第2章 魔法の言葉 4

ファミレスの店内は、カトラリーの音と、人のざわめきで満たされていた。
向かいの席のナギが、注文タブレットとメニュー表を手に取る。
 
 「伊藤さんは、どっちで見ますか?」
 
冊子とタブレットを見比べながら、ナギが問いかけた。
咲良がタブレットを指差すと、「はい」と笑って差し出された。
 
「俺は、こっちのほうが好きなんです」
 
メニュー表を軽く掲げ、ナギが微笑んでページをめくる。
子どもが好きな絵本を覗き込むみたいなその仕草が、少し可愛く見えた。
 
  
誰かとこうして食事をするのは、本当に久しぶりだ。
 
美弥の家族を除けば、退院してから一度しかなかった。
 
大学で仲の良かったグループに退院と休学の報せを送ると、すぐに《みんなで集まろう》と返ってきた。
 
秋の入り口とは名ばかりの陽射しを避けるように、タートルネックの長袖を着て出かけた、あの日。
 
腰まであった髪がショートになった咲良を見て、友人たちは口々に「似合うね」と笑ってくれた。

「大変だったね」
「思ったより元気そうでよかった」

みんなの言葉は優しかった。
けれど、運ばれてきた料理に一斉にスマホを向ける姿を見たとき、胸の奥がざわついた。

筆談では会話の速さについていけず、気まずい沈黙もあった。
それでも、仕方ない、と自分に言い聞かせて帰宅した夜、彼女たちのSNSには、まるで別の時間を過ごしたみたいな写真が並んでいた。
 
#奇跡の再会 
#大切な友達
 
並んだハッシュタグが、どこか遠くから突き放してくるように見えた。

咲良にとっては人生を変えた出来事も、彼女たちにとっては”投稿ネタ”のひとつに過ぎなかった。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。

それ以来、誰かと食事をする気になれなかった。
 
だから今、こうしてナギと向かい合っていることが、少し不思議だった。

注文を済ませると、ナギが申し訳なさそうに眉を下げる。
 
「ファミレスなんて、誕生日っぽくなかったですね」
 
咲良は首を横に振った。
駅前には定食屋やファーストフードばかりで、昼間に入れる落ち着いた店は少ない。
それに、静かでおしゃれなお店ではスマホを使う自分が、きっと目立ってしまう。
だから、ここでよかった。
 
咲良はテーブルに置いていたスマホを手にして、文字を打った。
 
《いろいろ選べるから、ファミレスは好きですよ》
 
「そう? ならよかった。俺もファミレス、結構好きなんです。いい年してファミレスかよって言われることもあるんですけど」
 
《ナギさんは、おいくつなんですか?》
 
ナギが小さく目を瞬かせ、「ああ、そうか」と呟く。
しまった、訊いちゃいけなかったかな、と焦る咲良が《すみません、大丈夫です》と打つ。
 
「あ、こちらこそ、ごめん。そうじゃなくて……。年齢ですよね、二十六です」
 
今度は咲良が目を瞬いた。
二十六。
二十代半ばは越えているかなと思っていたはずが、いざそれを提示されると予想よりは上だった印象を受ける。
素直にそう伝えると、ナギは「よかった。もっと老けて見えてたかと焦りました」と笑った。
 
料理が運ばれてきても、会話は途切れなかった。
 
「ドリンクバーで飲み物を混ぜたこと、あります?」
 
《はい。カルピスとメロンソーダとかおいしかったです》
 
「定番ですね。俺も学生時代、カルピスならなんでも合うと思って、片っ端から試したことがあるんです」
 
《どうでしたか?》
 
「コーヒーとウーロン茶だけは、二度とやりません」
 
ナギがその時を思い出したように、顔をしかめる。
 
(それは確かにおいしくなさそう)

そう思いながら、咲良がくすりと笑った。

穏やかで落ち着いて見えるナギにも、ちゃんと”学生の頃”があったらしい。
 
《ナギさんは、お仕事は何をされてるんですか?》
 
ずっと気になっていたことを、思い切って訊いてみる。
 
大道芸といえば、お金を入れてもらうための箱などを置いておくか、パフォーマンスが終わった最後にお金をもらったりするイメージがあった。
けれど、ナギがそれをしているところを見たことがない。
 
「仕事は……、フリーで、プログラマーをやっています」
 
その言葉の奥で、彼の瞳がわずかに揺れた気がした。
本当はあまりやりたくないのだろうか。大道芸だけで食べていけないから仕方なくやっているんだろうか。

咲良の胸に。いくつもの思いが交錯する。
スマホを手にしたまま言葉を探していると、

「ゆっくりで、いいですよ」

ナギの柔らかな声が、静かに落ちた。

その瞬間、咲良は気付く。
彼はいつだって、焦らせたりしない。
咲良の『言葉』が生まれるのを、ただ静かに待ってくれる人だと。
 
今日ナギと向き合って話していても、待たせて申し訳ないとは思う。
けれど、焦りはなかった。
この穏やかな空気は、彼がマイムで紡ぐ言葉に似ている。
 
《ナギさんの言葉は、魔法 ──
 
と打ちかけて、咲良の指が止まる。
”魔法みたい”なんて、子どもっぽいだろうか。
でも、今の気持ちを表せる言葉が、他に見つからなかった。
 
困ったように眉を下げる咲良に、
「どうかしましたか?」とナギが少し身を乗り出す。
画面を覗き込まず、ただ待つその姿に、咲良はもう一度指を動かした。
 
《ナギさんの言葉は魔法みたいですねって伝えようと思ったんです。
 でも、子どもっぽいかなって恥ずかしくなって。
 それでも、他にぴったりな言葉が見つからなくて》
 
咲良は、恥ずかしく思いながら画面を向ける。

「……魔法、か」

一瞬、彼のまつ毛がかすかに揺れた気がした。
けれど次の瞬間、穏やかな声と共に頷いた。

「うん、分かります。言葉って、心にぴったりあう形がない時があって、困りますよね」
 
そう言って頷くナギの瞳が、ほんの少し笑っていた。
 
「でも、今のはちゃんと伝わりました。魔法って言われてしまうと、なんか照れくさいですけど」

冷たいウーロン茶を流し込むように飲む彼が、恥ずかしそうに笑う。
 
──伝わった。
 
咲良の胸の奥に、小さく火が灯った。それは音よりも確かな温度だ。
けれど同時に、少しだけ胸が痛む。
きっと伝わったのは『優しいほうの言葉』だけ。羨ましさや妬ましさまでは届いていない。
 
咲良は改めて、言葉は難しいと思った。
声が出たとしても、きっと同じように迷って、選んで、間違える。
それでも、伝えたいと思う気持ちがある。
もしも欠片でも相手に届けられたなら、それはたしかに魔法なのかもしれない。

「俺も、”咲良さん”って呼んでもいいですか?」

下の名前を呼ばれて、心臓がきゅっと音をたてた気がした。
一拍遅れて、”俺も”の意味に気付く。
ナギを見ると、子どもが悪戯を仕掛ける前のような笑みで、こちらをじっと見つめていた。

《ナギさん、って苗字じゃないんですか?》

「よく間違われるんですが、下の名前です」

言われてみれば、彼が”ナギ”と名乗った時、それが苗字かを尋ねなかった。

ナギは自身のスマホに文字を打つ。
 
《 凪 》
 
その文字を見た瞬間、穏やかな海が頭に浮かぶ。
彼にぴったりの名前だと思った。同時に、苗字は教えてくれないんだな、とも思った。
 
「……よければ、”咲良さん”って呼んでもいいですか?」
 
咲良はくすぐったい気持ちを胸の奥で噛みしめながら、小さく頷く。
その音のない頷きが、心の奥で小さな花を咲かせた。

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