記憶の欠片 第1章 空白の記憶

「こいつが玉依姫だっていうのかよ」
 眠って目が覚めたら、真弘限定で事態が急展開していた。
 宇賀谷家の客間という、ある意味馴染みの場所。
 顔ぶれは、ひとりを除けば家族並みによく知る仲間達。
 その中にして、自分だけが現状を飲み込めていない。
 皆の説明によれば、どうやら記憶がすっぽ抜けてしまったということらしい。
 そんなことを唐突に言われても納得はいかないが、全員の神妙な顔つきを見れば、嘘ではないということくらいはわかる。
 布団から身を起こして座る真弘は、目の前の少女をまじまじと見つめた。
 長い髪の少女は少し困ったような表情でこちらを見ているが、その顔を眺めてみても、やはり自分の中にある記憶のどこにもかすりはしない。
「そうです。鴉取君と鬼斬丸を壊した、私たちの玉依姫ですよ」
 卓の言葉を、頭の中で反芻してみる。
(玉依姫……。俺と一緒に鬼斬丸を……。──!?)
 世界の終わりを招く鬼斬丸。
 真弘を呪縛し続けてきたそれを、壊したと聞こえたような気がしたが、聞き間違いに違いない。
「今……鬼斬丸を壊した、って言ったか?」
 卓に確かめるように尋ねると、答えは少女によってもたらされた。
「そうです。鬼斬丸はもうありません。だから……、だからもう誰も、封印の贄にならなくていいんです」
 真弘の運命にかかわる最重要事項を。他の守護者ですら知らないはずのことを知っているような顔で、彼女は告げた。
「マジかよ……」
 口の中で呟く。
 消したくて、逃れたくて、それでも諦めるしかないのだと言い聞かせ続けた願いが、目が覚めたら叶っている。
 そんな都合のいい話があるだろうか。
「マジっすよ。鬼斬丸がなくなって、一ヶ月くらいっす」
「どのあたりまで覚えているんだ? 真弘」
 祐一に問われて、自分にとっての今がいつか考えてみる。
 今日は何をしていたか。昨日は何をしていたのか。
「どのあたりっつっても……。俺たちがババ様に呼ばれて、玉依姫が来るって聞いたのが昨日、か?」
「なるほど。珠紀さんがこの村に来る直前から今までの記憶がない、ということのようですね」
「治りますよね?」
「原因にもよるでしょう。頭を打ったのか、それともカミと戦った影響なのか」
 卓と話す少女の顔に、落胆の色が浮かぶ。
 鬼斬丸の封印もいよいよ限界近くなったこの段階に至ってようやく、この村の外で育った玉依姫がやってくるのだと告げられたのは、真弘にとって昨日のことだ。
 真弘にだけは、彼女はおそらく鬼斬丸を抑えきることができないであろうことも、クウソノミコトの血に宿る力を必要とする日がいよいよ近いであろうことも伝えられていた。
「こいつが姫さんねぇ。それっぽくねえなあ」
 目の前の少女はどう見ても普通で、『玉依姫』と言われてもピンとこない。
 真弘の知る玉依姫は静紀だけだ。だから目の前の少女と比較するには、少々年齢差があり過ぎる。
 ならばなにをもって玉依姫らしいと言うのかと訊かれれば答えに困るが、例えば存在感や威圧感や雰囲気や、そんなものが他と異なるくらいの違いはあって然るべきだ。
 もっとも、普通よりは少し。いや、かなり。可愛いとは思う。
 ふいに少女がクスリと笑い、考えていたことを見透かされたのかと真弘は少しアセった。
「な、なんだよ?」
「いえ。初めて逢った時も、そんな感じのことを言われたなぁと思って」
 懐かしむように言われても、真弘にとっては今この時が『初めて』だ。
 知らない相手が自分のことを知っていて、しかも以前からの知り合いのように自分のことを話すというのは、どこか気味が悪いというか、居心地が悪い。
 でも、それは何も相手の思い込みや勘違いではなく、こちらが一方的に忘れているだけだというのだから、ますます反応に困る。
 返事に窮していると、襖の向こうから声がかかった。
「失礼します」
 現れたのは美鶴だった。今この場では、渡りに船だ。
「お! 美鶴、腹減ったんだけどよ。なんかないか?」
「はい、夕食の支度が出来ています。お知らせしよう思って様子を見に来たんですけど……ちょうどよかったようですね」
「ぃよっし! メシだ」
 布団から立ち上がると、体のあちこちに痛みがあるのを感じたが、どれも大したケガではなさそうだ。腕のほうも、包帯の下の傷がどの程度のものかはわからないが、一晩寝れば治ってしまうに違いない。
「こんな時にメシっすか?」
 呆れを含む拓磨の声に、文句があるかと視線で返す。
「こんな時っつってもよ。俺の記憶がないとして、不都合あんのか? 鬼斬丸がないってのは信じられねえけど、それならそれで、めでてえことだ。こいつが玉依姫だっていうなら守る。そんだけだろ? んなことより、俺様は腹が減った。メシだメシ!」
「単純っすねえ」
「でも、真弘先輩らしい、ですよね」
「確かに」
 口々に笑いながら真弘に続いて立ち上がる守護者達の中で、少女だけがどこか寂しそうな顔でいるのが気に掛かる。
 しかし、どんな風に接していたのかすらわからない相手に掛ける言葉も見つけられず、真弘はそのまま居間へと向かった。
  

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