記憶の欠片 第1章 空白の記憶

宇賀谷家の客間に横たわる真弘の傍らに座り、目を閉じたままの顔を珠紀はただじっと見つめていた。
 破れた長袖のシャツからのぞく腕に巻かれた包帯や、頬に残る擦り傷が痛々しく映る。
 珠紀は先ほどの光景を思い浮かべて、膝の上にのせた己の手を、耐えるようにギュッと握りしめた。
 
 夕闇の中。恐らくはカミなのであろうそれに背を向けて、珠紀は真弘の操る風に包まれ、飛ぶように走った。
 背後の殺気は確実に迫っているのに、力強い手にひかれて進めば不思議と恐怖は感じない。
 けれど繋いだぬくもりは唐突に離れ、珠紀を包み後押しする風はそのままに「このまま走れっ!」と叫ぶ真弘の声が耳に届いた。
 自分だけ逃げる。そんなことはできるはずがない。
 珠紀は真弘のもとへ戻ろうと振り返ったが、押し進めようとする風に阻まれ、バランスを崩して転んでしまった。
 常ならばすぐに真弘が気付いて、転倒を防ぐべく風で受け止めてくれただろう。
 しかし、今は対峙するそれに集中しているのか、それとも多少距離ができてしまったせいか、珠紀が転んだことにすら気づいていないようだった。
 擦りむいた足がじくりと痛むが、そんなことには構っていられない。
「先輩っ!」
「いいから逃げろっ」
 珠紀が戻ろうとする気配に気付いた真弘が、声を張り上げた。
 攻撃を躱すその背に大きな翼が現れたかと思うと、彼は風の剣を手に敵へと向かっていく。翼を力強くはためかせ、素早く相手へと迫った真弘は左手を振り上げた。しかし、その手は振り下ろされることなく、なぜか動きを止めた。
 と、次の瞬間、彼の体は跳ね返されるようにもんどり打って地面へと叩きつけられた。
「真弘先輩っ!」
 地面に伏した背からは翼が消え去り、ぴくりとも動かない。
 背筋に冷たいものが走る。
 すぐさま真弘に駆け寄ろうとした。けれど、それよりも早くそれは真弘に襲いかかると、馬乗りになって彼に手を伸ばす。
 珠紀は、その時ようやく、カミであろう敵の姿を目にした。
 それはカミというよりも、ケモノのように見えた。全身を毛で覆われ、俊敏な動きに似合わず胴長な姿は、こんな状況でなければユーモラスに見えただろう。
 もっとも、大きさは2、3メートルほどありそうなそれが、普通の動物であるはずもない。
 鋭い爪が真弘に迫る。
「おーちゃん!」
 珠紀は己の渾身の力を託して、オサキ狐の名を呼んだ。
 応えるように、ケモノめがけて青い閃光が走る。
 しかし、その光が敵にぶつかるよりも早く、真弘にのし掛かっていたものは飛び退くようにして攻撃を躱した。
 真弘から離れ、二本足で立つケモノの前足が淡白く光り、薄闇に浮かび上がっている。
 ケモノが自らの手を口元へと持って行くと、その手にあった光は消えて、低く不気味な声が響いた。
「ウマイ…、タリナイ、タリナイ、タリナイ」
 金色の双眸が、再び真弘に向かう。
 珠紀は真弘の元へと走りながら、もう一度「おーちゃん!」と力を込めて叫んだ。
 再び走った青い光は、今度は確実にその腹を捉える。
 けれどケモノは怯むことなく珠紀を見据えると、こちらに向けて何かを放った。
(避けられないっ!)
 珠紀は咄嗟に顔の前で手を交差させて、襲いかかるであろう衝撃の予感に目を閉じた。
「バカが!」
 ふいに、グイと腰を抱かれて引き寄せられる。
 なにが起きたかわからないままに、交差した腕をといて目を開けると、誰かの腕の中だ。
「なっ!?」
 慌てて身を離すと、そこには知らない男の姿があった。同じ年か、少し上くらいだろうか。
 目つきの悪い男は、剣呑な眼差しで珠紀を一瞥し、「ふん、守役どもも来たな」と呟くと、ケモノを見遣った。
 誰なのか。何が起きているのか。
 事態はまったく飲み込めないが、そんなことより今は倒れたままの真弘の方が重要だった。
「先輩っ」
 ケモノが再び真弘に何かする前に。そう思って必死で駆ける。
「珠紀っ!」
 夕闇の向こうから、祐一の声が響いた。
 祐一が放ったであろう蒼い炎が、珠紀の横を走り抜けていく。
 珠紀が横たわった真弘を庇うように抱き起こして、ケモノの方を見れば、もうそこには誰も、何もいなかった。
 
「大丈夫ですよ。そのくらいの傷ならすぐに治ります」
 卓の声に我に返った珠紀は、部屋の入り口に立つ守護者のまとめ役に視線を移した。
 居間で皆の到着を待っていたはずの祐一も、心配そうにそこに立っている。背後には、拓磨と慎司の姿もあった。
「お茶でも飲んで落ち着きませんか? 鴉取君なら大丈夫です」
「もう少し、ここに」
 真弘の傍にいたいのだ、と珠紀はゆるく頭を振った。
 すると、4人も黙って布団の横に腰を下ろした。
「ふたりとも、大きな怪我でなかったのは不幸中の幸いでしたね」
 隣に座りながらそう言って優しく目を細めた卓に、張りつめたものがほんの少し緩む。
「私のせいなんです。私が学校に忘れ物なんかしたから、いつもより帰るのが遅くなっちゃって……」
 ぽとりの膝の手の上に滴が落ち、珠紀は慌てて目元を拭った。
 本当なら、もっと明るいうちに帰れるはずだった。
 一度はいつも通りの時間に学校を出たのに、忘れ物を取りに引き返したせいで、常よりも下校時間は遅くなってしまった。
 村で起きている幽霊騒ぎを真弘たちが警戒していることはわかっていたし、珠紀自身も気にしていた。
 それなのに、はからずも学校に引き返したことで真弘と過ごせる時間をほんの少し引き延ばせたことを、バカみたいに喜んでいた。
「あなたのせいではないですよ」
 大きく暖かな手のひらが、そっと頭にのせられる。
「幽霊なのか、カミなのかわかりませんが、もし力を欲する何者かならば、いずれにしろいつか私たちが狙われたでしょう。それがたまたま今日で、あなたと鴉取君だっただけです。だから、そんな風に自分を責めることはないんです。……ほら、目を覚ましたみたいですよ」
 促されて真弘を見ると、瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。
「先輩っ」
 目覚めた真弘は、珠紀と卓を交互に見つめ、不思議そうな顔をしている。
「大丈夫ですか? 痛いところはないですか?」
「……。美鶴の友達……ってことはないか。大蛇さんの知り合いか?」
 そう言いながらゆっくりと体を起こして、髪をかきあげかけた真弘は、己の包帯が巻かれた腕を目にして「うぉ!?」と声をあげる。
「なんだ!? 俺が寝ている間に何があった!?」
「覚えてないんですか? 先輩は、カミ様みたいのに襲われて……」
「待て待て。まず、おまえ誰だ?」
 初対面の人間に向けるような、わずかばかりの警戒心を滲ませた目でこちらを見る真弘を前に、珠紀の頭も混乱する。
「だれ、って……」
「先輩。こいつ本当に心配してたんすから、そういう冗談はシャレになんないっすよ」
 拓磨が口を挟むが、それでもワケがわからないという顔をする真弘の様子は変わらない。
「……鴉取君。私のことはわかりますか?」
「寝ぼけてるわけじゃねえって。大蛇さんに決まってる」
「これって、記憶喪失、ってことでしょうか?」
 困惑気味に言った慎司の方に視線を移した真弘は、その顔を見つめたまま考えこむ。
「おまえ……、まさか慎司か!? なんだよ、いつ帰ったんだよ!」
 俄にハイテンションになった真弘の言葉に、一同はおぼろげながら事態を把握しつつあった。
「ってことは、俺と祐一先輩のことはわかる、と」
「おまえら、さっきからなんなんだ?」
「真弘。珠紀のことだけわからないのか?」
 祐一が珠紀を指して言うと、真弘はまた不思議そうに首を傾げた。
「たまき? ってこいつのことか?」
 向けられた視線に、体が震える。そんなことってあるだろうか。誰より大切な存在が、自分のことを忘れてしまうだなんて。
「先輩、冗談ですよね?」
 縋るように呟く声も震えてしまう。
 珠紀はわずかばかりの可能性に賭けるように、真弘をまっすぐに見つめた。
「『先輩』ってことは1年か2年か? 悪ぃ。いっくらこの村が小さいっつっても、学校中の全員までは覚えてない」
 申し訳なさを滲ませた言葉に、珠紀は自分が暗く冷たい淵にでも落ちていくような心地になった。
 
 

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