またあの男が来た。
「この前のお花、すごく良くて。また、あなたに選んでもらいたくて」
二度目の来店でそう言った男は、それ以来、週に二回のペースで花を買いに来るようになった。
ピシっとしたスーツ姿の男。咲良は作り笑いを浮かべながらホワイトボードを取る。
《今度はどんな花がいいですか?》
尋ねはしたけれど、男の答えはわかっていた。
「あなたのおすすめで」
一拍の間を置いて、男は笑みを深めた。
「……あなたの好きな花で」
またか、と思いながら、咲良は花を選ぶ。
今日はスプレーバラにした。白い花弁が濃いピンクで縁取られた可愛らしい花だ。
手早く花を包む間、「遊んでいられる奴はいいな」と男が呟く。
顔を上げると、男の視線の先で凪が女子高生に花を差し出していた。
広場には、はじけるような笑い声が響く。
「チャラチャラしやがって」
男の低い呟きに、咲良は即座に心の中で首を振った。
(違う。凪さんの花は、そういうんじゃない)
凪の差し出す花は、相手への優しさと労りだ。男が考えているようなものではない。
反発心を精一杯の接客スマイルの下に隠して、咲良は花を差し出した。
「やっぱりあなたはいいですね。癒やされます」
男が小さく頷く。
その視線に、値踏みされるような感覚が走り、咲良は無意識に掌を握りしめた。
背を向けて去っていく男を見送りながら思う。
あの「いい」は──『話さなくていい』の「いい」だ。
凪なら自分に都合がいいから『いい』だなんてきっと言わないだろう。
花を手にした女の子たちが去って行く。
その様子を少しだけ──ほんの少しだけ羨ましく思いながら、咲良は小さく息をついた。
少し前までたわわな薄紅を揺らした枝先も、若い緑の葉が芽吹きさわさわと風を受けている。
店内もスノーボールやハナリョウブなど、この季節ならではのものが増えてきた。
あと半月あまりで、花屋の忙しい日ランキングに入る『母の日』がやってくる。
母の日のある週末は、美弥とふたり態勢で一日中アレンジや花束を作り、お小遣いを握りしめてくる小さなお客様の対応に追われることとなる。
(母の日か……)
小さく息を吐いた咲良の耳に、カツカツと小気味よい音が響いた。
顔を上げると、高いヒールの靴音に鈍色のスーツを纏った女性が店に入ってきた。
すっと背筋を伸ばし、赤い口紅が嫌みなく見える彼女は、一瞬広場を見回してから「すみません」と口を開いた。
「五千円くらいで、花束をお願いします」
《どなたに贈られますか?》
「……筆談なんですね」
咲良が頷くと、彼女はすぐに柔らかく微笑んだ。
「母の誕生日に贈るんです。母の日が近いのでカーネーションはなしで。あとはお任せします」
ほんの少しおどけたように肩を竦めた彼女は、ふと広場の方へ視線を向けた。
探すようなその仕草が、どこか印象に残る。
予算が五千円ならば、それなりに見栄えのする花束が組める。
今日入ってきたばかりの、白にピンクの縁のトルコキキョウなら品良くお祝いの雰囲気を演出するのによさそうだ。
咲良は配色を考えながら、様々な花桶に手を伸ばす。
組み上げた束を見せると、彼女は満足げに頷いた。
ホッとしながら茎先を切り揃え、丁寧に包んでいく。
「ナギさん……このあたりで大道芸をしている男性がいると聞いたんだけれど」
その名を聞いた瞬間、咲良の思考が止まった。
けれど彼女は、咲良の返事を待つことなく言葉を重ねていく。
「Lynel、ご存じ? きっとあなたも使っていると思うけれど、……あれを作った人なの」
Lynel。それは、咲良が中学に上がる頃に広まり始めたSNSアプリだ。
気軽に思ったことを投稿し、不特定多数の知らない誰かとも情報を共有できる。
若者ならば誰もが使っていると言って過言ではないアプリだ。
(あれを作ったのが……凪さんなの?)
「こんなところでお遊戯なんてしている場合じゃないのに……あの人、いったい何を考えているのかしら」
その声音は、純粋な敬意にも、軽い嘆きにも聞こえた。
咲良はそっとリボンを取り、手の中で結び目を作る。
彼女が、本当は花を買いに来たわけではないことはもうわかっていた。
でも、花束はきちんと仕上げてなくてはいけない。
「ごめんなさい。あなたには関係ない話だったわね」
綾華はそう言って、少し照れたように笑った。
けれど次の瞬間、咲良の作った花束を見つめ、まっすぐな声を落とした。
「本当に綺麗。センスが良くて羨ましいわ」
嫌みのない、心からの感嘆の声。
けれど咲良はうまく笑えず、小さく会釈だけをした。
会計を済ませた彼女が、綺麗に整えられた爪先で名刺を差し出した。
一ノ瀬 綾華。
咲良は気後れしながら、彩りひとつない荒れた手でその名刺を受け取った。
「突然こんなお願いをしてごめんなさい。彼──久田 凪っていうの。もし見かけたら、これを渡してもらえないかしら?」
メールでも電話でも全然掴まらないのよ、と途方にくれたように言った綾華に、咲良は名刺を見つめながら頷くのが精一杯だった。
「綺麗なお花をありがとう」
隙のない笑みを浮かべた彼女の靴音が遠ざかっていく。
お遊戯なんかじゃない。
喉の奥で言葉が形になりかけて、止まった。
──ならなくて、よかった。
咲良は声が出なくてよかったと考えながら、綾華と同じように凪の姿のない広場を見遣った。


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