「三日月さん!」
本体を抜きかねない緊張感をたたえた男士たちは、喜色に満ちた声と共に駆けてきた主の声にあっけにとられた。
政府から貰い受け、自身の本丸の刀剣となった鶴丸を好きと公言して憚らない審神者は、白いその姿を見つけるたびに抱きつかんばかりに駆けてくる。そうしてそのたびに躱されるまでがこの本丸の日常の光景だった。
その主が、庭の転送門から突然現れた余所の本丸の三日月宗近に、まるで鶴丸にそうするかのように駆けていくのだから皆が事態を飲み込めないのも当然だった。
「おぉ、
「──っ!?」
三日月が馴れ馴れしく呼んだことに数振りが鋭く反応した。
審神者には本丸番号とは別に審神者名が与えられている。名前を公にしておくことで起きる弊害──呪術的なものを避けるためとも現世のしがらみを持ち込まないためともあれこれ理由はあるようだが、元を正せば付喪神たる刀剣男士が主の真名をとることに怯えた為というのが始まりらしい。
実際問題、刀剣男士が審神者の真名を知ったところで一等最初に結んだ主従契約を覆すのは難しい。なにしろ末端とはいえ、神が結んだ契約だからだ。もっとも、それも審神者の霊力が低ければ、不可能なことでもない。
そもそも、道具に宿る付喪神は総じて人間に愛着があるし、己の持ち主に対してならば尚更だ。だから、刀剣男士が主の意に反して隠してしまおうだとか、害するなどということは起きないのが普通で、それが起きるとはよほどのことなのだ。
日常生活において、刀剣男士が「主」と呼べばそれは唯一人の相手だし、余所の本丸の審神者が相手であっても「おい」とか「きみ」と呼びかければ用は足りる。つまりは刀剣男士が審神者名で呼びかけることはほぼない。それをさも当たり前のようにして見せた三日月に、居合わせた一同が虚を突かれた。どうやら彼女とはよほど親しい間柄らしい。
鶴丸は今この時まで主の審神者名を知らなかった。秘匿されるような情報ではないから尋ねれば教えて貰えただろうが、必要もなかったし本丸の中で誰かが呼びかけるのも聞いたことはない。ただ、審神者名には基本的に花鳥風月の名が用いられているという知識はあったから、それが彼女に与えられた名なのだろうと認識は出来た。
三日月は彼女が胸に飛び込んでくるのを受け入れるようにその腕を広げた。
しかし、親しい相手だったとしても、よく知りもしない余所の本丸の男士、しかもいきなり現れた相手にそう容易く主を近づけるわけにもいかない。もうあと五歩ほどで三日月に届く手前で彼女の細い肩を捕まえて引き留めたのは大倶利伽羅だった。強く引き戻され、大倶利伽羅の胸に背中から抱き留められるかたちになった審神者は、目を丸くして自身の刀剣を見上げた。
「わっ、伽羅さん、どうしました?」
「どうしたじゃない。説明しろ」
「説明?」
身を離した彼女は大倶利伽羅に向き直り、それからようやく門の周囲に集まっている十数振りの刀剣たちがひどく緊張していることに気付いて、不思議そうにことりと首を傾げた。
「説明って……。三日月さんがここにいることについて、です? 今日お客さんがくることは伝えてありましたよね?」
「俺たちが聞いていたのは政府職員が来ることだけだ」
「ああ、そうですよね。だから、……あれ? 三日月さん、ひとりで来たんですか?」
「なあに、あやつはまだ時間が掛かるというからな。先に来た」
朗らかに笑う千年刀を前に、一同の緊張がどこか呆れを滲ませた温い空気に変わっていく。この本丸にはまだ三日月宗近はいない。しかし、よく言えば鷹揚な、悪く言えばマイペースなこの刀を一員に加えるというのは相応に苦労も伴いそうだとひっそり息を吐いた刀も数振り。
「知り合いか」
まだ警戒を解ききってはいない大倶利伽羅の方に向き直って首肯した審神者は、「私が審神者試験の前に見習いでお邪魔した本丸の三日月さんです。とってもお世話になりました」と紹介してへにゃりと笑った。
「はっはっは、お世話したなあ」
「はい。すごくお世話になりました。
ということで、皆さん警戒しなくて大丈夫ですよ。
っていうか、なんで三日月さんが? 政府の職員さんなら同行するのも政府の刀剣男士かと思ってました」
「まあ……いろいろ、だな」
思わせぶりに含んだ物言いをした三日月は、さっと周囲に視線を投げて鶴丸を見留め、視線を合わせるとすっと目を細めた。けれどそれは一瞬のことで、月を宿す眼は柔らかに弧を描き、歩み寄った審神者へと再び向けられた。
「師匠も後から来るんです?」
「いや、あやつは重鎮どもと会議だな」
「相変わらず忙しいんでしょうね。……なんだ。三日月さんが来るって知っていたら、あの季節限定羊羹用意しておいたのに」
「おぉ、それは惜しいことをした」
さも悔しそうに眉を下げた蒼い男士の後方で、本日二度目の転送門の起動音が響く。淡く光ったそこからひょろりと長身の人影が現れるや、「置いてくなんてひどいじゃないですかぁ」と情けない声をあげた。
気弱な声の主は、鶴丸がよく知る政府の男だった。
◇ ◇ ◇
十畳あまりの応接間も、中央に鎮座する大きな卓を挟んで大人五人が座せば、途端に狭々しい。
政府の職員の隣では三日月がゆったりと湯飲みを手にしている。その向かいには、審神者を挟んだ両脇に歌仙と鶴丸とが座した。部屋の入り口に近い方を陣取る鶴丸は、こんな場に呼ばれたのが不服だとばかりに障子の方に顔を向けたまま頬杖をついている。不機嫌さを刻むように指先で卓を叩き続けたのを歌仙に窘められ、ようやく手を止めた。そんな鶴丸を上目遣いでちらちらと窺う政府職員は、ひたすら身を縮ませている。
「それで」
口火をきったのは歌仙だった。鶴丸の顔色ばかり窺って一向に話を切り出さない男に笑みを向けた。
「今日の用向きは?」
「あ、はい。昨年度下半期の総合成績の振り返りと、四月五月の上期スタートに伴う実績について……、それから、その……ああ、審神者様に写真と釣書を幾つか預かって参りまして」
「は?」
声を上げたのは鶴丸だった。
釣書と言えば見合い相手に渡すものだ。成人している女に縁談話があっても不思議なことではないが、へにゃへにゃと笑い、廊下を駆けるような落ち着きもないこの主にそんな話が持ち込まれてきたことにひどく驚いた。
しかし。
「またですか」
「またかい」
隣に並ぶ者たちがつまらなそうに声を揃え、鶴丸は目を瞠ってふたりの顔をまじまじと見つめる。その視線に気付いた審神者は「あ、大丈夫ですよ。私が好きなのは鶴丸さんですから」といつものように顔を緩ませた。
「よきかなよきかな。結婚式ではじじいもすぴーちしてやろうな」
「はい、その時にはお願いしますね」
季節は梅雨を迎えようとしているのに、向かい合って笑い合う主と刀剣男士の頭の中は未だ春爛漫で桃色の花が咲き乱れているようだ。能天気なことこの上ない。
うんざりとして、付き合ってられないとばかりに盛大に息を吐くと歌仙が大きく咳払いをした。
「それだけかい。鶴丸国永をこの場に同席させるように要望してきたのはそちらだったと思ったんだが?」
「は、はい」
水を向けられた職員はぴっと背筋を伸ばしたが、鶴丸の方をちらりと見て再びしおしおと肩を縮こませる。埒があかないとばかりに、今度は鶴丸が口を開いた。
「用件なら早くしてくれ」
「ハイ、その、まずは改めてお詫びを……」
目の前の職員は、監査局の一員だ。本丸の運営が正しく、滞りなく行われているかを管理する部署で、かつて鶴丸が居た審神者の狂乱を一度は見落とした役人である。厳密に言えば、その役人に同行していた部下のひとりだ。あの段階で事が露見していれば折れずに済んだ刀たちも居たのだ。
「詫び? 誰に何を詫びるんだい」
詫びられたところで取り返しがきかないものというのはある。そうは言っても、結果としてあの審神者の愚行を暴いたのも目の前の男だ。上司の判断がどうにも腑に落ちず、独断で調査を進め、ついに抜き打ちの立ち入り調査ですべてが白日の下に晒された。それでチャラと言ってしまうのはなんとも腹に据えかねるが、何もかもが今更だった。
「いや、その……。我々監査局の手落ちで、本当に申し訳ございませんでしたっ」
意を決したようにひと息に言い切った男は、勢いよく頭を下げ、ゴンっと大きな音を響かせた。
「うぐっ!」
卓にぶつけた額を押さえ、ひとり呻いている姿は間抜けとしか言い様がない。
「わ、大丈夫ですか?」
腰を浮かせた審神者を片手で制した男は「……はい、すみません。重ね重ね本当に」と涙目で再び鶴丸に頭を下げた。
「用件がそれだけなら俺はもういいな?」
「あ、あのっ、こちらの本丸で何かご不自由があればいつでもご連絡くださいっ」
立ち上がって障子に手を掛けた鶴丸に、男の言葉が追いすがる。その言いように歌仙が眉を顰めたのは当然と言えば当然だろう。よりによって本丸の主たる審神者を前に、ここの本丸もあのろくでもなかった本丸のように問題があるならば連絡しろと、男が言ったのはそういうことだ。
「僕らの主がどこぞの不埒者のような真似を……」
「そうですよ! 鶴丸さん!」
力強く言い切ったのは、審神者だった。見れば、うんうんと納得するように頷いている。その向かいの三日月も、まるで子や孫を見守るような笑みを浮かべて頷いていた。
「私だと遠慮があるかもですからね。せっかくの機会です。不満があるならどーんとこの方にぶつけとくといいですよ。改善できるよう私もがんばりますし」
「不満……」
「私たちが居たら言いにくいようなら席を外しますので、おふたりでじっくりと……」
「結構だ」
黙っていてはこの男と膝つき合わせ、二人きりで話す羽目になりそうだ。現状その必要はない。
彼女が審神者として十二分な働きをしているかといえば、その戦績は芳しいとはいえない。それでも、できる限りの努力をしていることはわかっている。
能天気な発言に眉根を寄せるようなことはあっても、何かを強要されることもないこの本丸での日々は、いたって平穏に流れていた。
「遠慮しなくていいんですよ」
重ねて言った審神者に苛立ちを感じて振り返ると、彼女はこちらを一心に見上げていた。それはまるで不満があって当然だという表情で、ますます募った苛立ちに思わず舌を打ちそうになる。
「
「へ? あ、はい、どうぞ」
空気を読まない三日月の発言に、一同が一瞬きょとんとする。それでも一番そういうものに慣れているらしい審神者は、すぐに気を取り直して返事をした。
「鶴丸はもうここには用はないな? 案内に借りていいだろうか」
三日月は鶴丸に並び立つと、「頼めるか?」と重ねて尋ねた。
「鶴丸さん。お願いしてもいいですか? 駄目なら私か歌仙さんが……」
「そのくらい構わんさ」
「じゃあお願いします。送るだけで大丈夫なので。三日月さん。大丈夫だとは思いますが、帰りがわからなくなったら他の人を適当に掴まえて訊いてくださいね」
「うむ、そうしよう」
この審神者は連れ戻ることすらも命じない。好意を向けている鶴丸に限った話ではない。基本的に誰に対しても彼女はこうだ。命令も頼み事も、いつだって最小限以下だ。なんでも己でするという姿勢は悪いことではないが、そのせいで皆が先回りをして、あれもしようかこれもしようかと尋ねているのを日に何回かは目にすることとなる。そこには彼女に何かをしてやりたいと思う刀剣たちの好意があり、それを向けられるだけの日頃からの審神者の言動がある。信頼関係といえば聞こえがいいが、鶴丸にはそれが少し面倒にも感じる。主従なのだから、主は始めからそれをしろと言うだけでいいのに。
だから敢えて、俺が連れて戻るかとは申し出なかった。審神者もそれを望んでもいない。
黙って障子をひいて、三日月に先に出るように促す。
「こっちだ」
「すまんな」
外縁を歩き始めた途端、三日月は「いい本丸だな」とまるで独り言のように囁いた。
「心地よい気に溢れている」
「監査が成績指導に来るような本丸だがな」
皮肉げに口にする。
政府の男は今日の用向きを「昨年度下半期の総合成績の振り返りと、四月五月の上期スタートに伴う実績について」と言っていた。
以前の本丸で耳にしたことがある。成績の悪い本丸には夏前に監査が入るのだ。審神者がより効率よく実績を出していけるように、担当職員と話し合い、必要に応じて、成績上位本丸の審神者や、引退したベテラン審神者が本丸運営の相談に乗ったり助言を行うというものだ。
かつての主も一度その指導にかり出されていた。
『出来損ないの審神者に補習してあげるようなものよ』
ああ、面倒くさい、と紅い唇が迷惑そうに言って、それからいつものようにねっとりと唇を塞いできた。
「鶴丸国永」
呼ばれて振り返ると、三日月が足を止めている。
「あれは確かに出来がよくない」
余所の本丸に主をあれ呼ばわり、しかも貶めるようなことを言われるのはいい気がしない。自身の中に生じた嫌悪で、鶴丸は初めてそれに気付いた。
そんな鶴丸の胸中など知らぬように「見習いの頃から、成績が悪くてな」と懐かしむような目で庭を見遣る。
「鍛刀もなかなか出来るようにならないし、俺たちが傷つくのが怖くて戦にも存分には出せない。手入れも、霊力が足りなくなって泣きながら札に頼ることも多かった」
「はっ、そんなんでよく審神者になれたもんだ」
吐き捨てるように言って再び歩き出すと、三日月も従うように歩き出す。
「はっはっは、確かになあ。だが、だから審神者になれた」
「は?」
「もしもあれが優れた霊力を持っていたなら、審神者になることは許されなかった」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だなあ」
訝しんで見つめても、三日月は「だが、俺はあれほど審神者の適性を持った審神者を他に知らん。……俺の主を除けば、だがな」と意味深な笑みを浮かべるだけだ。
「だから、あまりいじめてくれるな。あれでなかなかいい目を持っている」
「言われずとも知っている」
先日演練でのこと。他の本丸の鶴丸たちが二十振りほど集まり、迎えに来た審神者に対して、皆が皆、その審神者の刀剣であるような振る舞いをしたことがあった。
自身の刀剣男士だ。普通にしていればちゃんと見極める審神者ももう少し居たはずだが、当の刀剣側が己の気配や霊力を隠すように努めてしまうと、見分ける難易度は桁違いとなる。
それを主はなんなく見分けて見せ、かつて言葉を交わしたことがあるだけの鶴丸国永も簡単に見分けて声を掛けた。
だから今更そんなことを、例え見習いで世話になったことのある本丸の刀剣だとて、わざわざ教えて貰うまでもない。
「そうか、知っているか」
にんまりと笑った三日月は、さっさと鶴丸を追い越すとひとりで厠へと向かっていく。どうやら始めから案内する必要などなかったらしい。
監査官の訪問は、審神者の成績指導もあるようだが、不穏な発言の多かった鶴丸国永を経過観察しに来たというのもひとつの理由だったに違いない。
「食えないじじいだ」
ふんと鼻を鳴らした鶴丸は、客人の為に厨で腕を振るっている光忠のもとへと足を向けた。
◇ ◇ ◇
「釣書?」
「ああ、結構な束だった」
「それは……って、鶴さんっ! つまみ食いしないで」
揚げて冷ましているアスパラガスの天麩羅を囓ると、すかさず光忠が声を上げた。
「ん、うまいな。こりゃ天つゆより塩が合いそうだな」
「もお……食べるならこれだけにしてくれるかな」
そう言って、既に揚げてあった薩摩芋やアスパラガス、みょうがなどいくつかの天麩羅を菜箸で拾い上げて小皿に移し、厨の作業台の上にと置いた。端には塩も添えられて、なんだかんだ言って面倒見がいい光忠らしい。
「ありがとさん」
手近な丸椅子を引き寄せて腰掛ける。
今夜の夕食は天麩羅蕎麦だそうだ。天麩羅は揚げたてが一番おいしい。しかし、茹で置き出来ない蕎麦と違って、天麩羅なら冷めても充分おいしいからどうしたって先に作業することになる。後から酒の肴にと天麩羅だけを追加で乞う者もいるから、揚げるのはかなりの量だ。
衣液にくぐらせては油で揚げていく音は小気味よく、目を閉じると遠く雨音のようにも感じられた。
「で、なんだっけ。ああ、釣書」
「ああ。歌仙も主もまたかと言っていたが、多いのか?」
「気になる?」
愉しげな声音に「別に」と返しても、光忠はただ笑みを浮かべるばかりだ。
「主はああ見えて年中恋文が届いているよ」
ああ見えて、と言うあたり光忠にとっても意外ではあるのだろう。
心根は悪くない女だと思う。しかし、ことイロコイの対象になりうるかと言われれば首を傾げざるを得ない。色気とか艶とかそういうものは欠片もないし、容姿とて人並みだ。緊張感のない笑顔に肩の力が抜けることはあっても、あれを『女』として、ましてや『妻』になどと乞う男の気が知れない。
それとも刀剣男士と人間とでは、そういう感性も違うんだろうか。
「近侍をやればわかると思うよ。主宛に余所の本丸の審神者から文が来るし、あの子は割と内容を明け透けに言ってしまうからね」
「言わせるの間違いじゃないのか」
紫蘇の天麩羅を咀嚼すると、梅の酸味が口にひろがった。つぶし梅を挟んだ紫蘇を揚げたらしい。これは酒呑み勢が喜びそうだ。
「人聞きが悪いな。でも、まあそうだね。主宛の文に不穏なものが入っていないかは確認が必要だし、かといって勝手に中を見るわけにもいかないからね。……その紫蘇どうだった?」
「うまい。酒が欲しくなる」
「はは、さすがにそれは夕飯まで我慢して。その細く巻いてあるやつ、それは主の好物だよ」
光忠が指差したのは中指ほどの大きさに巻いて揚げてあるものだ。これも紫蘇が透け見えているが、何かを巻いているんだろうか。
摘まみ上げて囓ると、チーズだった。そういえば以前、餃子が出された時も、紫蘇とチーズが入れられた変わり餃子を嬉しそうに食べていた。こういう組み合わせの味自体、あの審神者の好むところなのだろう。
「蓼食う虫も好き好きってやつだな」
「えっ!? それおいしくない?」
「んあ? いやいや、すまん。さっきの恋文の話さ」
「ああ。……主が言うにはね、成績が悪いところがもてるんだろうって」
「どういう意味だ?」
「審神者同士の婚姻が奨励されているのは知ってる?」
「ああ、らしいな」
審神者のような霊力を持って生まれてくる者は希少だ。その為、政府はよりその確率を上げるべく審神者同士の婚姻を推奨する。女審神者が、刀剣男士との恋愛を黙認されているのもその辺りに起因するらしい。
一昔前ならば女はその家の長男を産めと望まれ、戦が多かった時には多くの子を産めと望まれた。現代の審神者は霊力のある子をと望まれる。時代がどう変わっても、女は社会に都合の良い子を産めと望まれるものらしい。
「若くて、それほど賢くなさそうで、自分よりも成績もよくない。そういうところがいいんじゃないですか? ってね。主は言ってたよ」
優秀すぎる嫁は男の矜持に障りがある。その点、あの娘ならばその心配もない。そう判断されての縁談話や恋文ということらしい。
「なるほどな」
「まあ主にはさ、そんな理由でなくちゃんとあの子自身を好いてくれる相手と幸せになって欲しいよね」
「……きみらは本当に主に甘いな」
戦の世を知る刀剣男士は、家の存続の為、戦の和議の為にと人質同様に差し出される女たちも多く見てきた。時代が移り変わっても、現世で安穏と暮らす者たちならばいざ知らず、こと審神者については時間遡行軍との戦の真っ只中だ。個の感情よりも優先される諸々があるのは仕方ないことなのではないか。
「鶴さんだって、そのうちそんな他人事みたいな顔、してられなくなると思うけどね……あ、尻尾」
眉を下げた光忠が油を泳ぐ海老を菜箸で摘まみ上げて軽く油をきる。
「はい、これでお終いだよ。あとは夕飯まで我慢して」
空になった皿には、尻尾のとれた小振りの海老天が一尾追加された。
◇ ◇ ◇
夕餉の時刻。ご馳走になるわけにはいかないと固辞する政府の職員の横で「俺は食べたい」と言い張ったのは三日月だった。「なんならお前は先に帰ってもいいぞ」と言われて頬を引き攣らせた男に「よかったらさっきのカウンセリングの予定、食べながら決めちゃいましょう」と審神者が畳みかけ、結局食べて行くこととなった。
日が落ちてからは審神者の寝起きする棟からは出ない主が、皆と夕餉を共にすることは比較的少ない。節句や何かの時でもない普段の日ともなれば尚更だ。そのせいもあってか、いつもよりはそわそわとした空気が広間に満ちていた。
審神者の両隣には三日月と職員が並び、職員の隣には歌仙が座した。そんな一画からは離れて座りたかったのだが、監査の目的を正しく理解していた歌仙がそれを許すはずもなく、鶴丸は三日月の隣に座しての夕食となった。
聞こえてくる会話で、当面は主が定期的に政府の施設へと通い、ベテランの審神者引退者による指導を受けるということで話がまとまったらしい。
鶴丸が席をはずしてからそれなりに打ち解けたのか、職員の男も審神者に好意的な物言いで「
審神者はといえばくるくると表情を変えてはしきりに三日月に話しかけ、見習いとして過ごした本丸の近況などに耳を傾けていた。その様子はまさに兄を慕う妹のようなそれで、彼女が三日月に寄せる信頼のほどが改めて窺える光景でもあった。
帰りしな、庭の転送門で二人を見送る時、しょんぼりとし始めた審神者を労るように三日月が彼女の頭を大きな手で撫でた。最初はゆっくりと、徐々にその髪を乱してかき混ぜるようにし始めると審神者は愉しげな声で抗議していた。
先月の演練でも見た光景だ。あれは余所の本丸の鶴丸だったが、やはり彼女はくすぐったそうに楽しげに目を細めていた。
自分に一番懐いていた野良猫の子が、案外誰にでも懐くのを改めて見せつけられた心地だ。
だから、ふたりを見送った後、しょんぼりとした顔の審神者につい口が滑った。
「きみは誰にでも懐くんだなァ」
滑り出た言葉にハッとする。これではまるで自分以外の刀に懐いているのが面白くないと思われかねない。しかし、審神者はそんな鶴丸の心情には少しも気付くこともなく、二人が消えていった門を見つめたまま呟いた。
「私なんかを気遣ってくれる人は、大切ですからね」
それはいつか桜の下で見た表情と同じだった。
あの時、この娘はなんと言ったか。
記憶を手繰りかけた鶴丸の袖がふいに引かれる。
「蛍! 蛍ですよ、鶴丸さん!」
白い袖をぎゅうと掴んだまま無邪気に目を輝かせて指差す先では、夕闇の中、淡い黄緑色の光が揺蕩っている。
「好きな人と一緒に初蛍を見られるっていいですね」
にぱっと音まで聞こえてきそうな笑みを向けられて、ぷいと視線を逸らす。
「誰と見ようが蛍は蛍だ」
「それは、そうですね」
顔を逸らしたままだった鶴丸は、瞳の中に揺れたものに気付くこともない。それも、瞬きひとつでまた奥深くに仕舞い込まれてしまった。
「それでも、一緒に見てくれて、ありがとうございます」
礼を述べる審神者の声は、いつも通り能天気な色を孕んでいた。