。
 ここのところ、彼女は何か言いたそうにしていることが多い。
 元々素直で何でも顔にでるタイプである珠紀が、隠し事をするというのは無理がある。
 言いたくないのなら、と珠紀から言い出すのを待っているものの、そろそろ踏み込んで訊くべきだろうか。
 そんな真弘の迷いなどおかまいなしに、日は暮れていく。
 背後の夕陽は山の向こうへと隠れたのか、ふたりの影が徐々に薄闇へと溶け始めた。
 日が短くなったというのもあるけれど、今日は珠紀が日直で遅くなったのに加え、帰る途中に宿題のプリントを忘れてきたと言って一度学校に引き返したせいで、いつもよりも大幅に下校時間が遅くなっていた。
 逢魔が時。
 鬼斬丸を破壊した直後に比べればマシになったとはいえ、まだカミ達が落ち着ききってはいないこの時期に、玉依姫を外に置いておきたくはない時間だ。
 貴重なふたりきりの時間を少しでも引き延ばしたいという思いはあるけれど、近頃、村で奇妙な噂が流れていることを考えれば、やはり早く神社の結界の内まで送り届けるべきだろう。
 真弘は珠紀の様子を伺いながら、ほんの少し歩調を早めた。
「ホントに出るんですかね、幽霊」
「さあな。俺たちはまだ誰も見てねえけどな」
 珠紀が村を離れている間に、幽霊を見た、と言う村人がぽつぽつと出始めた。
 始めは単なる噂だろう、カミを見間違えたか何かしたのではないかと楽観していた守護五家の面々も、その人数が増えていくうちに一つの共通点を見いだし、やや警戒するようになった。
 幽霊はすべてが神隠し──封印の贄にされたであろう人間ばかりだった。
 しかし、だからと言って目撃情報以上のことはなにもない。
 危害を加えられた者がいるわけでもないし、新たに行方不明になる者が出ているわけでもない。
 それでも、やはり珠紀を一人歩きさせるのは心配で、彼女にはくれぐれも一人にならないように厳命して、学校の行き帰りは真弘が一緒にいる。
 もっとも、そんなことがなくとも送り迎えはするつもりでいた。学校のある日は、昼休みに一緒に過ごせるとはいえ、二人きりになれるのは行き帰りの時間くらいだからだ。
 珠紀が村に戻ってから、一応はつきあっているような状態だった。
 一応は、というのは、つきあっている恋人らしいことは一緒に帰るのとこうして手を繋ぐくらいのもので、ふたりの間での会話や態度がそれらしいものになったということもないからだ。
 真弘にとっては珠紀は始めから守るべき玉依姫で、傍にいなければならない相手だった。それが守りたい大切な想い人に変わった今でも、傍にいるという事実には変わりがない。
 そもそもつきあう男女がどのような雰囲気に変わるものなのか、真弘にはよくわからなかった。ただ、珠紀を俺の女だと公言して周囲を牽制しても、彼女が異を唱えることなく頬を赤らめているだけに留まっているあたり、やはりつきあっているということで間違いはないだろうと思う。
「なんだ? 幽霊が怖いのか?」
「怖くなんかないですっ。ただ、その、会いたくないというかなんというか……」
 繋いだ指先から伝わるわずかばかりの緊張に、揶揄するように言ってみれば、珠紀はごにょごにょと言い訳のように言葉を継ぐ。
 意地っぱりな彼女のその様子で、本当は恐れていることが知れる。
 ロゴスに対峙し、鬼斬丸を破壊した玉依姫が、噂でしかない幽霊が怖いというのもおかしな気がして笑いが漏れる。
 それをめざとく見つけた彼女が頬を膨らませた。
「真弘先輩っ、今笑ったでしょう?」
「笑ってねえよ。ま、幽霊が出てきても俺様がついてるから大丈夫だ。だろ?」
「それは……そうですけど」
「だいたい所詮噂だしな。ロゴスよりなんぼかマシじゃねえか?」
「それはそうかもしれないですけど……。そういえば先輩。大学、受けるんですか?」
 今日の昼休みに、祐一と話していたのを聞いていたのだろう。珠紀は、幽霊話はおしまいとばかりに話題を変えた。
「おう。受験生ってガラでもないけどな」
 笑って答えると、珠紀もつられたように笑った。その無邪気な笑顔に、真弘は幸せな気持ちになる。
 今まで受験なんて考えたことはなかった。
 そう長くは生きられないだろうと思っていたから、勉強だって大してやってこなかった。
 けれど、未来は開かれた。繋いだこのぬくもりによって。
 真弘は指先にほんの少しだけ力を込めた。応えるように握り返してくれる温度が愛しい。
「将来……何になるんですか?」
「将来なぁ……。まだあんま考えてねーなー。今更宇宙飛行士ってのもなんだしなぁ」
「アメリカは?」
 いつかの夜に話した、アメリカに行きたいという話。
 些細なやり取りを覚えていてくれたことに嬉しさを覚えながら、「そうだな」と答える。
 本当に憧れたのはアメリカなんかではなく、ただ村を出ることだ。
 それは到底叶うはずもない願いで、それでも例えばいつか自分がここから消えた時、本当のことなど誰も知らないままに、鴉取真弘はどこか遠い空の下で生きているのだろう、と誰かに時折思い出して貰えるならそれでよかった。
「アメリカも、行く」
 TVや雑誌でしか見たことのない風景。
 閉ざされたこの村にはない、広がるばかりの地平線と、そこに向かってまっすぐ伸びる道の傍らにテントをはって、乾いた風に吹かれながら、空を埋め尽くす星を眺める。
 いつかは、それを本当に叶えたいと思っている。
 けれど、それはこの先のほんの一場面にすぎず、何になるかはわからないながらも、将来どうしたいかということならば、決まっている。
 ひとりでは叶えられない、未来の設計図。
「でもまぁ……あー、例えばだ。10年後も隣におまえがいて、だな。俺たちに似たガキが2、3人ちょろちょろしてて……そういうのも、悪くないかも、ってな」
「それって……プロポーズみたいですね」
「みたいって、おまえ……」
 他にどう取りようがあるのかと訊き返してやりたい気持ちになりながら、ただ脱力する。
「でも先輩、子供3人ってイマドキ多くないですか?」
「なんだよ。賑やかでいいじゃねえか。……おまえは嫌」
 なのか、と訊きかけて、突然現れた背後の存在に緊張が走る。
 珠紀もそれに気付いたようで、握る手に力を込めて、どうするべきかと緊張した面持ちでこちらを見ている。
 背後の気配は、なぜ今まで気付かなかったのか疑問に思うほどに強大だ。
 守護者の力を持ってなお、全身が総毛立つ。
「せん、ぱい……」
 隠そうともしない相手の殺気に、怯えた気配を滲ませながら振り向こうとする珠紀の手を強くひいて、振り向くな、と制す。
「全力で走るぞ」
 低く告げて、真弘は珠紀の手をとったまま、風を纏って走り出した。
 ひとりだったならば、この場ですぐに対峙すればよかった。けれど今は違う。ならば、相手の出方を見て、戦うにしてもいったん距離を取りたかった。
 もつれそうな足で必死に走る珠紀を、風とその手で支えてやりながら走る。
 背後の気配も、すごい早さで追いすがって来た。走って距離をとれるような相手ではなさそうだ。
「このまま走れっ!」
 言って、繋いだ手を離す。
 彼女への風の後押しをそのままに、真弘は踵を返すと素早く地面を蹴り、その手に呼び込んだ風の力を剣に代えて斬りかかった。
 それは明確な姿を持たない、闇よりも深い闇のように見えた。
 蠢く固まりは確かな意志を持って、力をふるってくる。
「先輩っ!」
 背後からかかる声に、真弘は舌打ちをしながら相手の攻撃をかわした。腕をかすめるその攻撃の余波が皮膚を切り裂いていくが、構っていられない。
「いいから逃げろっ」
 叫びつつも、きっと彼女はそうしないだろうと確信している。
 そんな珠紀だから、今、自分はここにいるのだ。
 己の内に宿る力を解放する。
 背後にいるはずの彼女を守るように宵闇色の翼を広げ、真弘は相手に対峙した。
 左手に意識を集め、先ほどよりも更に強靱な剣を作り上げると、その翼を強くはためかせた。
 あと少しで相手に届く、というその時。闇はそろりと本質を表すように、その姿をかたどった。
「ボクヲコロスノ? マヒロ」
「──っ!」
生じた刹那の躊躇い。それを逃さぬように凶悪な力が、真弘めがけて放たれた。
ギリギリのところで叩きつけた風でも相殺しきれなかった攻撃を全身の痛みで感じながら、吹き飛ばされる。
遠のく意識の向こうで、珠紀が己を呼ぶ声を聞いた気がした。