カノジョの婚活 10

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「……え、国兄?」

 数週間ぶりの実家。ドアを開けた途端、廊下に覗く顔に浮かぶのは落胆ではなく驚きの色。
 毎週水曜日の夜はデート。宣言されたわけではないが、光忠の休みが水曜だったこともあり、この日の夜はふたりが揃って家にいないというのが暗黙の了解となっていた。
 もっともこの可能性を考えないではなかった。水曜の夜に外でデートをする。それは、外でしかふたりきりになれないからだったはずだ。両親は海外におり、帰宅するはずの男が別の場所に住み始めた今となっては、そんな不文律は不要になった。この出迎えは、はからずもそんな答え合わせになった。
 彼女ひとりだけがいる家に男が立ち寄る。自分が恋人ならばいい気はしない。例えそれが肉親でも、色のついた想いを寄せているならただの”男”だ。だから今日を選んだ。少なくとも、彼女だけが居るということがないはずの水曜日を。

花奈かなさんとケンカしたの?」
「するか。彼女が読みたいと言っていた本が確かこっちに置いてあったと思ってな」
「やっさしー」

 茶化すように見上げてくる横を通り抜け、「光忠は? 料理中か?」と尋ねながら出汁と甘い醤油の匂いが漂う台所続きの居間へと向かうと「ヘルプに行ってる。キッチンの人が骨折しちゃったんだって」という声が追いかけてきた。
 いくつか経営する店のどれも光忠自身はまんべんなく顔を出しているし、現場にも携わっている。だから、急な何かがあればこうして休みを返上して店の手伝いに駆けつけるのは珍しいことではないが、何も今日でなくてもいいだろうにと内心舌を打つ。もっとも、寄り添うふたりを目にしないで済んだと思えば悪いことばかりでもないのだが。

「メシだけ作って行ったのか」

 コンロの上にはやけに大きな鍋が鎮座している。
 出勤前に光忠が夕飯を作って行くことはよくある。今日もそうかとなんとはなしに尋ねれば「ううん」と返った。 

「私が作ったんだよ!」

 得意げに言った彼女をついついまじまじと見つめる。
 彼女は料理をしない。というかほぼできない。手伝いはよくしているが、自分で作るのはホットケーキとサラダくらいのものだ。親に促されても、光忠と一緒に台所に立っても、手伝いはしても自分で率先して作るということはしてこなかった。それなのに光忠の指導もない場所でひとりでなにかを作ったなんて、賛辞に値する。

『すごいじゃないか』
『頑張ったな』
『光忠も喜ぶだろうな』

 いくつか言葉はめぐったが口から出たのは「匂いだけはうまそうだな」という揶揄だった。

「失礼な! おいしそうに出来てるから平気だよ。たぶん」
「なんだそりゃ。また随分でかい鍋を使ったな。何を作ったんだ?」
「肉じゃが。……や、だってね、私も最初はいつもの煮物作る鍋でやってたんだよ? ちゃんとレシピ見てね。じゃがいもの中サイズっていうのがどのくらいかはよくわからなかったけど、冷蔵庫にあったやつが小さくも大きくもないから大丈夫かなって。だけどお醤油をちょっとだけいれすぎちゃってね。しょっぱくって薄めようとしたら今度は汁が多過ぎで、だったらちょうどいいようにじゃがいもとかある分も入れて調整したほうがいいかなって。そしたら……なんかこう、鍋が、小さくて」

 あの鍋がよく使われていたのは、家族が五人揃って食卓を囲むのが珍しくもなかった、男二人が育ち盛りだった頃のことだ。ここしばらく使われなかったあれが登場するとは、かなりの量だ。本人も必死に言を連ねるあたり、作りすぎた自覚はあるのだろう。

「光兄、肉じゃがいつもたくさん食べるし、少しは花嫁修業ちゃんとしなくちゃって……。……やっぱり多いよねえ?」

 不安そうな声音につい頭を撫でかけて掌を握り込む。代わりに「大丈夫だろ、あいつなら」と応じてやった。
 食べきれるかといえばさすがの光忠でも持て余すだろうが、残ったものをアレンジするなりどうとでもするに違いない。

「あいつは遅いのか?」
「ううん、バイトの人がくるまでのつなぎだから、夕飯はうちで食べるって言ってた。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな。国兄ご飯は? まだなら一緒に食べようよ」
「いや、すぐ帰る」
「……変な感じ。帰るって。ここが国兄のうちなのに」

 もう俺の家はここじゃない。言いかけてやめたのは、つまらなそうに唇を尖らせながらも随分と寂しそうな表情だったからだ。返す言葉を選ぶ最中、メッセージアプリが着信を告げる。ダイニングテーブルのそれに飛びつくようにして視線を落とした顔に喜色が浮かぶ。それだけで誰からのものかわかる。

「光兄、終わったみたい。これから帰るって」

 甘さを孕んだ声に、ただ、そうかと頷いた。

 光忠の帰宅を待たず、目当ての本を鞄に放り込んで早々に実家を後にした。
 それがほんの一時間ほど前のこと。
 どこかに寄ってもうまい酒を飲める気がしなくて、今の自宅へと足を向けるしかなかった。まっすぐ帰ったのは、それだけの理由だ。
 漂っているのは同じ煮物のような匂い。手に提げた紙袋がふいに重みを増した錯覚に陥る。
 けれど。

「あ、おかえりなさい」

 リビングへと続くドアを開けた途端に弾む声音が響く。自分のためだけに向けられるそれに不思議と安堵を覚え、ゆるりとほどけた心地になる。

「早かったですね。実家に寄るっていってたからもっと遅いかと……国永さん?」
「あ、ああ、本を取りに行っただけだからな。ほい、これだろ」

 鞄から取り出して渡してやると、軽く瞠った目に光が射したように見え、笑いが漏れた。
 絶版になり、電子化もされていない。現在は図書館にでも行かなければ手にすることが出来ない本だ。図書館で順番待ちをしているが一向にまわってこない、とぽつりと溢されたそれに「実家にあるな。持ってくるか?」と訊いた時にはそれほどノリ気でなかったように見えたが、行った甲斐があったと満足感を覚える。

「ありがとうございます! やったぁ……あ、夕飯食べますか?」
「ああ……メシは、貰ってきた」
「もら……え?」

 紙袋を掲げ見せる。
 実家からの帰り際、やはりふたりで食べるには多いと思ったのだろう。大きめのタッパに詰め込まれた肉じゃがを持たされた。

「み……弟さんが?」
「いや、妹が絶賛花嫁修業中でな。ああ、きみは食わない方がいい。味の保障はできないからな」
「はあ」
「とりあえずシャワーを浴びてくる。先に食べていても構わんぜ?」
「はい、あ、これは温めておきましょうか?」
「頼む」

 やけに恭しく受け取られたそれを後にしてシャワーを済ませて戻ると、「肉じゃが肉じゃが肉じゃがづくし~♪」などという謎の歌が耳に入る。

「肉じゃがのおかずが肉じゃがで~♪ にく……ヒッ!」

 こちらに気付き、歌は唐突に途絶えた。うろうろと視線を彷徨わせて、困ったように上目遣いで「はや……早かったですね」と先ほどの浮かれた調子とは打って変わって消え入りそうな声だ。

「まあな。肉じゃが肉じゃが……」
「わぁぁぁ! やめてください! すみません、忘れてください」
「いいじゃないか、愉しそうでなによりだ、っと、なるほどな、きみも肉じゃがだったか」

 食卓に視線を落とせば、彼女がいつも使う小どんぶりには肉じゃがと青菜のおひたしが載せられている。今日の夕飯は肉じゃが丼らしい。
 一緒に住んでわかったのは、彼女が料理上手だがかなり大雑把だということだ。何を作ってもうまい。ただし、盛り付けがやたらと男前で、ひとり分だけ作るとなるとワンプレート、といえば聞こえがいいが丼モノのようないわゆる『のっけメシ』が多かった。
「肉じゃがのおかずが肉じゃが、な。ふっ、たしかにな」
「忘れてくださいってば。国永さんは丼にしなくていいですよね?」
「ああ」

 花嫁修業の成果は温められて皿に盛られている。確かに見た目はそれなりだが、肉じゃが丼に比べると随分と色が薄い。

「五条家は肉じゃがには玉ねぎ入れないんですか?」
「いやそんなことは……ああ、自分が嫌いだからって入れなかったんじゃないか」
「なるほど」

 頷きながら湯気のあがる茶碗を差し出す。
 卵豆腐と、漬物、青菜の味噌汁とおひたし。それに肉じゃがといたってバランスのとれた普通の食事だ。

「どうしましょう、肉じゃがで肉を多めに入れたからいいかって思っててがっつりしたもの作ってないんですけど。こっちの肉じゃがも出しますか?」
「いや、大丈夫だろう」

 二人用のダイニングチェア。広くはないそこに向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。
 自分の肉じゃが丼を口に運んだ彼女は『おいしい』と顔いっぱいで表現しつつ、満足そうに咀嚼している。

「きみんちの肉じゃがは豚肉なんだな」
「え? 肉じゃがって豚肉が普通ですよね?」
「普通なのは牛肉なんじゃないか?」
「ええ、そんな、庶民の味方メニューだと思っていたのに」
「なんだそりゃ」

 笑いながら、皿からとったじゃがいもを口に運ぶと。

『ガリっ』

 予想外の食感に動きが止まる。彼女の耳にも届いたのだろう。動きをとめて、こちらを見つめる。

『ガリッ、ボリ、シャリシャリ』

 じゃがいもは口の中でイキのいい音を立て続ける。味以前の問題だ。火が通っていない。

「ふはっ、花嫁修業でもこりゃひどいな」

 まあ一生懸命作りはしたんだろう。「食べるのと片付け係がラクでいい」と料理らしい料理をしてこなかったあの子が、見よう見まねで頑張ったことは想像に難くない。
 人参にも箸をのばしてみる。じゃがいもよりは幾分マシだったが、人参も同じように生煮えの状態だった。

「えーと……」

 肉じゃがの出来映えを察したらしい”婚約者”が困惑しながらなにを言ったものか言いあぐねている。少なくとも「きみも食べてみるかい?」などと勧めていいシロモノでないことは確かだ。

「こりゃきみは本当にやめておいた方がいいな。思った以上にひどい」

 それでもまたじゃがいもを口に運んでみる。歯をたてるとやはり煮物とは思えない音をたてた。
 あのふたりはどうしただろうか。光忠と一緒に、調理し直すんだろうか。いつものように並んで、仲良く鍋を覗き込んで。

「あのっ、もうちょっと、そうもうちょっとレンチンだけしましょうか。そしたらその、もうちょっとは……。私も料理し始めはよくありました、そういうの、だからそういう時はレンジでチーンって」

 作った本人でもないのに動揺したように、あわあわと視線を動かして提案してくる。下手くそだ、ひどい出来映えだと笑ってくれてもいいのだが。

「……そうだな」
「じゃあ」

 席を立とうとした彼女を制し、立ち上がる。皿にラップをかけて、そこで手が止まった。

「どのくらいやればいいと思う?」
「どうでしょう、一個食べてみていいですか?」
「大丈夫か?」

 大丈夫に決まってるじゃないですかとカラカラと笑った彼女は、じゃがいもを口に放り込むと「なるほど」と頷いてレンジを操作した。

 やがて火が通ったそれは、火が通った野菜でしかなかった。味見した時に彼女も気付いていたのだろう。温めた、というよりもどうにか火を通した肉じゃがの皿の隣には、彼女の作った肉じゃがの肉がこんもりと添えられていた。

◇   ◇   ◇

「それなら実家に置いてあるな。持ってくるか?」

 金曜の夜。お互い残業もなくスムーズな帰宅を果たし、家飲みで見るともなしにつけていたテレビで話題にのぼった作家の名前。そこから始まったとりとめない雑談がきっかけだった。
 図書館での取り寄せをネット予約してはや三ヶ月。人気なのか先の借主がルーズなのか知らないが、とにかく順番がまわってこない。絶版なのに電子書籍化もされておらず、ネットフリマにも見当たらない。最後の手段は古本屋めぐりかもしれないと苦笑すると、「なんだそれなら」と下げられた釣り餌。お願いしますと飛びつけなかったのは『実家』というキーワードが出てきたからだ。
 実家に取りに行くなら当然仕事終わりか休日だろう。となれば、会いたいはずの、でも会いたくはない人とどうしたって顔を合わせることになる。それを思えば頷くのは憚られた。
 しかし、いざこうして目の前に差し出されてみれば申し訳なさよりも嬉しさが勝った。

 このマンションに住むようになってそろそろ一ヶ月。
 いわゆる4LDK+Sと呼ばれる間取りは双方が仕事を持つふたりの生活には十分を通り越して持て余す広さだった。確実にひとりで過ごせるスペースも欲しくて、使っていないという納戸を自室にしてもいいかと申し出てみると、呆れたように笑われて普通に一部屋を自室として使わせていただけることとなった。これはますます家賃を入れるべきでは? との葛藤は再度一笑に付された。
 セフレとしての役割を求められたのも、ここに住んでからは2回程度。鶴さんの寝室でして、終わったら交代でシャワーを浴びて自室に戻る。以前のようにいったん外を歩けるだけの身仕度をしなくてよくなった分ラクになったという以外は特段変化はない。もっと高頻度ですることになるかと思っていたから、拍子抜けといえば拍子抜けだった。
 セフレから『婚約者』役の相手になった私にそういうことを求める気にならなくなったからか、それとも無事実家を出た彼にとっては行為そのものを必要としていないのか。どちらにしても、『体で払う』ことができない以上はせめてと率先して家事をするようにしている。
 料理をすることは嫌いではない。おいしいものを食べたいという欲求は人並みにあるから、それを叶えるために作る。ただ、それに付随する後片付けや掃除洗濯はまったく好きではない。そのほかの家事にいたっては言わずもがな、だ。
 本丸時代に初期刀にことあるごとに部屋を片付けろと言われていたくらいだから、これはもうきっと前世から魂に刻み込まれたレベルで、やりたくないカテゴリーに分類されるんだと思う。でも、やはり本丸時代同様『役割』に付随してやらなければいけないことであればできてしまうから不思議だ。
 『実家では俺の役割だったからな』と食事の後片付けとお風呂掃除を彼が率先して担ってくれているのもあり、不満という不満もないままに日々が過ぎている。身構えていたよりも快適で、セフレカースト最下位といわれた時よりもランクが上がったのでは? なんなら普通の友達に近づいているのでは? という関係も心地よく、『実家』や『妹』、『光忠』さんという地雷にさえ気をつければ総じて気安かった。

 それにしても、だ。彼の持ち帰ったタッパーに、よりによって今日でなくてもと苦笑する。
 私が作ったものよりも随分色が薄いが、肉じゃがなのは間違いない。もしかすると五条家は薄味が基本なのかもしれない。じゃがいもと人参、それと肉だけとシンプルではあるけれど牛肉を使っている贅沢仕様だ。
 容器の中のものを深めの皿へと移す。季節外れの新じゃがのような固さを感じさせるそれには小さく皮が残っている部分もあり、『花嫁修業』という初々しさを顕しているようで微笑ましかった。
 しかし彼にとってはどうだろう。片想いの相手に、自分とは違う相手のための『花嫁修業』などと言われた心情を思うと、なんともフクザツだ。
 電子レンジをセットする。同時に自分が作った肉じゃがの鍋にも再度火を入れた。
 ひと昔前、肉じゃがは男の人が女に作って欲しいメニューランキングの上位に食い込んでいたというけれど、本当だろうか。世に溢れる肉じゃがのレシピにおける肉の量を思うと男の人がそこまで好むようにも思えない。肉じゃがはメインのおかずにならないなどと宣う男性が多いなんて記事も読んだことがあるし、思い返してみれば本丸で肉じゃがが登場するのはいつも副菜としてだった。
 鶴さんが物足りないと悪いなと思って今日は肉じゃがというよりも、肉肉じゃがだったりするんだけれど、本当にタイミングが悪くていっそ申し訳ない。
 電子レンジから小気味よい終了音が響き、皿を食卓に置く。
 さて、どうしようか。彼女の作った肉じゃがの隣に自分が作った肉じゃがを並べる。絵面を思い浮かべるだけでシュールに思え、笑いがこみ上げる。
 私も一緒に彼女の肉じゃがに箸をつけて、おいしい、などと感想を言うべきだろうか。それとも、やはり大切な女が作ったものはすべて独り占めしたいだろうか。それが自分のために作られたものではないとしても。量事態は『おふたりでどうぞ』というような量だけれど、ここはやはり一人用と想定しておくべきか。

「肉じゃが肉じゃが肉じゃがづくし~」

 口ずさみながら自分の分のご飯を盛り付ける。きっと私が作った肉じゃがを鶴さんは食べないだろう。ならば、ふたつの肉じゃがを並べるよりも自分は肉じゃが丼にしてしまったほうがいいような気がする。

「肉じゃがのおかずが肉じゃがで~♪ にく……ヒッ!」

 白米の上に肉じゃがをよそってテーブルに置いた途端、ドアの近くには下だけスエットをはいて、首からタオルをかけた鶴さんが立っているのに気付いて息を呑む。
 想定していたよりも遥かに早いカラスの行水、いや鶴の行水だ。
 おかしな調子をつけて口から出るままに歌っていたマヌケな即興歌を聴かれたに違いない。

「はや、早かったですね」
「まあな」

 濡れ髪を拭ったタオルを置いて、Tシャツに袖を通しながら「肉じゃが肉じゃが」などと口ずさむ。

「わぁぁぁ! やめてください! すみません、忘れてください」
「いいじゃないか、愉しそうでなによりだ、っと、なるほどな、きみも肉じゃがだったか」

 事態を把握した彼は愉しげに笑ってダイニングチェアに腰を下ろした。

「肉じゃがのおかずが肉じゃが、な。ふっ、たしかにな」
「忘れてくださいってば。国永さんは丼にしなくていいですよね?」

 念のため確認してから、彼の茶碗にご飯をよそって差し出した。
 自分ひとりならば、肉じゃが丼にせいぜいインスタントのお味噌汁をつけるかどうかといったところだけれど、居候とも言えるポジションの身の上としてはやはりきちんとバランスの良い食卓を作るよう心がけている。彼はなんでも『おいしい』と口にしてくれるから、どの程度の品数が正解かわからないままにそれを続けていた。

「どうしましょう、肉じゃがで肉を多めに入れたからいいかって思っててがっつりしたもの作ってないんですけど。こっちの肉じゃがも出しますか?」

 念のため訊いてはみたけれど、予想していたような気がする答えが返った。大切な女が作ったのと同じメニューの、他の女が作ったものなど別に食べたくないのは心情的によくわかる。首を振る彼に頷き返して、向かいに腰を下ろした。
 今日は豚肉が安かった。そしてジャガイモが特売だった。肉じゃがにしたのはそんな理由だ。食費には多すぎる額を預けられてはいても、特売の文字には弱い。小市民根性満載のメニュー決定を後悔した。もっとも、口に入れた肉じゃがは最高においしくて、そんなものはすぐに頭の隅からも消え去ったのだけれど。

「きみんちの肉じゃがは豚肉か。珍しいな」
「え? 肉じゃがって豚肉が普通ですよね?」

 牛肉で作る家もあると知ってはいたけれど、スタンダードは豚肉だろう。実際本丸での肉じゃがも豚肉だったから、きっとそれで違いない。はず。たぶん。

「普通なのは牛肉なんじゃないか?」
「ええ、そんな、庶民の味方メニューだと思っていたのに」
「なんだそりゃ」

 笑いながら、箸でつまみあげたジャガイモを口に運んだ彼と一緒に、動きを止める。

 『ガリっ』と。肉じゃがにあるまじき音が聞こえた気がして、窺うように視線をやる。『ガリッ、ボリ、シャリシャリ』と、やはりこのメニューにして聞こえないはずの咀嚼音が響いた。生煮えというレベルですらないのではないか。そんな音だった。

「ふはっ、花嫁修業でもこりゃひどいな」

 そうですね、と頷くのは憚られて曖昧に笑みだけ浮かべる目の前で、今度は人参が運ばれる。それもまた、口の中でいい音をたてていた。
 無言で、無表情で咀嚼音だけ響かせ続ける。
 人参は生でも食べられるからいいとして、じゃがいもはどうだろう。しかも、あの色づきからして、味だって素材の味しかないかもしれない。
 これが自分で作ったものならば、謝罪して鍋に戻すなりして味を調えながら追加調理をすればいいけれど、この肉じゃがの最大の付加価値は『あの子が作った』というところだ。それを私がどうこうするのは、すべてを台無しにすることになりかねない。

「えーと……」
「こりゃきみは本当にやめておいた方がいいな。思った以上にひどい」

 浮かべた苦笑はすぐになんともいえない表情に変わる。ゆっくりになった口の動きは、けれどやはりいい音をたてていた。

「あのっ、もうちょっと、そうもうちょっとレンチンだけしましょうか。そしたらその、もうちょっとは……。私も料理し始めはよくありました、そういうの、だからそういう時はレンジでチーンって」

 やはりいくらなんでもそのまま食べるのを見守り続けるのはいたたまれない。かといって、私の肉じゃがを食べませんかと言うのも違うように思えて、妥協案を提示してみる。同意を示した鶴さんは、皿にラップをかけようとして手を止めた。

「どのくらいやればいいと思う?」
「どうでしょう、一個食べてみていいですか?」
「大丈夫か?」
「大丈夫に決まってるじゃないですか」

 火が通ってなくたって食材なのは確かだしね。しかし、つまみ食いしたじゃがいもは本当に生で、愛がなければとても食べられないなと思った。

「俺としてはきみの気が変わらないうちに一緒に住みたいんだが」

 同居を切り出されたのは、初めて実家に招かれてからすぐのことだった。

「正気ですか」
「そうきたか」

 婚約者が必要なのも、家を出たいと思う気持ちもわかる。それでもやっぱりその相手が、なにも私じゃなくてもいいのでは? という考えは消えない。同居まで進めてしまえば、後戻りするには手間が増えるだろうに。

「正気、正気なあ……恋愛なんざ大抵正気じゃないんじゃないか」
「確かに」

 達観したような彼の言葉は、わからなくもない。まるで相手が世界の中心のような、手を伸ばせない自分は地球の周りを回り続ける月のような、そんな錯覚にかつて幾度も落ちた。けれどもそれはどこまでも一方通行だったもので、『婚約』とか『結婚』とかと同列に語るのはやはり違う気もする。

「だろ? だから……」
「いや、そもそも恋愛じゃないじゃないですか」
「はっきり言うなァ。ま、そうだな。俺たちのは恋愛じゃないな。でもまあ、だから一緒に住んでみて本当に結婚していいのか考えるお試しだとでも思えばいいんじゃないか?」
「なるほど」

 頷いた私に、「きみ、そんなんで本当に大丈夫か?」となぜか怪訝な顔をされたのは納得いかなかったけれど、少なくともそうまでして理由を手に入れ、家を出たいのだという彼の切実さは理解した。
 理解、したつもりだった。

 電子レンジが終わったよと音をたてて我に返る。
 扉を開け、じゃがいもに爪楊枝を刺してみると、するりと刺さる。今度は大丈夫だろう。ただ、火が通ったとしても、先ほど食べてみた感じでは素材の味しかしない。
 黙って塩や醤油を添えて出すのもどうかと思うし、頼まれてもいないのに、どうしますかと訊くのもなんとなく気まずい。かといって、火が通ったからいいですよねとメインのおかず扱いしてしまうのも忍びない。
 余計なお世話かとも思ったけれど、自分の鍋から肉ばかりを拾い上げて皿に添えてだした。
 素材の味しかしない肉じゃがを「お、今度は大丈夫だな」と平らげていくのを目にして、それはどこまでも『愛』で、やはり正気では到底できないものだろうと思った。

 私は、今はもう正気だろうか。

 先ほどまで最高の出来映えだと思えた自分の肉じゃがが、なんとなく味がしなくなったような気がして、無理に飲み込む。
 この次は牛肉で作ってみようか。いや、もう鶴さんに肉じゃがを作るのをやめておこうとひっそり決意した。

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