皐月の鞘鳴り

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「しょうぶ、湯?」
「はい、あの勝ち負けの勝負でなくて、その、あやめとかお花の咲く……」
「ああ、菖蒲か。細長い草で紫の花が咲く」

 隣に腰掛ける五虎退は、得たりとばかりに顔を綻ばせて「そうです、その菖蒲です」と頷いた。

「今日は端午の節句なので、菖蒲の葉を束ねて浮かべたお風呂に入って、夜にはご馳走が並ぶんだそうです」
「なるほど、柚子湯みたいなもんか。そういや今日は光坊が厨当番だと張り切ってたな」
「静かに。始まるよ」

 階段状に連なる観覧席。最前列であるひとつ下の段に座る歌仙が振り返り、きちんと見ているようにと窘める。その初期刀の隣では、主である女が膝の上に開いた冊子に何事か熱心に書き付けていた。
 今日は、月に二回の演練だ。本丸の業務において参加必須ではないが、この本丸はほぼ毎回必ず参加している。主が選んだ五振りに加え参加したい者たちでくじ引きをして十振りを上限として参加男士を決めるのだが、鶴丸が参加するのは今回が初めてのことだった。

 鶴丸が今の主へと譲渡されたのは昨秋のこと。主従契約を結ばないことを条件に下げ渡されることを受け入れたが、そこからおよそ半年。先月薄紅の花天井の下で名を預け名目上主従となった。
 審神者自身に顕現されるか主従契約をしていないと、本丸の外でその刀剣の顕現を支えるには審神者に多大な負担がかかる為、男士の行動には制限がかかる。出陣回数も限られたし、錬度の上がりも悪かった。
 主従契約をしたことで、審神者を伴わずとも非番の日には本丸を出て万屋界隈に足を運ぶことが出来るようになったし、錬度の上がりがよくなったような気もする。手入れについても半分ほどの時間で済むようになった筈と聞いたが、それについては人間に触られることを好まない鶴丸の為に未だ札を用いての手入ればかりで、効率よくなったのかは実感はない。
 審神者は鶴丸が好きだと言う。それが男女のイロコイなのか、おぼこい彼女に突き詰めて訊いてみるほどの興味もないが、審神者は鶴丸に向ける好意を隠すことなく、本丸で行き会えば子犬のように駆けてきて抱きつこうとする。そのたびに躱されて、廊下に転がったり、近くの居合わせた男士に抱き留められることになるのだが。
 そんな彼女だから、契約を交わせば閨に呼びつけられることはないまでも近侍くらいは言いつけられるだろうと覚悟していた。男士が己の名を預けて審神者に下れば、相手はその刀剣男士を言霊である程度縛ることが出来る。実際、以前の主はそれをいいことに、鶴丸を筆頭に男士たちと閨事に耽り、ついには政府に摘発されて本丸は解体となったのだ。けれど、今の審神者は主従となってからも変わらず好意を顕してはくるが『自発的にやりたい者がやる』という近侍当番の原則を違えることもなく、その他の出陣や御役目も平等に順番に回してくる。頑なに主従契約を拒んでいたことが馬鹿らしくなるほどに今まで通り、いや、こうして演練にも来られるようになって、愉しみが増えた。かつての主はしまいには気に入りの刀剣を庭にすら出さなくなっていたから、演練に参加すること自体初めての鶴丸は、今日のこの日を密かに心待ちにしていたのだ。

 演練では、双方五振りの男士が各々刀装兵小隊を率いての実践形式で行われるものと、刀装兵が参戦しない刀剣男士たちだけの手合せ形式のものとがある。手合せ形式のものは一対一でも一対五でも双方の審神者の合意さえあれば何振りであろうと認められるが、大抵は同数同士での対峙となる。
 目の前で開始したそれは、五対五の手合せ形式のものだ。
 片や短刀ばかりが五振りの部隊。対する相手は、太刀一振り、打刀二振り、短刀二振りの混合部隊だ。
 短刀ばかりの部隊の方は太刀相手にもうまく斬り込み、他の援護を抑えながら効率よく動き、実戦経験の豊富さを感じさせる戦いぶりだった。
 短刀ばかり。それがかつての本丸を連想させ、鶴丸自身の内に重く凝ったままの冷たい鉛のような記憶をざらりと撫で上げる。
 錬度が上がり、傷つき、疲弊するのは短刀ばかり。主を窘めるようなことさえ口にしなければ手入れだって行っていた。それにしても、特定の刀剣ばかりで本丸の業務をまわすには限界がある。そんな仲間たちを横目に主の閨に侍り、機嫌を取るしか出来なかった日々は、墓の中で腐敗していく骸と共に過ごした時よりも更に黒く昏い淵にずぶずぶと引きずり込まれ、息も出来ずに沈んでいくような絶望に満たされていた。
 肺を圧迫され、薄い酸素をうまく取り込めないような心地で目の前の戦いにかつての仲間達を重ね見ていたその時。

「うぇ、今の凄い!」

 斜め下から声が上がった。視線を落とせば、瞠った目を輝かせた主がすぐにせっせと何事かを冊子に書き付けている。

「あの、厚さんがやったの、あれフェイク……陽動でしょ?」

 手を止めることなく尋ねると「だろうね。あれは最初から背後の乱藤四郎が間合いを計っていた」と戦闘に視線を投げたままの初期刀は鷹揚に頷いている。

「こうして客観的に眺めていればそれもわかるけれど、当事者だと死角に入ってやられればいざ斬り込んでこられるまで気付くのは難しいだろうね」
「気配を消すのが巧くなくても?」
「そうだねえ。当然小柄で気配を消すのが巧い方が成功率は高い。但し、機動力が高ければ可能なんじゃないかな」
「機動力……」

 ふんふんと頷きながら、その手は休みなく筆を走らせている。

「そこまで! 勝負あり! 勝者、赤!」

 審判の声に、観覧席からは歓声が上がる。同時に双方男士の負った傷が速やかに回復していく。演練ではこの場自体に特殊な術式がかけられているとかで、勝負がつけばすぐに傷が回復する仕様だ。審神者の手入れと違い疲労までぬぐい去られることはなかったが、一日の演練で一つの本丸が戦いに参加するのは多くても五回。大怪我さえなければ支障はない。
 たった今まで戦闘を繰り広げていた二つの部隊は、それぞれが談笑したり悔しそうに顔をしかめたりしながら主の元へと戻っていく。入れ替わるように、次の対戦者達が会場の中央へと集まっていた。その間も鶴丸の審神者は熱心に冊子へと書き込みを続ける。あまりに真剣に書き続けるものだから、気になって少しだけ身を乗り出してその手元を覗き込むと、字と呼んでいいのかわからないような走り書きがびっしりと並んでいた。

「おいおい、きみ、そんなんで後から見返して読めるのかい」

 ふぅと息を吐いて手を止めた彼女に声を掛けると、審神者は「これですか?」と振り返って見上げてくる。

「実は時々読めません。一応帰ってからすぐに清書するので、断片的に読めなくても今日のことを覚えている内はまあなんとかなりますけどね」

 へにゃりといつも通りの緊張感のない笑みを浮かべた。
 この本丸の業務戦績は、全体の中でも中の下だ。原因は審神者の根本的な霊力の兼ね合いで鍛刀を何度も重ねられない為、まだ充分に刀剣数が揃っていないこと。それに連動して出陣数が規定回数を下回っているせいだ。勝率はそこそこだから采配はそこまで悪くないはずなのだが、こと今日の演練に限っていえばその采配も振るわず裏目に出てばかりで、朝から三戦したがすべて負け戦となった。

「あ、交代でお昼食べて来ましょう。引換券回しますね」

 審神者がごそごそと巫女装束の袂を探る。あれ? あれ? と首を傾げていると、こっちじゃないのかい、と初期刀が審神者の脇に置かれた巾着を示した。

「引換券ってのはなんだい」

 隣に座る五虎退に尋ねると「券を決まった場所に持って行くと、お弁当とかおにぎりとかお昼ご飯をくれるんです。昼になってから行くと混んでしまうので、いつも交代で早めに行くようにしているんですよ」と言いながら膝の上で声を上げた小虎の一匹の頭を撫でた。

「へえ。……ああ、あそこの炊き出し所がそうか」

 微かな出汁の香りに誘われて視線を巡らせれば、まだ昼前だが既に多少列が出来ている場所がある。その後ろでは湯気があがり、職員たちが大鍋をかき混ぜたり、握り飯を作ったりしている。

「どうせもうすぐ昼休みですし、うちの本丸は午後の最後まではもう何もないので各自そのまま散策してきてもいいですよ。あ、もちろん会場内からは出ないでくださいね」
「あんたはまだ行かないのか」

 山姥切が尋ねると、審神者はうんうんと頷いた。

「私はこの次の次のを見てからにします。午後のお相手、そこの本丸なので」
「なら全員で見ていた方がいいんじゃないのか」

 敵を知るのは戦う上で有利になる。そう考えて鶴丸が尋ねると、いえ、と審神者は首を振った。

「対戦相手の戦いは見ないでやってもらうって決めているんです」

 行きましょうと袖をひいて立ち上がった五虎退に促され、鶴丸も腰を上げる。
 対戦相手の演練を見てはいけない。そんな決まりはあっただろうかと、演練参加の心得を読んだ記憶をたぐり寄せる。
 歌仙と山姥切を除いて、券を受け取った者たちが次々と立ち上がって炊き出し所へと足を向けるのに倣って、鶴丸もそちらへと歩を進めた。肩越しに振り返ると、審神者は歌仙と何事かを話しながら、新たに始まった戦闘へと視線を向け、先ほどと同じように何事かを書き付けていた。

「その……、主様が」
「ん?」
「主様が決めたんです。僕たちは対戦相手の戦いは見ないで対戦するって」
「それじゃあ策を練ることも出来ないじゃないか。……ああ、それは主と初期刀の御役目ってことかい?」
「それもあると思うんですけど……演練は苦手を克服したり新しい戦術を試す練習なので、負けてもいいって。だから、本当の戦の時みたいに、いきなり全然知らない相手と戦うのが一番いいって」
「へえ……」

 なるほど。あんなに熱心に敵を研究していそうなのに、全く結果が伴わないと思ったが演練は訓練の一貫と割りきっているらしい。能天気な笑みを浮かべてはいるが、何も考えていないということでもないのだろう。

「ってことは、その練習とやらが必要な男士が選ばれる確率が高いってことか」
「そう、なんでしょうか。……僕は痛いのも、敵さんが痛いのも苦手なので。主様は『だったら痛いのがその場ですぐになおる演練でいっぱい練習すればいいですよ』って言ってくれました。だからここで練習を積んで、本番でもお役に立てるようにがんばろうと思うんです。そうしたら、誉すたんぷも頂けるかなって」

 『誉すたんぷ』とは今月から導入されたこの本丸の独自の取り決めだ。戦闘で誉れをとる以外にも、当番を頑張るもの、手合せに精を出すもの、勝率が上がったものなど審神者の判断で台紙に押印をする。すたんぷ台紙がいっぱいになったら、審神者が予算の範囲内で、かつ初期刀の了承を得られる範囲で、その刀剣男士の願いをひとつ叶えてやるというものだ。

『競って頑張って欲しいということではなくて、日々の楽しみの足しになればいいかなって思いまして』

 配られた台紙は、全員がひとつ既にはんこが押されており、彼女は本丸に来てくれたことに対する感謝だと笑っていた。今のところ鶴丸の台紙はそのはんこひとつきりだが、長谷部などは早くも三つ集めたと台紙を首から下げて歩いていたから、そういうものにやりがいを見いだせる男士には確かに楽しみのひとつになるのだろう。

「そうかい。俺も皆に比べれば錬度はまだまだだからなァ。ま、頑張れるように、まずは腹ごしらえだな」

 五虎退の腕の中の小虎の顎をくすぐりながら言えば、はい、と快活な声が返った。

◇   ◇   ◇

 昼餉を終えた昼休みのこと。そのまま散策してきてもいいとの審神者の言に、鶴丸はひとり気ままに歩いていた。
 会場は政府の用意した時空の狭間、ある種の仮想空間だと言うが、空は青くまさしく五月晴れ。陽射しは少し前の眠りを誘う穏やかさを抜けだし、確実に夏に向かっているのだと告げるが、時折吹き抜ける風はただ心地よく、作り物の世界とは到底思えない。
 演練を行う演練場は会場内に大小合わせて五カ所。その周囲には露店が点在している。日頃万屋で見かけるような品や政府お墨付きの札を売っている店もあれば、焼きそばやかき氷、たこ焼き屋なども軒を連ね、ちょっとした縁日のように賑わっていた。少し離れた場所には赤い毛氈をかけた長椅子に大きな傘を差し掛けて陽除けをしている茶店もあり、どこかの本丸の三日月と石切丸とが団子片手にゆったりと寛いでいた。
 そんな店が連なる辺りの更に奥。会場の片隅に、やけに白い一角があり目に留まる。白と金とが陽光弾くそこには鶴丸国永ばかりがざっと二十人ほど集まっている。その中の一人がこちらの視線に気付き「おーい」と手招いて来た。

「なんの騒ぎだい」

 自分とそっくりそのまま同じ容姿の『鶴丸国永』に出会ったのは、何も初めてのことではない。本丸が解体され政府内の施設で寝起きしていた頃には、同じ境遇やら政府所属やらの鶴丸国永と言葉を交わしたこともある。しかし、これほどまとまった人数に出くわしたことはなかった。

「これだけ居れば充分じゃないか?」
「なんだ、どういうことだい」

 顔を見合わせて頷き合う様を見れば何かしらの目的を持って呼ばれたのはわかるし、この表情は何かを企んでいるというのもわかる。しかし、得てして企みは密やかに仕込みをするもので、こんなに悪目立ちしてはもうそれだけでぶち壊しではないのか。

「なあに、すぐにわかるさ」

 己を呼び寄せた分霊は、訳知り顔で頷いた。
 重ねて問おうと口を開きかけた背後で、「鶴丸! 昼飯が終わったらすぐに戻れと言ったじゃないか」と若い男の声が上がった。振り返れば藤色の袴を身につけた審神者が不機嫌な眼差しで腕を組んでいる。
 いったいどの分霊の主なのかと思いながら一同を見渡すと、皆が揃って目を輝かせ、僅かばかり口の端を引き上げた。

「いやあ、すまんすまん」
「主、探しに来てくれたのか」
「同胞たちと話し込んでしまってな。悪かった」

 すかさず三人の鶴丸が口を開いた。それに倣うように、我も我もと皆が口々に己の主に対するような言動と共に男に視線を向けた。

「は? え? お、おい?」

 審神者はといえば腕組みをとき、目を白黒させながらそれぞれの鶴丸の顔に視線を走らせた。

「どうした?」
「おいおい、まさかきみの鶴丸が俺だとわからないんじゃないだろうな」
「何を言う。俺の主だぞ」

 なるほど。そういう遊びかと合点がいったが、かといって加わる気もしない。しかし、男が自身の刀剣を違わず見つけるかには興味があった。
 それなりの霊力を持った者でも、こうして同じ分霊ばかりが集まった上で、刀剣男士側が敢えて己の気を抑え込んで隠してしまえば咄嗟に見分けるのは難しいことだろう。目印になるようなものでも身につけているとか、特定の場所を負傷しているとか、そんなものも今ここに居る鶴丸たちにはなさそうだ。
 そのうえ、審神者側にすれば自身の刀剣を間違えるなど恥ずかしい真似が出来るはずもない。その考えがより重圧となってのし掛かり、判断を鈍らせる。
 存外意地の悪い遊びだ。

「う、あ……おいっ、悪ふざけはよせ! 皆が待っているんだから早く来い!」

 結局男は誰かひとりを選ぶでなく、さっさと背を向けて歩き出した。

「これだから俺の主は」

 仕方なさそうに肩を竦めて呟いた一振りが小走りでその背を追って「すまんすまん」と審神者の顔を覗きこむのを見送る。
 そんなことを繰り返すこと三回。当てて見せる審神者はいない。やはりなかなかに難易度の高い遊戯らしい。

「きみらはいつもこんなことをしてるのか」
「いや、初めてだ。こんな余興は二番煎じじゃ面白みに欠けるからな」

 と、そこに。

「あ、鶴丸さん!」

 よく知る女の声が響いた。
 分霊達は、そら、次の獲物が来たぞと言わんばかりに声の方に向き直る。
 袴の裾をさばきながら、とてとてと音がしそうな様で彼女がいつものように駆けてくる。抱きつかんばかりの勢いに、何人かの鶴丸は受け止めようと腕を広げた。彼女の鶴丸がそんなことをするはずもない。この時点で、その何人かは選択肢から外れただろう。
 さて、彼女はどうするのか。よほど霊力が高くなければ、いやそれをもってしてもこれは難しい。ましてや、努力こそ認めるがこの審神者の霊力は凡庸の範囲だ。己が一振りを見分けろなどとは、到底無理に違いない。そう考えて、他人事のように成り行きを見守っていると、審神者は少しも迷うことなくこちら目がけて駆けてくる。まさかわかるはずもないと高を括っていたせいで少しばかり反応は遅れたものの、抱きつかれる寸前にぎりぎり身を躱すと、近くにいた別の鶴丸が彼女の体を抱き留めた。

「迎えに来させてしまうとは、すまなかったな、主」

 抱き留めた鶴丸が申し訳なさそうに眉を寄せると、その顔を見上げた彼女は小首を傾げ、「いえ、私の鶴丸さんはこっちです」と少しの迷いもなく袖を引いてくる。

「ですよね、鶴丸さん」

 躊躇いのない物言いに白い一団の空気がざわりと揺れた。そうして、答え合わせを求めるように分霊たちの視線がこちらに向けられているのを痛いほどに感じた。

「……正解だ」

 いったいどうしてわかったのか。狐に化かされたような気分で、他の鶴丸に抱き留められたままの審神者に視線を落とす。周囲からは、おぉとか凄いとか感嘆の声があがった。当然だと言わんばかりの笑みを浮かべる審神者にいい気になるなと言ってやりたい気持ちにもなるが、彼女へと向けられる称賛の眼差しが少しだけ、本当にほんの少しだけ誇らしくもあった。

「すごいな。どうやって見分けたんだい?」

 彼女を抱き留めた鶴丸が尋ねると、「どうやって」と口の中で呟いた審神者は小さく唸り、「すみません、わかりません」と困ったようにその鶴丸を見上げる。

「当てずっぽうかい?」
「まさか。ちゃんと……、あ……。その節はありがとうございました。助かりました」

 審神者は抱き留めたままだった分霊の腕の中から一歩退くと、丁寧に頭を下げた。これに驚いたのは彼女の鶴丸だ。余所の本丸の鶴丸に主が頭を下げている状況の意味がわからない。

「なんの礼だい、主」

 呼びかけると、審神者は恥ずかしそうに自身の髪に触れながら俯きがちに「前に迷子になったところを助けて頂きまして」と口にした。

「は? 迷子?」
「ほぉ……きみ、凄いな。自分の刀剣男士以外まで見分けがつくとは本物だ。それで? あの時の捜し物は見つかったのかい?」
「えと、残念ながら見つかりませんでした」

 よくわからないが、捜し物をしているうちに迷子になり、この分霊に助けられたのだろう。

「しかし、あの時はこの世の終わりみたいな顔で歩いていたから、どこぞから迷い出た幽鬼か何かと思ったぜ?」
「あの時っていったいいつの話をしているんだい」

 いつでも能天気な笑みを浮かべるこの女が、そんな顔で歩いている様など想像がつかない。思わず口を挟むと、「なあに、去年のことさ。政府の施設で……あれは新人研修の頃だろう?」と分霊が彼女の顔を覗きこんだ。

「そう、ですね。へへ、迷子で不安になるとかホントお恥ずかしい」
「いやいや、それにしても驚いた。きみは目がいいんだなあ」

 余所の鶴丸に頭を撫でられて、審神者はくすぐったそうにへにゃりと笑う。あんな風にまっすぐ誉めてやるなど自分ならばけしてやらないだろう。それを自身と同じ姿で体現されて、なんとも複雑な気分を噛みしめる。

「あ、すみません。うちのみんなが待ってるんで、失礼しますね」

 ふと我に返ったように、審神者はぺこりと一同に頭を下げた。

「休憩切り上げちゃうみたいですみません、鶴丸さん。ちょっと作戦会議をしましょう」

 戻ろうと促す審神者と共に足を踏み出しかけた、その時。

「いい主だな。違わず己を見つけ出してくれるなんざ、刀冥利に尽きるってもんだ」

 分霊の中から上がった声に、主にも台紙があったなら誉れすたんぷとやらのひとつでも押してやるところだろうかと過ぎり、大概毒されているような気がしてひっそりと苦笑を浮かべた。

◇   ◇   ◇

 作戦会議を経ての最後の演練も、惨憺たるものだった。新しく思いついたという連携を聞かされた時には興味深いと思ったが、机上と実践では大違い。連携そのものが機能せず、一振り、また一振りと沈み、最後には一対五になるという有様だった。
 もっとも、五虎退にこの本丸での演練の意味を聞かされていたから、結果はそう憂いてもいない。これを生かして、また審神者はあれこれと策を練るに違いないのだ。
 菖蒲の束がそこここに浮かぶ大浴場を後にして、鶴丸は夕餉の準備が出来ている大広間へと向かう。己の肢体からは、未だ菖蒲のまろい香りがほのかに立ち上るような気がした。
 この本丸は、審神者発案で年中行事を祝うことが多い。鶴丸がこの本丸に来て最初に経験した行事が冬至の柚子湯だった。以前の本丸にも大きく快適な大浴場はあったし、審神者の居住スペースにも大人二人が足を伸ばして入るにも充分な広さはあった。しかし、いずれにも入浴剤が入れられることはあっても、柚子や菖蒲が浮かんでいるのを見たことはなかった。
 柑橘の香りに包まれて浸かる湯船も気持ちよかったが、ささやかに甘く香る菖蒲湯もまた心地よく、演練での疲れなど綺麗さっぱり溶けて流れていくようだった。菖蒲を頭に鉢巻きのように巻くのが作法だと嘘だか本当だかわからないようなことを言い合って、実践し、笑い合う。そんな穏やかな日常を過ごしていると、ふとした折りに思うのだ。なぜあの本丸ではこれが叶わなかったのか、と。
 審神者が男だったらよかったのだろうか。そうしたら、一緒に風呂に入って一日の疲れを労う合うようなことが出来ただろうか。
 否。政府の施設に同じような境遇で保護されていた刀剣の中には、男の審神者の本丸もあった。男士に暴力を振るう者や、酷使したもの、それから同じように閨に籠もった者もいたと聞いた。
 男も女も関係なく、審神者がほんの少しでも踏み外せば、この日常はたやすく喪われる。そう考えると、この日々も思っている以上に薄氷の上を歩くようなものなのかもしれない。
 せっかく風呂でさっぱりとしてきたはずなのに、暗澹たる思いに囚われそうで胸に凝りかけた重さを逃がすように息を吐いた。

「あ、鶴丸さん。今日はお疲れ様でした」

 障子をひくと、広間では既に夕餉の膳が並べられ、演練も当番もなかった者は忙しく動いて配膳を手伝っている。壁沿いにぐるりと設えられた席の下座に居た主は、鶴丸をみとめ、ぱっとその目を輝かせた。

「なんだ、きみの席はあちらじゃないのか」

 食事の席は決まっておらず、各々が好きに座る。それでも主たる審神者は大抵部屋の一番奥、上座に座ることが多いのだが、今日は違ったらしい。

「はい。お風呂もまだなので、ぱっと食べて出られるようにここがいいかなって」

 確かに審神者は変わらず巫女装束を身につけている。彼女はまだあの菖蒲湯に入ってさっぱりしていないのかと思うと少しばかり気の毒な心地になる。だからつい、いつもなら避ける隣の席に、促されるまま座してしまった。

「菖蒲湯、どうでしたか」
「ああ、あれはいいな。柚子湯もよかったが、菖蒲の香りもいいもんだ」
「よかった」
「そう思うんなら大将も菖蒲湯に浸かってくれ」

 盆に味噌汁を載せて配りに来た薬研が主の前で膝を突くと、ひとつずつ丁寧に味噌汁の椀を配っていく。

「んー、私はシャワーで済ませるからいいや。こっちのお風呂、湯船にゆっくりって感じでもないし」
「なんだ、きみは菖蒲湯に入らないのか。せっかくなのにもったいない」
「そうだぜ、大将。あれは血の巡りをよくするし、肩の重さも解消する。あっちじゃ狭いだろうから、大浴場を少しの間人払いをしてその間にでも入ったらどうだ」
「そこまではいいよ。そんなに疲れてないし」

 顔の前で手を振る彼女を前に、そう答えるのは知っていたと言わんばかりに鼻を鳴らした薬研は、次に配膳するものを取りに厨へと戻っていった。

「きみは風呂嫌いか?」
「は? いえいえ、そんなことはないですけど。冬とか冷えちゃったなって時に湯船に浸かるくらいで、普段はシャワーで済ませる方がラクなので。それにほら、端午の節句は男の子の節句ですし、皆さんが入ってくださればそれで……」

 確かに端午の節句は男子の成長を祝う節句だ。
 冬至に始まり、くりすます、大晦日の年越し、お正月、ばれんたいんにほわいとでーとほぼ毎月の頻度でこの本丸で行われた行事の数々。けれどもそういえばもうひとつ行事があったのではないか。

「なんたる不覚っ」

 柏餅を配りに来た光忠が、声を上げて、盆を取り落としそうな勢いで膝をつき、頭を抱えていた。

「み、光忠さん? どうかしましたか?」

 何事かと腰を浮かしかけた彼女が、おろおろと慌てたように声をかけた。

「桃の節句! 祝わなかったよね!?」
「ふぇ? ああ、はい。そうですね。でもほら、三月はほわいとでーをやったから」

 こてんと首を傾げた審神者に、光忠はにじり寄ってその手を取った。

「そういうものじゃないでしょう、主! 端午の節句が男子の健やかな成長を願う行事だって言うなら、桃の節句は女の子のそれを願うものなんだから」
「うーん、そうは言ってもこの本丸に女は私だけですし、もう充分健やかに育ちきりましたし。その為だけにわざわざお雛様を飾ってお祝いするっていうのもなんというか……」

 面倒、と。口の中でごにょごにょと呟かれた言葉は、隣に座る鶴丸の耳には辛うじて届いた。

「それにほら、お雛様を飾っても特段お嫁に行く予定もないですし」
「嫁? そりゃ桃の節句とどういう関係があるんだい」

 節句とは大抵が節目節目に子の成長を喜び、その先の健やかな日々を願う行事だ。確かに女の成長の先には嫁ぐことも含まれてはくるだろうが、桃の節句にそんなものは含まれていただろうか。
 遠い記憶をたぐり寄せる鶴丸の隣で、審神者は「飾ったお雛様を早く仕舞わないと嫁に行き遅れるっていう言い伝え? みたいのがあるんですよ」と説明してくれた。

「嫁ねぇ」
「ああ、でもほら。そんなの祝わなくたって、鶴丸さんがお嫁に貰ってくれたら万事解決じゃないですか」
「あるわけないだろう」

 すげなく言えば、彼女はすかさず「残念」と、さして残念でもなさそうに声を上げた。
「でも……そうですねぇ。来年はお雛様を飾るまではしなくても、ちらし寿司とか、あ、みんなで手巻き寿司パーティとかするのも楽しそうですね」
「もぉ……お雛様も飾るし、桃の花だって飾るよ。来年はちゃんと盛大にやるからね」
「ふふ。はい。じゃあ楽しみにしています。三月のお楽しみが増えますね」

 来年。この本丸は来年も変わらずこうして皆で笑い合っているんだろうか。先ほど考えかけた薄氷の上にあるこの日々は、それまで続いているんだろうか。

「ああ、鶴丸さん。今日はまだでした」
「なんだい」
「好きですよ。また今日から百年、大好きです」

 日課のような告白を、氷など始めからないのだと言わんばかりのうららかな陽射しのような笑みで、彼女は今日も差し出してくる。

「相変わらず、きみの『好き』は軽いなァ」

 いつもの軽口を舌の上で転がすと、審神者は「塵も積もればなんとやらって言うじゃないですか」と同じく軽やかに口にして悪戯げに目を細めた。

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