「あの……国永さん。私なにか変ですか?」
そっと顔をあげ、広間にぐるりと視線を投げた彼女は眉を下げて俯いた。彼女の見回した先では慌てて目を逸らした刀剣たちが、銘々おかずを口に放り込んでいる。
朝餉の席。いつものように大広間の壁沿いにコの字に並べられた膳。一番奥の端に座すのが主、その隣が近侍の席だ。常ならば近侍代理の俺が座り、その隣に初期刀の山姥切と続く。しかし、お盆のこの四日間だけは、彼女の隣に鶴丸の席を設け皆と同じ膳を置く。毎年空席だったそこに当たり前の顔で座し、機嫌よく白米を咀嚼する鶴丸の姿は一夜明けた今朝になっても彼女にだけは見えていないらしい。
「昨日の夕飯の時から、なんというか……」
再びこちらを窺い見る輩に咎めるような視線を投げてから、困惑して箸まで置きそうな彼女になんでもないと首を振ってやる。
「別に、なにもないさ。そら早く食べないと。冬瓜はきみの好物でもあるだろう?」
「は、い」
腑に落ちないという顔のまま、それでも箸を動かし始めた彼女の横で、一振目は口の中のものを飲み下し「きみこそ食べないのか」とこちらに向かって問うてくる。
「食べる」
「……? はい」
俺の言葉に彼女は不思議そうに小首を傾げながら冬瓜を口にした。
そんな合間にも鶴丸は腹を空かせた童のような勢いで、次々に皿のものをたいらげていく。たいらげる、と言っても実際に膳のものが減るわけではない。例えば鶴丸は確かに茶碗を手にしているのに、膳の上にはこんもりと白米が盛られた藍色の茶碗がそのままある。彼の好物である厚焼き卵や冬瓜の煮物も確かに口の中に消え、満足げに呑み込まれているというのに皿の上には最初に盛り付けたそのままに残っている。
いったいどういう仕組みなのかと箸を動かすことも忘れ横目に窺っていれば、「なんだ、食べないなら手伝うぜ」と伸びてきた箸が冬瓜を摘まみ上げて攫っていく。止める間もなく奪われた筈のそれは、やはり小さな皿の上に残ったままだった。わけがわからないと思いながら奪われた筈のそれを口にすれば、なんの味も香りもしない物体に成り果てていた。なるほど、本質は確かに鶴丸に奪われたようだ。そうでなくとも好きではないそれでも、まさか吐き出すわけにもいかない。
眉間に皺を寄せて無理に呑み込めば、一振目は面白そうに目を細め、反対隣の山姥切りはどこか呆れたようなため息を溢した。
昨日。
迎え火と共に現れた鶴丸は陽気な様で現れたのとは打って変わって「あぁ、きみ。久しぶりだなぁ」と金色の目でひとつ瞬いた。その声音は再び響いたひぐらしの声に負けないほどどこか物悲しさを帯びていた。
対する彼女は、答えないどころか現れた一振目に目を合わせることすらなく「さて、みんな待ってますよね。ご飯食べに行きましょうか」と立ち上がった。
「ぁ、るじ、きみ……」
あまりの驚きに鶴丸を指さすと、「あぁ、水を掛けなくちゃですね」と燃え尽きかけたおがらにひしゃくで丁寧に水を掛けた。落ち着き払ったその様は、どう考えても目の前の相手には気付いていない。
「そうだな、火事にでもなったら一大事だからな」
一振目は彼女が己の姿を見えないことなど知っていたと言わんばかりの様子で、反応を返さない主の隣で腕を組み、したり顔で頷いている。わけがわからない。
禍々しい気配があるわけでもないそれは、妖かなにかが姿を真似たようにも見えない。気配は確かに彼女の刀剣であり、この本丸の一振目だ。
見えていない彼女の前で男に話しかけるのも憚られ、そのまま連れだって夕餉の席へと向かえば、広間の空気がざわりと揺れた。
「主には見えていないからな。話は後だ」
言い放ち、己の唇に人差し指を当てて皆を黙らせた一振目は当たり前の顔で主の隣へと腰を下ろした。その隣に腰を下ろすと、俺と同じ金色の目を軽く瞠っていたが何も言ってくることもない。四年前までは、『二振目』は主から一番遠い膳に座していたから意外に思ったのだろう。
あの頃とは違うのだ、と言ってやりたい思いと、あの頃とは結局のところなにも変わっていないのだという感情とがせめぎ合い、黙々と目の前の食事を片付けていると「国永さんは今日は静かですね」と主に不思議がられた。
夕餉の後はすぐに一振目を掴まえてどういうことなのか問い質そうと思っていたのに、一向に捕まらない。あちこちの部屋に顔を出して呑んだり話しをしたりと好きに過ごしていたようだが、俺自身はなぜかいくら探し回っても一足違いで捕まえ損ね、そんな鬼ごともどきを繰り返すうちに夜は更けて、とうとう話すことすら叶わぬまま朝を迎えた。
皆が寝静まった後には気配すらなく、姿を消してしまったのかと考え始めていたというのに、朝餉の席では何食わぬ顔で主の隣に座していた。
「主、きみ、本当にその……何も感じない、のか?」
朝餉を終えてお茶を飲み始めた一振目の向こうでは、漬け物に箸をのばしかけた彼女が眉根を寄せて、「やはり何かあるんですよ、ね?」と不安げな声で答えた。
「いや、そうではなくて。ほら、なんだ、迎え火もしたことだしな。きみには一振目の気配がわか、る……と」
悲しげに瞳を伏せる彼女に最後まで言い切ることの出来なかった言葉がかたちにならずに舌の上で溶けていく。
そんな顔をさせたいわけではない。
きみの隣に一振目が居る。きみが焦がれて、誰よりも望んだ男が居るのだとそう言ってやれば、喜んでくれるだろうか。姿は見えなくとも。
「彼女には見えないさ。なにしろ俺はもう刀剣男士ですらないだろうからな」
「どういう意味だ」
咄嗟に低く唸るように誰何する。目の前の一振目が刀剣男士でないというならば、あるいは主を害することもあり得るということだ。しかし、そんな警戒もものともしない目の前の男は「やめておけ。彼女が怯えるじゃないか」と軽く肩を竦めるばかりだった。ハッとして彼女を見れば、とうとう食事の手を止め、箸を置いて俯いている。
「や、ち、違うんだ、主」
「……意味なんて、私が聞きたいです」
「主、こいつは昨日ろくに寝ていないからな。暑さにも少しやられているんだろう。あまり真に受けなくていい」
見かねたように山姥切から助け船が出される。間違いでもないそれに乗っかり「そうなんだ。すまん。聞き流して忘れてくれ」と急いで取り繕う隣で、元凶は他人事のように「ごっそさん。さて、今日は何をするかな」と機嫌よく立ち上がった。
◇ ◇ ◇
四年前。
一振目が折れて戻らなくなった日以来、この本丸のすべての機能が停止した。一言も口をきかない主は、転位門が見える縁側に腰掛けてただただ戻らない男を待ち続ける。紅梅の蕾も縮こまったまま陽光を待ち望むほどに冷え込む季節だ。寝間着のように頼りない姿で吹きさらしの縁に座り続けるなど正気の沙汰ではない。けれども心を凍り付かせて正気自体なくした彼女は、何度咎めて部屋の中に引き込もうとも縁側へと戻ってしまうのだ。
傍らに火鉢を置き、少しぬるめにした湯たんぽを抱えさせ、何枚もの上着を着せかける。その場から動かすようなことさえしなければ、彼女は人形のように従順だった。
虚ろな眼差しは焦点を結ぶこともなく、門すら見ているのかも定かではない。厠には立つし、起きていることが難しくなればそのまま床に横たわることはするが、話すことも食事を摂ることもしない。かろうじて、口に入れてやれば水分だけは飲み込むので、食事当番は粥や葛湯、野菜をどろどろになるまで煮込んで汁物にしてみるなど試行錯誤で主に少しでも栄養を摂らせようと試み続けた。それでも、その肢体はどんどん細く頼りなくなっていく。
毎日誰かしらが交代で彼女に寄り添い続け、彼女が眠りに落ちれば寝所に運んでその傍らに侍った。この本丸の誰もが、そうやって少しでも彼女の心から流れて止まらない血を留めようと必死になっていた。
けれども、俺だけはそれをするのを許されなかった。
何も映していない彼女の瞳が焦点を結び、正気に返ったように息を呑む瞬間があった。俺が彼女の視界に入った時だ。その時だけは、腰を浮かし、唇は何かを紡ごうと動き掛ける。そして、すぐに落胆に変わるのだ。一振目ではなかった、と。そんな日はもう彼女は水分を飲み下すことすら出来なくなる。だから、皆が彼女に寄り添い、癒やし励まそうとする中で、俺だけは彼女の視界に入らないことに心を砕かなければならなかった。
主が鶴丸を誰よりも信頼し、心を寄せていたことは明白だったし、そんな彼女を一振目が憎からず想っていることもまた明らかだった。今は恋仲ではなくとも、いつかはごく自然にそうなっていくだろうと皆が思っていた。物である俺たち付喪神が主の一等の寵を欲するのは、生き物の本能のようなものだ。それなのに、親鳥を探すように、少し姿が見えないと本丸の中を鶴丸を探して歩く雛鳥の姿も、遠巻きに一振目を見つめる熱っぽい眼差しも、寄り添ってささやかな触れ合いに幸せそうに笑う顔も、本丸の皆に微笑ましく受け入れられた。
皆は彼女のものであるけれど、彼女は一振目のもの。それは俺が顕現した時には既にこの本丸の不文律に組み込まれていた。だからこそ、片翼をもがれた鳥が生きてはいけないように、彼女がこのまま死んでしまうのではないかと恐れた。
「このまま……死なせてあげたほうが幸せなんじゃないかと思う時があるんだ」
厨で芋の皮むきを手伝っていると、ぐずぐずになるまで煮溶かした野菜を更に念入りにすり潰していた光忠が深いため息を落とした。
「おいおい、光忠。滅多なことを言ってくれるなよ。どうした? らしくないじゃないか」
光坊、と。昔馴染みの呼び方で気安く呼ぶのが躊躇われたのは、一振目に対する気後れだったか、それとも劣等感だったか。今となっては忘れてしまったが、伊達の刀をこんな風に呼ぶことも当たり前となっていた。
手を止めて殊更に軽い調子で声を上げれば、肩越しに振り返った伊達男は「我が儘なんじゃないかって思うんだ」とその体躯に似合わない頼りない声音で答えた。
「鶴さんがいなくなった今、主はもう生きていたくないんだろうなってさ。それを無理矢理留めているのは、僕たちの我が儘なんじゃないかって」
あれから半月。彼女の様子は相変わらずだ。痩せ細り、そろそろ歩く足の運びも頼りなくなり始めた様に本丸にはそこはかとなく諦念が漂い始めた。このまま寝付いて現世に連れ戻されるのか、それともここで生を閉じるのか。口にしないだけで、光忠と同じように考えている奴らもいるに違いない。
「国さんは? そう思うことはない?」
「さあな……少なくとも、鶴丸はそんなことを望んじゃいないだろうさ」
生きて欲しいと願うのは彼女の為ではなく、きっと己の為だ。黄泉路だ、極楽だと言ったところで俺は見たことはない。先があるのかわからない。ましてや、今ここで彼女が生きることをやめたとて、鶴丸に会えるとは限らない。それならばとんだ無駄死にだろう。それとも、終わりにさえ出来れば彼女の悲しみも終わるんだろうか。しかし一振目にしたって、己が折れたことを申し訳なく思うことはあれど、だから彼女にも死んでくれなどと思うはずがない。
俺が一振目だったら、きっとそんなことを願わない。
一振目は後を追うような真似は望まない。それは彼女の生きる理由にならないだろうか。
「せっかく二振りいたんだ。俺が折れればよかったなァ」
「──っ! 国さん!?」
もしも俺がもっと早くこの本丸に来て、一振目として彼女と出会っていたなら。そんな詮無いことを幾度も夢想した。誰より厚い信を得て、一振目を見るような眼差しで見つめ、想いを傾けて貰えただろうか、と。
だが、どう足掻いても俺が二振目なことには変わりない。それならば、今ここで折れてしまうのが俺だったならば、彼女がこんな風に打ちひしがれるようなことにはならなかっただろうに。いや、優しい主のことだ。誰が折れたって同じように悲しんだかもしれない。それでも、寄り添い慰めるのが一振目だったならきっと違う結果が得られたに違いない。
なにより、残ったのが一振目ならばあんな風に視界に入る度に落胆した目を向けられることもなかっただろうに。
「国さん?」
「ふはっ、そんな顔をするなよ、光忠。戯れ言だ」
お玉を放り出しそうな勢いなのを笑い飛ばせば、そういう洒落にならないのはやめて欲しいな、と窘めて、再び目の前の作業に集中しだした。
「なあ。もしも彼女が終わりを願うなら、それを尊重できるかい?」
息を呑んで振り返った伊達男は、真意を探るように細めた目をこちらに向けた。
思えば着物に袖を通したのは、あの日が最後だった。
◇ ◇ ◇
お盆の間、この本丸は内番以外の全てが休みとなる。正月三が日とお盆の四日間。それがこの本丸の唯一の休日だ。出陣や遠征などを交代して自然と休みが生じる俺たちと違い、主の執務に休みはない。
一振目が居た頃には週に一度は主の休みが確保されていたが、四年前から主は休むことをやめてしまった。だから、一振目を偲び、この期間は鶴丸だけを想い、主の好きに過ごしていい。そんな名目のもと、休むのが下手になった彼女を強制的に休ませる。
「国永」
朝餉を終えて、今日こそはとっつかまえて問い詰めようと思っていた一振目は、探すまでもなくあちらからやってきた。
「現世にでも行くのか?」
「いいや、そんな予定はない」
「なら主と外出にでも?」
「……? いや?」
訝しげに顎を指先で撫でる男を前に、なるほどと思い至る。俺が洋服を着ているからだろう。
着物には久しく袖を通していない。出陣の時ですら、洋服ばかりだ。始めは現世任務や政府の会議に付き添う時用のスーツしかなかったが、この四年であれこれ増えた。加州や乱が率先して見立ててくれたものばかりだが、服の名前が横文字ばかりなのにもすっかり慣れた。今日も黒いジーンズに夏らしい絵柄のTシャツを身につけている。
以前なら洋服を着るのは主の付き添いで現世に行く男士だけだったから、鶴丸もそう考えたに違いない。
「服のことなら俺はもうずっとこのナリだ。慣れれば存外ラクでいいぜ」
「……」
「ところで」
「出掛けるんでないなら頼みがあるんだ。主とおせろがしたいんだが」
「オセロ? どういうつもりだ?」
「おせろにどういうつもりもこういうつもりもないさ。以前はよくやったもんだ。せっかくこうして本丸に居るんだからな。主とも何かしてみたい」
確かに昨夜はあちらの部屋こちらの部屋と顔を出しては酒盛りだのをしたようだが、肝心の主とは言葉を交わすことも出来ないのだ。何かしたいと思うのも道理だろう。
連れだって主の部屋の前で声を掛けると、ばさばさと書類を動かす音がする。こめかみがひくりと引き攣るのを感じながら問答無用に障子を開けると、引出しに紙の束を押し込みかけて固まった主の姿があった。
「主。それはなんだ?」
「これ、は……紙ですね」
「そうだなあ、紙だ。俺には執務書類に見えるんだが?」
「あー……はは」
「笑って誤魔化すんじゃない。お盆中の執務はすべて休み、きみは書類仕事も禁止だったと思ったんだがなァ。俺の思い違いだったか」
「すみません」
「なんだ、執務禁止なのか。なるほど、それで深夜に布団の中にまで燈を引き込んで隠してたんだな」
得心がいったとばかりに頷きながら呟く背後の一振目を一瞥した後、すかさず主に向き直ると、何に怯えたのか、ひっと喉の奥に留めた悲鳴の気配。
「きみ、昨夜も布団の中で?」
「──! 見てたんですか!? あ、だから国永さんも寝不足……」
「へぇ……あの主が随分勤勉になったもんだなァ」
「きみは黙っててくれ」
「あ、ハイ」
「いや、きみでなく……あぁ、もういい。わかった。とにかく今夜は早く寝るんだ。いいな?」
「……はい」
くつくつと笑いながら部屋へと歩を進めた一振目は「なんだ、うまくやってるじゃないか」と主の目の前に腰を下ろす。そんな鶴丸が相変わらず見えてもいない主は、「えーと、国永さん。それを言いに来たんですか?」と気まずそうに視線を彷徨わせた。
「ああ、違うんだ。オセロをな、やらないかと誘いに来た」
「へ? オセロ、ですか? 珍しいですね」
「あぁ、鶴丸とはよくやっていただろう?」
「……そう、ですね。いいですよ。ちょっと待ってくださいね」
立ち上がった彼女は押し入れに頭を突っ込んで、奥から箱を取り出した。座布団を敷き、盤を置くと一振目は当然の顔で彼女の向かいに座った。必然的に俺は二人を見守るように盤の横へと腰を下ろす。
「国永さん。なんでそこに?」
「あー……いや。そう、鶴丸とな、今日は鶴丸とやればいい。その……気分だけでも」
「そこまで徹底しなくとも……」
困惑した眼差しに、内心それはそうだと頷く。盆の期間は鶴丸の食事の席を設けるだけでなく、ことあるごとに、『一振目が居たらそこで笑っていそうだ』とか、花火や西瓜割をすれば『鶴丸が真っ先に手を上げそうだ』などともしもここに彼が居たならばと皆で口にしたりしていた。新盆こそ彼女の傷に触れぬようにとヒヤヒヤしたものだが、二度目からは誰ともなしにそんな風に言っては笑い合った。さりとて、ここまで徹底して居るように振る舞ったことなどさすがにない。
そんな困惑などどこ吹く風。いつのまにか盤には黒い石と白い石が二つずつ並べられ準備が整っている。主は、え、いつの間に……と小さく呟きながらも、俺がやったと思っているだろう。食事の時の様子を振り返り、鶴丸が物を触って動かすことは出来ないと思い込んでいた俺もかなり驚いたが、彼女が居る手前それについて問うことも出来ない。
「さすがに主の前で勝手に石が動くのはまずいだろうからな。この後はきみが俺の言う場所に石を置いてくれ」
そうして、俺は一振目の指示通りに白い石を置くだけの役割を果たし続けた。
俺も主と何度かオセロをしたことがあるが、何手もの先を読みながら進めるこの遊びは得意とするところだ。それでも、あまり一方的に進めてしまっても面白くはないだろうと、敢えてひとつふたつ悪手を入れながら興じていた。
それに引き替え、鶴丸の打ち方は容赦がなかった。常に最善の手を確実に打ち、盤はあっという間に白一色となる。
「わざと、ですか?」
三回目の勝負も最後まで石を置ききることなく盤が真っ白な石だけになった時、彼女は泣き出しそうに震える声で囁いた。
「……こんなことしなくたって大丈夫です。忘れてませんから」
言葉を失って黙り込む隣で、一振目はゆるゆると長く息を吐いた。
鶴丸はこれが目的だったんだろうか。
石の置き方と彼女の反応を見れば、鶴丸はいつもこうして盤を白一色に染め上げて勝利していたんだろう。そうして今、彼女には姿が見えない己の存在を示したかったんだろうか。
鶴丸とて彼女にこんな顔をさせることは本意ではないだろうし、俺自身、主を悲しませたかったわけではない。しかし、何を言い繕ったところで傷口に塩を塗るような行いだったとしか思えない。
何か言わなければと口を開きかけたその先を制すように「それにしても」と彼女の上滑りした明るい声が耳朶を打つ。
「国永さん、前は手を抜いてたんですね。今日はおしまいにしましょう。もっと練習しておくんで、また相手してください」
早々に彼女の部屋を後にして、黙って前を歩く一振目の背中に目をやる。鶴丸はふと縁で足を止め、庭に並ぶ梅の木を見遣った。葉を茂らせたそこを見つめたまま、今年も漬けたのか、と問う。
この梅の木になる実で毎年作る蜂蜜漬けは彼女の好物のひとつだ。実が大きくなり始めると、今か今かと収穫を待ちわびる姿は幼子のようでひどく可愛らしい。
「あぁ。今年は豊作でな。珍しく二瓶分作れたから、主はおおはしゃぎだった」
「そうか」
「四年前は……あの年だけは彼女がいらないと言うから酒に漬けてな。誰も呑んでいないはずだ。厨で寝かせてある」
一振目はそれには答えない。ただ黙って梅の木を見つめ続ける。
「何を、しに来た?」
付喪神が壊れて仏になるなぞ聞いたこともない。鶴丸自身、己を刀剣男士ではないと言っていた。それならば、目の前にいるこいつはなんなのか。
実質的には茶碗を持つことも出来ないということにどこかで安堵していた。けれど、先ほど石を動かして見せたことを鑑みれば、その気になれば物を持つことも動かすことも普通に出来るに違いない。ならば、刀を振るうことすら容易だろう。四年前とはいえ、この本丸で誰よりも強かった男を前に警戒心は一気に膨らんだ。
迎え火ならば去年も一昨年もしたのに、鶴丸は現れなかった。姿が見えなかっただけで居たのかもしれないと考えてもみたが、どう考えても痕跡の欠片も感じなかった。得体の知れないことばかりだ。
「大切なものをな。貰い受けに来た」
「まさか、主を連れて行くつもりじゃないだろうな?」
「そうだ、と言ったら?」
ゆっくりとこちらに顔を向けた男は、好戦的に口の端を引き上げた。