「綺麗に咲きましたね」
生け垣の朝顔がようやくひとつ開花した。
青紫と赤紫の蕾。どちらが先かと酒を賭けて予想していた酒飲み勢は、青に賭けた面々の勝利だ。
「大将は賭けたのか?」
「私は赤に」
はずれちゃいました、とさして残念でもなさそうに小さく笑う横顔はいつも通りの彼女だ。
この本丸が始動したのは、他所の新人本丸同様、夏に差し掛かるこの時期だった。
春から三ヶ月ほどベテランの審神者の指導の下、本丸運営について学んだ新人は皆この時期に独り立ちして自身の本丸を持つ。そこまでは、彼女も同期と同じだった。
新人審神者と初期刀である歌仙、それに最初に鍛刀された自身とで今後の計画を話し合った頃には殺風景だった庭も、今では至る所で四季折々の花が咲くようになった。
梅雨が終われば夏本番。そうしてその後には、彼女を悲しくさせる秋がくる。
あの時は、正直、もう本丸継続など到底無理なのではないかと考えたが、この季節を再び迎えることができた。
「薬研くんはどっちに賭けたんです?」
「青だ」
「じゃあ明日はおいしいお酒が呑めますね」
「だな」
あるじーと呼ばう声が駆けてくる。スーツに身を包む加州清光だ。
今日の政府への出張は清光と安定とが行きたいと譲らず争っていたようだが、このなりでいるということは加州が随行することになったのだろう。
「あ、清光くん! ほら咲きましたよ、青でした」
「それより! 支度しないと。今日は会議と面談の日でしょ」
戦績を上げるための審神者引退者による指導も、はや三回目となる。
顔合わせ程度だった一回目から帰った彼女は頬を紅潮させて、とても綺麗で優しい人だったとはしゃいだ声をあげていた。
貰ってくるアドバイスは的確なようで、書類仕事も随分と効率よくなっている。
本来彼女は下位というほどひどい実力ではない。普通に運営すれば、例え効率が今ひとつでも中の上くらいには食い込めるはずだ。ただ、昨年は一ヶ月ほど本丸の運営そのものが停まってしまったことが年間戦績に響いただけで、それは上の人間もわかっているはずなのだ。
それなのに他の下位本丸と同じように『かうんせりんぐ』対象とされたのは、あの一ヶ月を知る刀の誰もを不快にさせた。
もっとも、当の本人が嬉々として通っているものだから、誰ひとり口を挟んではいないけれど。
「ちゃんと覚えてますよ。でも支度って……巫女服に着替えるだけですよ?」
「もーさー、こういう時くらいデコらせてよ」
「うん、清光くん格好いいです。ネイルの色もすごくいいですね」
「ありがと。じゃなくて。主だよ主。せっかく現世行くんだから」
「私は別に」
「こないだ気になるって言ってたカフェ。巫女服で悪目立ちするのが嫌で入れなかったの誰だっけ?」
「……そうでした」
ほら、行くよ、と加州に手をひかれた審神者が「いってきます」と手を振ってよこす。同じようにひらひらと手を振ってやりながら、薬研はこの先の季節を憂い、ひとつ息を吐いた。
◇ ◇ ◇
主の不在は予定を見ればわかるが、それとは別にもうひとつ、八つ時に出される菓子で知れる。主が現世に出掛けて夕餉前まで戻らない時は、高確率でチョコレートケーキが供される。
さして好き嫌いの多くない彼女だがチョコレートケーキは苦手だとかで、彼女不在時限定のおやつだった。
「うまいのにな」
「それを食べたら、笹を飾るから手伝ってくれるかい」
遠征から戻ると出迎えに彼女の姿はなく、歌仙に出されたおやつでそういえば今日は会議で不在にすると言っていたことを思い出す。
今日の供を加州と争って破れたという大和守は、短刀たちに混ざって縁側で色とりどりの紙と格闘をしていた。
乞巧奠──七夕の準備なのだというのだから、雅やかなことだ。
「本当にこの本丸は行事ごとに余念がないなァ」
「ともすれば戦ごとばかりになる日々に花を添えることは必要さ。僕らにも、主にもね」
行事ごとへの取り組みに時折呆れを感じることはあれど、不快に思ったことはない。それどころか、華やいだ雰囲気に身を置き、皆が楽しそうに笑いあうのを見るのは鶴丸自身も浮かれた心地になった。
そうして、そのたびに思うのだ。なぜ、と。
審神者が刀剣男士を率いて時間遡行軍と対する。どこの本丸も、優劣はあれども同じ事だ。それなのに、なぜ最初に顕現したあの本丸ではこんな風に皆が笑いあい、主を慕うことが許されなかったのだろうか。
「もし苦いようならこのほいっぷを多めに添えるといいよ。こっちは甘めに作ってある。今日はいつもより『びたー』な菓子にしたんだ。甘い物が好きなものばかりではないから、たまにはね」
「んぁ? ああ、いや、うまい。大丈夫だ」
「俺は欲しい」
山姥切が声をあげる。今日の遠征は、このふたりで出掛けてきた。
いつもなら遠征から帰ればすぐに風呂へ直行するところだが、今日は明日に備えた支度があるからと並んで遅めの八つ時となった。血なまぐさい用向きではなかったからこそだが、少々体を動かし足りない身としては、この後にまだ仕事があるというなら歓迎だ。
「好きなだけお取りよ」
差し出されたクリームをてんこ盛りで皿に添えていく。既にどちらが添え物かわからない態だが、目を輝かせているあたり、この本丸の山姥切はかなりの甘党なのだろう。
かつての本丸で折れずに残った刀は、今頃どうしているだろうか。
他所に貰われたものもいれば、刀解を申し出たものもいるとは耳にしたが、今のところ演練で顔を合わせてもいない。
共有しているのはろくでもない記憶ばかりだから会って何かを語り合いたいということもないが、せめて今は穏やかに過ごしていて欲しいものだと願う。
「で? これを食べたら何をするって?」
「竹灯籠を庭に配して、それから切り出してきた笹に飾り付けをするのと、ああ、買い出しも必要か……あとは明日に備えて料理の仕込みといったところだよ」
「なら俺は庭仕事でもしてくるか。ごっそさん」
席を立つと、よろしく頼むよと初期刀の声が追いかけてきた。
◇ ◇ ◇
星が霞んでしまいそうなほどに灯籠を点し、明日の準備は万端となった頃になってようやく転送装置が音をたてた。途端「ただいまー」と聞き慣れた能天気な声が響く。
「わぁ、すごい! 綺麗ですね」
「おかえりなさい! あるじさま! どうです? すごいでしょう」
「うんうん、素敵です! もう今日すぐに七夕できちゃいますね」
胸を張る今剣に続いて、何振りかが自分の仕事ぶりを伝えては審神者の笑顔を向けられる中、「遅かったじゃないか」と初期刀の声が掛かった。
「ちょっとアクシデントがありまして」
「お前がついていながらなにやってるんだよ」
「安定くん! 清光くんのせいじゃなくてですね、ちょっと手違いがあったり停電があって予定がずれこんじゃったんです。それと寄り道したりしたせいで遅くなっちゃいまして、すみません」
審神者がぺこりと頭を下げると「無事だったんだからいいじゃねえか」と和泉守がぽふぽふと彼女の頭を撫でる。
「これでも主が行きたかったカフェにも寄らずに帰ってきたんだっつうの。せっかくの現世だったのに」
「お買い物が楽しかったからいいんですよ。みんなにお土産買ってきたので、広間で分けたいんですけどいいですか?」
ふたりして手に提げた大量の紙袋は、土産物だったらしい。
「あ、鶴丸さん!」
こちらに気付いた彼女がぱっと顔を輝かせ駆けてくる。いつものようにひょいと躱せば、常とは違う香が鼻に届き、反射的に眉根を寄せた。
「香までつけて、念入りなことだな」
「香? 香なんてなにもつけてないですけど……」
常とは違うブラウスに鼻を寄せた審神者は、ああ! と合点がいったように手を合わせた。
「三日月さんのかも」
「三日月?」
「はい。研修先の三日月さんに施設でお会いしまして、ちょっとうっかり部屋に閉じ込められてしまいまして。たぶん、それで……」
先月この本丸にやってきた好々爺の姿を思い返す。主の世話をしたと公言してはばからないあの刀と、香りが移るほどの何をしてきたというのか。
その上、今日の主の服装ときたら、いつもとは違う丈の短い衣からすらりと足がのぞく。唇も灯籠の明かりでもわかるほどに、艶やかで、随分と洒落込んで現世に出掛けたことが一目でわかる。馬子にも衣装と思わなくもないが、こんな香りを纏っていれば、否応なく男士に媚態をさらす前の主を思い起こした。
「言い訳は結構だ。少しくらい羽目をはずしたところで、この本丸なら誰もきみを責めたりはしないさ」
棘のある口調に、気色ばんだ加州が口を開く前に、パンと手を打ち鳴らしたのは歌仙だった。
「こんなところで立ち話もないだろう。広間でお茶でもしよう、いや、もう夕餉だね」
「あ、じゃあ先にお風呂入ってきますので、皆さんは先に食べててください」
離れに足を向ける彼女は、自身の腕を鼻に寄せては首を傾げている。
その背を見送りながら、『あまりいじめてくれるな』と言った三日月を思い返す。
思わせぶりに見習い時代の審神者について語った男とふたり、何をしてきたのか。
何がどうということもないはずなのに胸のあたりがむかつく。あの香りのせいだと結論づけて舌を打ち、一同同様に広間へと足を向けた。
広間に遅れてやってきた審神者は、ジャージという気の抜けた姿で現れた。年頃の娘らしい可愛らしかった先ほどまでの身なりとは打って代わった気の抜けた姿に、それもまた、なんだか面白くない。現世と違って見せびらかしたい相手がここにはいないのかもしれないが、好きだ好きだと公言して見せるならば相応の身なりがあるのではないか。 当然の顔で鶴丸の隣に腰を下ろした彼女とは入れ違いに席を立とうとすると、「渡すものがあるのでちょっと待ってて貰えますか? それとも先に渡すので」と引き留められたので、「先に食え」と渋々腰を下ろした。
他の皆も膳の片付けで立つ者を除けば、茶をすするもの、酒を飲むものと違いはあれど、各々ゆるりと主の食事が終わるのを待つ。
反対隣に座す歌仙は「それで、何があったんだい」と水を向けた。
「ムグ…」
「ああ、急がなくていいよ。というか、そういう食べ方は雅じゃないと言っただろう」
保護者のような眼差しの歌仙に、話し始めたのは加州だった。
話しはこうだ。
今日は会議の後に『カウンセリング』の予定だったため、控え室に加州を残し、彼女一人で指定された部屋へと向かった。
政府施設内だから男士が逐一供をする必要もないのだが、今日に限ってはそれが裏目に出た。
彼女が部屋に向かう途中、偶然くだんの三日月と行き会った。施設で迷子になったという三日月を案内がてら所定の部屋に向かったが、誰の姿もない。様子を心配して部屋に三日月が入ってきた途端、停電が起こり、ふたりして室内に閉じ込められたのだという。
異変に気付いた加州がすぐに駆けつけたことで閉じ込められていることが周囲に知れ、停電も回復したものの、そんなあれこれで時間がずれこんでしまったということだった。
「ただ閉じ込められただけで、香りまで移るか?」
どれだけ衣に香を焚きしめていたというのか。よほど密着して過ごさなければ、そうはならないはずだ。
「あー、それはですね、私が停電にびっくりしちゃったので、三日月さんがちゃんとここに居るってわかるように、こう、ぎゅうっと……」
「はっ、きみが誰と何をしようと構わんさ。帰ってきさえすればな」
「なんなんだよ、さっきから。あんたは主のことが好きなわけでもないんだろ? だったら主が誰と何をしようと関係ないじゃないか」
「わわ、清光くん! ストップ! ご飯は楽しくおいしく! ですよ……って食べてるのは私だけですね」
いつものようなへにゃりとした笑顔に、毒気を抜かれる。
もうこれ以上は何も言う気にもならずに湯飲みに口をつけると、「主は暗いのが苦手なんだよ」と歌仙が取りなすように続けた。
「停電とは……一人の時でなくよかったね」
「ホントです。もうびっくりしちゃいましたよ。遡行軍でも出てくるかと思いました」
「何事もなくなによりだったよ」
「はい、清光くんがすぐに駆けつけてくれたお陰です。ね?」
主にそう言われれば悪い気もしないだろう。加州も指先で鼻の頭をかくと、まあね、と矛を収めた。
「ごちそうさまです。お待たせしました。お土産配りますね」
この本丸の鍛刀頻度はかつて居た本丸よりもかなり緩やかで、ゆえに居並ぶ男士は三十振に届かない。小物だの菓子だのとひとつひとつは大した大きさではないが、それでもまとまると結構な量だった。それらをひとつひとつ、審神者は丁寧に手渡していく。
渡された者から部屋に引き上げたり、夜番に立ったりと、広間の人数はぐんと減っていく。
鶴丸には、ブランデーケーキの詰め合わせが渡された。
「それ、好きかなと思って。あの時はひとりひとつしかなかったから。それは全部鶴丸さんが食べていいですよ」
以前、同じ物を渡されて、あまりのおいしさに驚いたものだった。
「通販してないから、現世に行った時にしか買えなくて。遅くなっちゃってすみません」
彼女は謝罪したけれど、別に約束したわけでもない。そもそも、こんな菓子ひとつについて話したわけでもなかった。
「きみも、これが好きなのか?」
「私はそれお酒が強くて苦手なんです」
「じゃあきみは何を買ってきたんだい」
「私は『スペシャルプリンアラモード』を食べてきました!」
政府の食堂のだけどね。目当てのカフェにも寄らずに、と加州が付け足す。
「おいしかったからいいんです! あのカフェはまた次一緒に行きましょ」
「約束だからね!」
念を押した加州も座を立った。
「……きみはそうやって一振り一振りの好物を覚えているのかい」
「どうでしょう、好きそうだなってことはまあわかると思います。好きな相手なら尚更です」
えへんと言いそうなほど得意げに胸を張る彼女に「なぜ」と問う。
「なぜ俺が好きだと言うんだい」
「なぜって……そう思うからです」
「なぜ?」
頑是無い子どものように問いを重ねる己を前に、彼女はうーんと考えてぽつぽつと語り出した。
「最初は、真っ白でなんて綺麗な神様だろうって思ったからですかね。鶴丸さんみたいに綺麗な神様の近くにいたら自分も少しは綺麗になれるかなって思ったりとか」
そんなはずないんですけど、と笑みを浮かべる姿に、いつかの女の顔が過る。
『美しいわ』
『私の鶴丸。全部私のよ』
「お眼鏡にかなってなによりだな」
「それから、案外甘党で辛子和えに涙目になってたところとか、戦も好きだけど内番も愉しそうにやっているところとか……馬に髪をむしゃむしゃされて困っていたところも、キャベツが大きくなっていくのを嬉しそうに眺めているところも。それから、みんなに優しくするところ。誰かが困っていれば、すぐに見つけて手を貸してあげるところも、仲のいいみんなのことを嬉しそうに見ているところも……」
つらつらと語られる言葉に、なんだかいたたまれなくて「そんなものは」と口を挟む。
「そんなものは他の奴らでもやってることばかりだろう」
「そうでしょうか……そうか、そうかもしれませんね」
ほらみろという思いと、なんだその程度かという落胆と。
何を落胆することがあるのかわからないままに感じていると、「でもね」と柔らかな言葉が続いた。
「でも、それでも鶴丸さんばかり見てしまって……鶴丸さんがいいって思ったんです。鶴丸さんが好きだって」
彼女らしいまっすぐな言葉だと思った。飾らない心根で紡がれるそれに、せめて真摯に返すべきではと思うほどには。
「きみは……いい主だと思う」
「……ありがとうございます」
「だが俺はきみのことをそういう風には好きにはなれない」
「……ら、いい……よ」
俯いて呟いた声は微かで、充分には届かなかった。
だからいいんですよ、と言っただろうか。だから? どういう意味だろう。
確認する間もなく、顔をあげてへにゃりと笑った審神者は「私が勝手に好きでいるだけです。だから鶴丸さんは気にしないでください」と潔く言い切ると、部屋に帰りますね、と立ち上がった。
「ありがとう。ありがたく、いただく」
慌てて礼を口にすると、「どういたしまして」と笑顔が返された。
翌日は晴天。
せっかくの七夕に星の光を阻害するほどに並べられた灯籠は、暗いのが苦手な審神者のためと知れた。
男士を見分けられるほどの目を持ち、皆に慕われる主。
チョコレートケーキは苦手だが、他に好き嫌いがあまりない主。
短刀たちと一緒に短冊書きに興じる姿を遠目に、彼女について知ることを数えてみる。
「あれー? 鶴丸さんと両想いになれますように、とか書かないの?」
声高に言った乱がちらりとこちらに視線を寄越す。視線の先に居る鶴丸に気付いた彼女は、「それは短冊じゃなくて、鶴丸さんにお願いしないとですね」とへにゃりと笑った。
「あんたは書いたのか」
いつの間に隣にやってきたのか。大倶利伽羅が審神者に視線を向けたまま問う。
「いや、これと言って願うほどのこともないからな」
「……あれは、きっとあんたに何も望まん」
「だろうな」
昨夜の短いやり取りに、鶴丸も同じ事を考えた。嘘偽りない好意だが、色恋とは違う。 例えとしては最悪だが、以前のあの女と極端なほどに対極であるもののように思えた。
「だが、あんたを望んだ。俺たちはそこに期待している」
「伽羅坊、そりゃいったい……」
「だからあんまり邪険にするな。あれはあんたを何も害してはいないだろう」
突きつけられて言葉に詰まった。
審神者は鶴丸にいろいろなものを与えようとする。けれど、なにかを奪ったり、望むことすらしない。
それなのに、最近はふとしたことに余計苛立つ。そうして思わず嫌みのひとつも口にして、溜飲を下げてみたりするのだ。
客観的に子どもじみていると思う自分は自覚しないでもないが、なぜそんな風に心が波立つのかはわからない。わからないから、あの能天気な笑顔に逆撫でされる心地になるのだ。
「流しそうめん始めようか」
燭台切の声に場が沸き立った。
「鶴丸さん、流しそうめん初めてですよね? 早く早く! 楽しいですよ!」
手招きする審神者に、たった今大倶利伽羅に言われたことを反芻する。
『何も害してはいない』
それなのに、なぜその好意をそのままに受け取ることができないのか。
子どもじみた自身を自覚すれば、彼女の言葉を無視するわけにもいかず、のっそりと足を動かした。
夏が来る。その向こうに、神様不在の季節がやって来る。