カノジョの婚活 6

「俺と結婚しようじゃないか」

 あいつはどんな言葉で彼女にそれを乞うたのか。
 そんなことを思いながら口にした言葉に目を丸くした女はデザートスプーンを取り落とした。柔らかな絨毯の上に落ちたそれは音を立てることもなく、けれども目端の利く店員はすぐに代わりのものを置くと、跪いて落ちたスプーンを拾っていった。小さく会釈してそれを見送った彼女は戸惑ったように動きを止めたままだ。
 
「食べないと溶けるぜ?」

 はくりと何かを紡ぎかけた口は閉ざされて、おずおずと新たなスプーンを手にする。そのまま乳白色のソルベをすくい上げたので、手首を捕まえる。引き寄せて彼女が口にしかけたソルベを横取りしてやれば、頬も耳もみるみる赤く色づいた。
 散々躰を重ねてきた相手を前に、今更過ぎる反応が可笑しい。指摘して揶揄ってもよかったが、このタイミングでのそれは大人げない気がして「ん。うまいな」と笑みを向けるに留めた。

「ですね」

 彼女は再びソルベをすくい上げた。上目遣いにこちらを警戒しているのが透け見えてつい吹き出してしまう。

「そんな顔しなくてももうやらないさ。食べきれないというなら手伝うのも吝かではないがな」
「だいじょぶです……じゃなくて! 結婚って、冗談、ですよね?」
「さすがに冗談でプロポーズはしないな」

 気が向いた時に呼び出して、セックスをする。それ以上でもそれ以下でもない。
 彼女はいつもどこか素っ気なくて、拗ねるでなく、媚びるでなく、ベッドの上でも外でも何かを強請るということもなかった。寝るだけの関係を男女の色恋に擬態することすらなく、関係を切る時の潔さもよかった。昨日あんなタイミングで再会することがなければ、連絡してくることもきっとなかっただろう。そんなこれまでの振る舞いすべてがラクでよかったと言ったらさすがに怒るだろうか。
 なにより、深く訊くこともなかった涙の理由に──顔も見ずにヤることを望んだ姿に自分と同類のような気がしたなどと言ったならどんな顔をするだろうか。
 窺うように見つめると、うろうろと視線を彷徨わせた後、深呼吸をひとつしてこちらにまっすぐ視線を向けてきた。

「……それは偽装的な?」
「はは、誰になにを偽装するんだい」
「ええと、じゃあ契約結婚、とか?」

 どこまでも疑うことをやめない彼女は手を止めたままだ。
 手を伸ばしスプーンを取りあげ、ソルベの最後のひと口を運んでやる。困ったように眉を寄せるクセに、結局素直に唇を開いた。
 そんなだから都合よく使われるんだ、などという心の声はとうになくなったはずの良心をちくりと刺してくるが今更気に留めるほどのものでもない。
 
「結婚なんてそもそも紙切れで結ぶ契約だろう? そして、きみはそれをしたい」

 たかが紙切れだ。敢えてそんな言葉を選んでみても、その紙切れが己から取りあげてしまうものははかりしれない。

「紙切れ……」
「きみが結婚に対して愛情だの伴侶だのと真っ先に言うならどうかとも迷ったんだがな。特段夢があるでなく、お見合いで押しつけられるよりマシって程度の話のようだし、そんな理由なら俺でも務まりそうだ」
「はあ」
「条件は悪くないと思うんだがなァ。あぁ、釣書でも提出するか?」

 肩書きや条件はそこらの男にひけは取らない。取らないどころか引く手あまただ。でもその『引く手』から選べばどうしたってしがらみが付きまとう。そもそも結婚自体しなければならないものでもなかったが、彼女が俺がそうすることを望んでいるならば手近な相手で手を打ってしまえばいい。一度して結婚生活が破綻したら、肩をすくめて言ってみせてやればいいのだ。『結婚なんてもうこりごりだ』と。

「鶴さんこそ、よく知りもしない相手にプロポーズしていいんですか?」 
「まあ家族構成だの勤め先だのは知らんが、人となりはそれなりにわかっているつもりだぜ」
「……寝ただけで?」

 硬く低い声に不快さが滲む。この女のこんなあからさまな感情を目にするのは久しぶりだった。いや、昨日の号泣は別として、だが。

「確かに、寝ただけだなァ。だが……」
 
 初めて会った夜、感情が明け透けだと思ったのをふと思い出す。あの夜、熱っぽい目を向けてくる姿に、面倒そうな女だと判じたのだ。しかし、その判断は間違っていたようで彼女はどの女よりもセフレというものを理解し、それ以上の関係を求めてくることはなかった。だからこそ、例えば『妻』になったとしても『夫』となる男に役割以上の何かを期待しないのではないかと思った。

「体の相性は重要だろう? それに、きみが俺の部屋を勝手に探索してまわるような非常識な行動をしないってコトも知っているし、まっとうに仕事をしていることも知っている。休んだって許されそうな日にも出勤するくらい真面目なこともな」

 視線を逸らすことなく、見極めようとする眼差しを受け止める。目は口ほどにものを言うとはいえ、実際問題いくら見つめたところで言葉にしなければ相手に真意など届かない。
 内にある打算も妥協も何もかも、知られることも知らせる必要もないものだ。

「さっききみが上げていた条件はすべてクリアしている。きみは結婚がしたい。俺も結婚するならきみがいい。他に何か問題があるか?」
「セフレと違うんですよ?」
「当たり前だろう」
「なんで私がいいのかって、訊いてもいいですか」

 普通ならば訊いて当たり前の質問を、ひどく遠慮がちに差し出してくる。それはそのまま、これまで彼女を雑に扱ってきたからこその問いかけだ。今までの接し方を鑑みれば結婚したいなど戯言にしか聞こえないだろう。だからといって、都合がいいから、とはさすがに言えるはずもない。

「なんで、か。そうだな……きみと一緒にいるのは疲れない。これから長く生活していく上でかなり重要な要素だと思わないか」
「疲れない」
「ああ。お気に召さないか」

 好きになったとか、きみとならいい家庭が築けそうな気がするとか、言い様はいくらでもあった。でも、オブラートに包むくらいはしても、ありもしない好意で飾り立てた言葉をやる気にはどうしてもなれなかった。

「正直ですね」

 仕方なさそうに口の端を引き上げた彼女は、ため息のように細く息を吐く。恐らくは彼女も気付いているだろう。この求婚に、熱情など一片もないということに。

「逆に訊くが、他に何が望みだ?」
「……婚約者がご入り用です?」
「きみも入り用だろう? このままじゃ実家からの見合い結婚まっしぐらだ」
「確かに実家の勧めでお見合いするのは嫌ですが、偽装結婚ならするつもりはないんです。私は随分長くそれらしいフリをして過ごしてたことがあります。だから、それがどんなに虚しいことかよく知ってます。もう何かを偽装して過ごすのはまっぴらです。少なくともちゃんと相手と向き合う、そのくらいの関係は築きたい。結婚するなら、そのたった一人を大切にしたいし、大切にされたいんです」

 たった一人。その言葉にざらりと心を逆撫でされた心地になる。どれほど望んでも大切にしてもその『たった一人』にはなれないから、こんな茶番を演じているのだ。

「ふうん。相手がいるから結婚したいんでなく、結婚をしたいから相手を探してるきみの口から『たった一人を』なんて言葉が出るのは意外だな」

 皮肉を込めて言ってやると、こちらを見つめる彼女がゆっくりと瞬きをする。
 そっか……と。微かな呟きは、自身の行いを振り返ってのことだったのか、彼女は仕方なさそうに小さく笑った。

「……結婚するなら」
「うん?」
「結婚するなら、他の人とそういうことはしないって約束してくれますか? さすがにこれまでみたいにいろんな人と付き合ってるのはちょっと……」

 別に不特定多数の女と寝たいわけではない。ひとりに絞って、相手に勘違いされるのが鬱陶しかっただけのことだ。だからと言って、この女に縛られるつもりもない。

「きみが俺を満足させていれば問題ないな。まあ、浮気はしないさ。面倒事はごめんだからな」

 何より、あまり不実な行いをして彼女に失望されたくはない。この期に及んでそんな風に考えてしまうあたり、諦めが悪い男と自身を嗤うしかない。

「今日この場で返事をとは言わない。かといって今更手を繋ぐことから始めるのもなんだしな」
「とりあえず、名前を訊いてもいいですか?」
「ふはっ、そういやそうだった。俺は──」
 
 
 
◇   ◇   ◇
 
 
 
「おかえり~」
 
 鍵を開ける音を聞きつけて、ぱたぱたと浮かれた足音をたてて玄関まで迎えにきた彼女の目に浮かんだのは落胆だった。
 これが嫌で、コンビニで何か買っていくか、と自宅近くで一度電話するのが常だったのに、初めてあの女──嵯峨野花奈(さがのかな)を家まで送り、今後についてなんとはなしに考えているうちに失念してしまった。

「なんだ、あいつはまだ帰ってないのか」
「もうすぐ帰るって」

 玄関に靴がないことを見るまでもなく、彼女の表情を見ればわかることを確認するように口にする。
 黒く長い髪を耳にかけながら門で出迎えてくれた時も、一途な瞳はあいつを探し、負傷の具合に一喜一憂していた。
 視線を避けるように上がり框に腰掛けながら靴を脱いでいると、「疲れてる?」と傍らにしゃがみこんで心配そうに覗き込んでくる。その姿が、あの頃の姿に重なって見えて、「いや、大丈夫だ」とふわふわと柔らかい猫のような濃茶の髪をひと撫でして逃げるように立ち上がった。
 
「悪い、電話するのを忘れてた。コンビニで何か必要だったか?」
「ううん。今日はシュークリーム買ったってメール来てたから大丈夫」
「そうか。夕飯は済ませたんだろ?」
「まだだよ。一緒に食べようと思って」

 その『一緒』に己が含まれていないことはわかっている。今日は夕食を済ませてくると言ってあったのだから当然のことだ。それなのに、なんとなく除け者にされたような気になるあたり、あの女の口にした『たった一人』という言葉は存外重く響いたらしい。
 
「ねえ、国兄(くににい)。昨日言ってた婚約者さん、いつ会わせてくれるの?」

 『鶴丸』と。もう呼んではくれない唇を見下ろす。いっそ奪ってやろうかと、何度も思った。
 彼女は何も覚えていない。転生とはそういうものだ。前世のすべてを忘れ、業と功とを織り交ぜた一生を与えられて新たに生まれてくる。
 ならばかつて付喪神と呼ばれた己は、こんな記憶だけ残されて何の為に生まれてきたのか。

「あの子は案外照れ屋でな。家族に紹介などと言ってもなかなかなァ」
「えぇ、そうなんだ。でも早く会ってみたいなあ。国兄が選んだ人。綺麗な人なんでしょう?」
「綺麗というより可愛い、かな」

 可愛いも綺麗もない。彼女以外の女なんて、全部大差ない。挿れる穴がついている、性別が女だというだけの存在だ。
 
「俺のことより、そっちは? 義母さんたちには電話(ほうこく)したのか?」
「プロポーズされたことはね、言った」
「喜んでただろ? 父さんは嫁に出さなくていいぶん安心しただろうが」
「あはは、それ言われた。他の男にやるくらいならって」
「だろうな」
「うん。国兄は言ってなかったでしょ? 国兄の後にするって言ったら、ふたりとも驚いてたよ」
 
 立場だけなら同じだったのに。全部を忘れて生まれてきても、彼女が選ぶのはやはりあいつなのだ。
 苦いものを感じるその背後で、がちゃりとドアが音を立てる。

「おかえり! 光兄(みつにい)!」
 
 俺を迎えたのとは違う、弾んだ声が玄関に響いた。